10
「ナズさん! あなたは――」
「エリ! その人には近づいちゃ駄目!」
様子がおかしいのは明らかだろう。
根も葉もない噂がケークエイクで蔓延っているのかもしれない。
私は人々の視線をあまり気にしないように、淡々と港に向かって歩いた。
そして、いつもの売り場に着いた。
一応、いつも通り長机と椅子が置いてあったので、それを使わせてもらうことにして、薬を袋から取り出す作業をしていた。
そうしていると、先ほどの少女が長机の前まできて、私にまた話しかけた。
「ナズさんは……」
「……何?」
「ナズさんは」
『――本当に魔王のお友達さんなの?』
「――?」
思考が追いつきそうで追いつかない。
何がどうなって私が魔王の仲間扱いを受けているのかがまるで分からない。
そもそも魔王になんて会ったことすらないし話したことすらない。
そもそも、私なんかに見向きはしないだろう。
『そうそう――そいつは魔王の手下さぁ、お嬢ちゃん』
奥から、頑丈そうな鉄の鎧を身に着け、片手には綺麗な光沢の紫色の剣を持っている男性が、自身に満ち溢れた顔で私へと近づいてきた。
「嬢ちゃんは下がってな……俺がちゃちゃっと殺して、この港町に平穏を取り戻して見せるからよ」
「……うん」
少女は悲しみの表情を浮かべて、心配する母親のもとへと駆け寄っていった。
「さぁて……まさかお前自らやってくるとはなぁ……」
「その前に一つ、訊きたいことが」
「あ?」
「何故、私は魔王という存在の手下として扱われているか」
「そんなの――」
『――お前という存在が邪魔だからに決まってるだろ?』
その男性は、確かに、私にしか聞こえないくらいの声量で、目を見開き、悪魔のような笑みを浮かべてそう言った。
「お前がいるせいでさぁ……俺が、せっかく、こっちの世界に『最強の存在』として『転生』してきてやったに、お前みたいな有能な奴がいると、名をあげられないわけよ。それに、こんな辺鄙な島には魔王なんてこねぇしさ? だ、か、ら、さ。お前をいっその事、魔王の手下という風に決めつけ、この島を監視していると町の人に信じ込ませて、俺がお前を倒す……そうすれば、俺は恰も『勇者』だろ? そうすれば、俺の知名度は上がるよな? この町に魔王に一々確認しに行く馬鹿なんていないだろうから、バレることはないしな」
「……噂だけじゃ、信じ込ませることなんて――」
「……ああそうだ。噂だけ言っても、俺の話に見向きもしねぇ連中だった。だけどな……『実行』してやった」
「実行……?」
その男性は、手の小さな私でも掴めるほどの、水色や褐色の交じり合った液体が入っている小瓶を取り出した。
「――!」
衰弱毒アルペドプチンは、あろうことかその男の手に渡っていた。
「なんで……それを返して……!」
私は机越しに、男の手に握られている小瓶を取ろうとした。
しかし、男は手を遠ざけたため、奪い返すことはできなかった。
「お前がだいぶ前に来た時に、跡をつけていたら、これを落としたのを見てなぁ……これを一滴植物にかけたら、見る見るうちに枯れて行って、その周辺の草木も枯れていったわけだ。これは凄いと思って、あの子のババアに、ナズからの薬だと言って使ってあげたらなぁ……どうしたことか、始めは安定してたんだけど、その内意識を失って――」
「――っ!」
私は長机を蹴り倒し、その男を睨みつけた。
倒れた拍子に、万能薬の入った瓶が地面に落ち、次々に割れていき、中の液体が全て出て行った。
男はそんな私の様子を見て、耐えきれなかったのか、大声で笑いだした。
「ハハはははハはハはははハは! その様! 無様! ああ、これが、『人を殺した者の姿』か! 傑作だな! はハはハハはハハははハははハ!」
「わ、私は誰も殺して……!」
「でも、これを持ってきたのは、お前、だよな?」
「それは万能薬の……」
「あーあーははは、言い訳なんて聞きたくもないねぇ……この人殺しが!」
…………。
「なぁ? 少女よ、町の人々よ! この町を脅かす存在であるこいつは、殺してしまった方が『平和』だよな?」
この騒ぎを聞きつけ集まってきた町の人々、終始その場にいた人々、仕事をしていた人々が足を止め、皆、弱く、小さく、頷いている。
そして、人々はまた、コソコソと話をした。
「あの女が悪いのか――」
「あいつがエリちゃんのばあさんを殺したんだ――」
「あいつが来ていなければ、この町は平和だった――」
「全ての元凶はあいつにある――」
「狡猾な殺人者には、正当な処罰を下せ――同じ苦しみを味合わせるのだ――」
