〔前編〕痛くされて悦ぶのって、多分、一生わからない。
不意に幼女の声が轟く。それは僕の頭の中で。
…いや。厳密には、意識の中でと言うべきか。
「これ。小僧。ぼさっとするでない。赤い手玉も、さっさと投げんか」
一見、道場のように広々とした空間。
歩く度に、みしみしと耳障りな鳴き声を奏でる、年季の入った板敷きの部屋。
また、同じく年季の入った板張りの壁には、ぐるりと幾つもの燭台が設けられており、ゆらゆら揺れる蝋燭の灯りが何とか辛うじて届く奥のほうには、御本尊様と思しき像が寡黙に鎮座ましましている。
漆黒の闇中を、緩やかな下り坂道を、そこそこの距離を歩いて辿り着いた。
なるほど。とくに疑う理由はない。ここが本堂というのは本当だろう。
が、よおく周囲に目を凝らして見れば、蝋燭の炎は何やら文字を紡いでいたり、天井に描かれた龍の目玉が、時折ぎょろりと動いたり。
つまりだ。この異様な光景は、如何に自分が場違いで、如何に分不相応なことをしているか、そいつを示してくれている。
ま、だからちゅうて逃げ出せるほど、やわで甘ったれた状況ではないが…。
「小僧っ! 早よせいっ!」
赤袴。巫女様の衣装を身に纏う、まるで座敷わらしのような幼女に責っ付かれた僕は、片膝をついて蹲る目標のことを、右手に赤い手玉を握り締めながら真正面に見た。
「立花さん? 大丈夫ですよね? わかってますよね?」
再び僕の意識の中で、じつに柔らかく穏やかな声が問い掛ける。
声の主は、この何とも出鱈目な部屋を訪れる前、ほんの一時間ばかし前、一堂に会した床の間にて唯一『ゆつきさよです』と名乗ってくれた女性である。物言いと同じく物腰も静かで、三つ編みに束ねられた艶のある黒髪と、ちょっぴり垂れ目なところが好みだ。
「要領は、先ほどと同じ。いいですね?」
確かめるように念を押されはしたものの、今一つ意味が解せず、赤い手玉に目を落としながら、その首を捻ろうとした―――途端、空かさず釘を刺さしてきた。
「投げた後は、すぐに手鏡を。でないと、巻き込まれちゃいます」
目標に手玉を投げつける。そのことにばかり意識が向き、すっかり後先のことを忘れていた僕は、知らず知らずのうち力一杯に握り締めていた左手、その手鏡に、自分の顔を映して見た。
ほほう。恐怖に緊張しているとき、僕はこういう表情なのか。
「ちょいとちょいと。小僧さん。わかってんのかい?」
「何をしているの。回復されたら意味ないわ」
その叱責も、やはり意識の中で。姿を見ずとも、声だけで判る。姐御に化学と。
「あんまし、もたもたしなさんな。ぐずな男は嫌いだよ」
「キミは言われた通りにすれば良いの。投げなさい。今すぐ」
ちなみに、姐御も化学も、僕が勝手に付けた渾名だ。
姐御は、結上げた髪に江戸小紋を長襦袢なしに着崩し、歯に衣を着せぬ物言いが爽快。切れ長で涼しげな目元が色っぽい。
化学は、所々に薬品液の染みた白衣を羽織り、話しながら米神に指を当てるのが癖らしく、縁なし眼鏡の美人だが、少し神経質そうだ。
座敷わらし。三つ編み。姐御。化学。
殆ど共通点のない、まったく個性的な輩であるが、じつは他にも、日傘の令嬢、さらには女子と渾名した、これまた強烈なのがいる。
「小僧。良いな。小夜が申したとおり、投げた後が肝心じゃ。しかと用心いたせ」
「何だか、投げるのが怖くなりますね。ここまで何度も念押し―――」
「早よ投げいっ!」
僕は手鏡を突き出すような姿勢をとり、しっかりと狙いを定めて手玉を放った。
一拍の後に閃光を放ち、周囲を赤々と照らして、音もなく爆ぜる。首尾上々。
のはずが、どうやら微妙に手鏡の角度が悪かったらしい。その真っ赤な閃光は、僅かに僕の右腕を掠めた。
猛省。もしここが真っ暗闇なら、右腕が千切れたと思っただろう。叫ぶどころか呼吸も出来ない。それくらいの激痛である。
「やれやれ。中々でござるな。そなたも中々。中々に、困った御仁にござる」
姿こそ、二刀を差した総髪の武士。
が、どれだけ晒を巻いたところで、胸の膨らみは誤魔化せない。
小柄な上に線が細く、ま、本人にしてみれば? きっと、野太い声を繕っているつもりだろうが、どう頑張ってみても、所詮、無理なものは無理なのだ。
つまり、武士ではない。女子である。
「あれだけ忠告をされたというのに、一体、何を聞いていたのやら。そなたの耳は飾りでござるか」
もっと他に言うことあるだろ。
「兎に角。彼奴が半死半生の今こそが勝機。寝ている場合ではござらん」
こちらも半死半生なのだが。
「なあに。痛みはあれども、傷は無し。軽く小便でも掛け―――」
「あら? わたくしをお忘れですの?」
日傘の令嬢。ふりふりとした真白い服で全身を着飾り、会話全般、一々疑問口調なのが苛っとくる。しかも、こうして意識に直だと尚さらだ。
「さ。筆を、お出しなさい? 楽にして差し上げますわよ?」
肉体的な痛みに関しては、かなり我慢強いほうだと思う。
だが、これはもう別次元。無心だとか忍耐だとか根性だとか、その手の精神論で誤魔化せる範疇を、遥か遥かに凌駕した極痛。
筆を出すには負傷した右手を懐へと伸ばさなければならず、それを思うことが、もう苦痛。こうして意識と正気を保っているだけでも、我ながらに感心する。中々どうして、大したものだと。
「よろしいこと? わたくしが詠み上げる言霊を、追って詠唱しますのよ?」
ことだま…?
「詠みますわよ?」
まあいい。それで痛みが失せるなら、経でも何でも読んでやる。
静なることを正となし、花散りゆくは、それを認めん…。
盛なることを正となし、風吹き抜けて、花咲き乱れん…。
ああら不思議。ぽぅ…、と筆の毛先が、ぼんやり白い光を帯びて、自然と勝手に何やら書き出す。あれよあれよと、全身を光の文字が埋め尽くし、いつの間にやら耳なし芳一。
さらに不思議なのは、痛みという痛みが悉く鎮火したことだ。
筆? そんな物で何が出来る。こいつ、ふざけてやがるのか?
と正直、そんなふうに思っていたわけだから、ここは素直に感謝の一念。また、愕きと感動である。
しかし、それも束の間。直後に嫌なことを聞かされた。
「あら? そんなの当然ではなくって? 効力は、言霊が光を帯びている間だけ。もちろん言霊が長ければ長いほど効力も長く持続―――と親切丁寧に説明して差し上げている傍から、すでに砕け始めていますわよ?」
なぬっ?
「まずいでござるな…。こうしている間に、彼奴も回復。あの様子では、直に立ち上がるでござるぞ」
なぬぅっ?
僕は跳ねるように起き上がり、逃げ出すように壁の際まで這って退いた。
「…まったく。手の掛かること…」
びくびくしながら手鏡を盾のように突き出している僕の意識に向け、呆れ気味の深い溜め息を吐いてから、冷たく厳かに化学が告げた。
「キミ。時計を出しなさい。今すぐ」