〔拾〕努力が報われることは稀。
「美咲先生」
「何です?」
「そろそろ帰っても?」
「お腹が空いたのね?」
いや。そうじゃなくって。
「あのね。立花君。もちろん、勉強は大切です。実社会に於いては、学歴も立派な資格ですからね。でも、世の中というものは、理屈で片付くことばかりではないのです」
誰より知っているつもりです。
と声を大にして言ってやりたくもあったが、僕は黙って頷いた。
「うふふ…。あなたの言うとおり、今日は本当に良い天気。ほうら。陽だまりに、小鳥まで遊びに来たりして」
縁側。床の間の僕ら二人と庭先に並んだ六人との間に小鳥が一羽、何処からともなく降りて来ている。
「はあ…。雀、…ではなさそうですね。雀は、これほど大きくないし」
「はい。しかし残念ながら、わたくしも鳥には詳しくありません。もしかすると、異国の渡り鳥かも知れませんね」
すると何を思ったのか美咲先生、庭先の六人を見、畳の縁を手の平で打った。
言うまでもなかろう。その物音で小鳥が飛び去る。瞬く間に。
「立花君?」
「何です?」
「見ましたか?」
「見ました」
「しっかり?」
「しっかり」
「…そうですか。なのに…」
それだけ言うと美咲先生は、どうにも腑に落ちないといった表情をして、悩んだように細腕を組んだ。
「…なのに、まったく動じない。要するに、頭が悪―――じゃなくって、頭が理解していないのね? 何が起きたかを」
「その逆です。理解しちゃったものだから、愕き過ぎちゃって、もう…」
小鳥は真っ直ぐに飛び立った。一切、微塵も躊躇うことなく、三つ編みの身体を貫いて。
素通りされたことが悲しいのであろう三つ編みは、両の手で顔を覆い、小刻みに肩を震わせている。
「そうですか。であれば、理解も易くなったはず。彼女達の姿は、万人の瞳に映るわけではないのです」
「と言われましても。その。僕は、万人の中の万人―――」
「努力や訓練ではどうにもなりません。だって、どれだけ頑張ったところで、猫は虎にはなれないでしょう?」
ですね。少女になれる猫ならいますが。
奇跡の蘇りを目の当たりにした村人達は、誰が言い出すともなく、少女のことを生き神様として崇め奉り、また、その地に新たな信仰が生まれました。
その際、老夫婦の暮らしていた家は跡形もなく壊されましたが、代わりに立派な社が建てられた。
しかし、そこまでして祀り上げはしましたが、当の少女は、そのことを良しとはしませんでした。
何故ならば、少女は過去の記憶を、丸きり完全に失っていたから。言うなれば、まったくの別人となっていたからです。
自分が何処の誰かも判らず、ただただ戸惑うばかりの日々。
なのに、神様だの奇跡様だのと腫れ物を触るように扱われれば、戸惑いばかりが増してゆき、また、そうした暮らしは、窮屈でしかなかったのでしょうね。やがて次第に人々を遠ざけるようになり、ついには、社から逃げ出してしまったのです。
けれども、少女に頼れるところはありません。
行く当てもなく、ましてや、狩りや漁が出来るわけでもない。
そうして何も口にせず、何日も野山や森中を歩くうちに衰弱し、やがては一歩も動けなくなってしまいました。
そこを、偶然にも良心的な若者が通り掛かり、虫の息だった少女を家まで運んで介抱。それがなければ少女の命は、そこで尽きていたことでしょう。
また、行く当ても記憶もない少女のことを不憫に思った若者は、どうせ再び行き倒れることは火を見るよりも明らかなので、すっかり元気になってからも、少女を家に置いてやりました。
やがて二人は結ばれて、何とも可愛い女の子を授かります。
夫婦の仲は睦まじく、貧しくとも、それはそれは幸せな日々。
…でしたが、それも十年が過ぎた頃、悲劇が起きてしまったのです…。
朝早くから柴刈りに出掛けた夫が、夕方になっても戻らない。
少女は夜通し床にも就かず、そわそわしながら待ちました。
しかし夜が明け、陽が昇ってからも、夫は帰って来なかった。
少女は居ても立ってもいられずに、幼い娘の手を引いて、山まで夫を捜しに行くことにしたのです。
それから二日後。少女は夫を見つけました。まるで干物のように乾涸びている、あまりにも変わり果てた姿の夫を…。
少女は悲しみに頽れ、子供のように泣き叫びながら夫の亡骸を抱き上げました。
けど、乾涸びたことで脆くなっていた亡骸は、真夏の海辺の砂のように、手から腕から零れ落ち、骨も残さずに形を失い、さらに、そこを強い突風が吹き抜けた。
風は何もかもを舞い上げてしまい、夫が最期の最期に纏っていた着物までをも、糸の切れた凧のように奪い去ってしまったのですから、不幸の他には言葉もなし。
少女は、残された腰帯と草鞋と幼い娘を抱きしめて、ただただ途方に暮れるしかありませんでした。
それでも、そうして放心したのは半刻ほど。少女は決心するのです。
塵々、気まぐれな風に舞い上げられた亡骸は、捜すことも拾うことも、どうすることも出来ないが、せめてせめて、せめて最期の最期、今際の際に纏っていた着物くらいは…。
少女は、飛んで行った方角の記憶を頼りに、後を追いました。
ところがです。どうしても着物が見つけられずに、娘と二人で何日も捜し歩くのですが、その道すがら、夫と同じように乾涸びてしまった亡骸を、幾つも目にすることとなったのです。
一体、何が原因か。しかし、世の中で何か恐ろしいことが起きていることだけは間違いありません。少女は、一刻も早く着物を取り戻そうと、幼い娘の手を優しく引きながら、それでも必死に、急いで捜し歩きました。
すると、奇しくも自分を生き神として祀った例の村の外れまで、いつの間にやら来てしまっていた。
しかも、そこで目にしたものは、凄惨の一言。
そう。大人も子供も男も女も、乾涸びた姿に変わり果て、それが幾つも転がっていたのですから。
辺りに人の気は皆無。何が起きたか訊ねようにも、人っ子一人見当たらない。
呆然と立ち尽くしていると、何処か遠くの方で叫ばれた断末魔が鼓膜を震わせ、少女は恐ろしくなり、慌てて逃げようとしました。
けれど、何処へ逃げれば良いというのか…。
そこで少女は、かつて自分が逃げ出した社へ向かうことにしたのです。
あの社なら、隠れられるところも沢山あるだろう。それに、まだ生き残っている人達がいれば―――ううん。きっと、いるはずだ。
そんな思いを胸に、少女は娘を背負って懸命に走りました。
そうして息を切らし社に着けば、何と、少女が予想していたよりも遥か遥かに、大勢沢山の人が逃げ込んでいたのです。
相も変わらずに、あどけない少女の姿を認めると、警戒して隠れていた村人達は我先にと飛び出してきて、泣きながら縋りながら、少女に助けを乞いました。
少女は困惑しながらも、村に、この一帯に何があったのかを訊ねます。
あの無惨な亡骸は何です? 流行り病ですか? それとも獣が?
ところが奇妙なことに、その真相を把握している者は誰一人としていなかった。
村人達の言うことを整理すると、乾涸びてしまった人々は、突然、何かに驚いた様子で慌てて逃げ出し、しかし、突然ぴたと足を止め、まるで草花が凋むように、見る見るうちに枯れてしまったとか。
つまり、その状況を目の前で見ていながらも、何が起きたのかを誰も理解してはいないと言うのです。
けれど、乾涸びてしまった者達の行動から察するに、直前に何か恐ろしいものを見たことは明らか。
その噂は瞬く間に広がり、誰も彼もが神様に救いを求めて、社へ逃げ込んだとのことでした。
また、そこへ少女が、かつて生き神様として崇めた少女が、機を見計ったように戻ったわけですから、恐怖で頭一杯の者達が少女に救いを求め―――むぅ?
「なるほど。まあ、その恐ろしい何とやらは、妖鬼で間違いないとして。しかし、その姿を見たのは襲われた者だけ。それだと証明するのは難しいですね。それが、妖鬼の仕業であると」
「わかりますか?」
「は?」
「それがどういうことか、わかりますか?」
いや。わかるも何も、そのままじゃないか。
姿を見たのは襲われた者だけ。襲われなかった者は何も見て…。
「あ。そうか。裏返せば、姿を見ていない者は襲われなかった?」
「うふふ…」
美咲先生は、何故か満足そうに微笑んだ。