嗚呼、次はよく聞こえる。
もう、ここには『私の味方をする人は誰もいない空間であるという証明』がされてしまったから。
長年、そう、もう百年になってしまうだろう。
そこで築き上げてきた信用という甘い蜜は、時間という、不可解でしようのない『紙』を経て、濾過されていって、薄められていき、零れ落ちてきたそれが『普通』の液体へと変化してしまう。
それも、一瞬で。
今までどれほどの人々を救ってきたのかも不明で、その人たちがどのように過ごしているかも分からない。
死んだかもしれないし、生きているかもしれないし、把握できてない。
……実感というものは今まで人々の間に存在していなかったのだろう。
私が来ることが、長年の間で培ってきた名誉も信頼も、全てが普通になってしまい、私が知らぬ間に『ナズは人々を救うためにやってきた存在』として、当たり前の者として認知されてしまったのかもしれない。
だから、私の影響によって『死人が出た』ということを今実感した人々は、私の存在意義すら忘失してしまい、人間を救済する存在ではなく、『人間を簡単に殺すことのできる薬の持ち主』として、歴史に無理やり刻み込もうとしているのだろう。
――信頼というものは、我儘だ。
知りもしない人間が勝手に実行し、私に罪を擦り付けたのにも関わらず、人々の中に芽生えた、『私への信頼』を抜き取っていき、最後には跡形もなく消滅させ、次に『私への不信感』、『私への嫌悪感』を勝手に植え付け、一瞬で悪の存在へと認識を変えさせてしまう。
人々は、まだ小声で何かを言っている。
それは、自分たちには関係がないという、心にもない『怒り』を、口先だけで表しているような醜い言葉だらけ。
そんな中、そういった言葉は、少女からは聞こえない。
”私に”おばあちゃんを殺された恨みがないのか? 私を憎悪の対象にしているのではないのか? それが、少女の口からは何も発せられない。
親の口からは『殺せ』という言葉が出ているのに。
「さぁて……それじゃ、皆さんご希望の通り、とっととやっちゃいますかぁ!」
いきなり、男は私に剣を横に振ってきた。私は何とか避けて、ネオクリスタを手に持つ。
「そんなちいせぇ石ころ持ってどうすんだ、あぁ?」
私はネオクリスタに魔力を注ぎ込み、自分の家を思い浮かべた。
「――! 逃げるつもりか! この『魔女』めが!」
「……あなたは絶対後悔する。また来る時まで、さようなら」
男は焦ったのか、私に向かって持っている剣を投げてきた。
しかし、その剣が私に到達する頃には、私は既に家の前にいた。
空が曇り、雨がぽたぽたと天から降り注がれている。
何も話さず家の中に入った。
家に入ってから、私の頬を伝って一粒の水が目から流れ、床に落ちていった。
「……?」
どこからか雨漏りでもしているのではなかろうかと、天井を見上げた。
雨漏りしている部分は一つもない。
とすると、この水は……? 塩気のあるこの水は一体どこから出ているのだろう。
……感情を打ち消したこの姿に、何が起こっているのだろう。分からない、分からない――
私はその真意を知るため、返信を解き、元の魔女の姿に戻った。
「…………」
おかしい。先ほどよりも水が滞りなく頬を伝っている。
力も一気に抜けて、床に座り込み、両手を床につけて俯いている自分がいる。
水は頬を伝うことなく、『目から』落ちていく。
――これは涙。『あの時』に感じた怒りと悲しみの涙よりも、もっと辛いものから生まれる涙……。
木製の床が涙を吸って、少しずつ広がっていって、また色が一段と濃くなっていく。
涙の量が多くて、視界がぼやけてきた。
ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……今、この姿で考えて漸く分かった気がする。
何十年も前に、保護の為に捕らえた蝶々等が、その何十年の時を経たにも関わらず、一瞬の突然変異で羽を刃に変形させて、蜘蛛糸を全て断ち切った。
嗚呼、その通り。全く以て間違いはないだろう。
その瞬間から、私は『その場所』で糸を紡ぐことのできない蜘蛛になってしまった。
罪という名の錘に押し潰されて、私という存在は蝶々等の記憶から完全に消滅してしまい、その上に、私への憎悪という形で変現してしまった。
今、私は生きているだろうか。
いや、厳密には生きているけど。
――私は存在意義を殺された、あの男に。
私は、孤独な家屋の中、部屋の片隅に独りで座り込み、時の流れを待ちながら、一瞬で消失したあの全てを反芻し、すすり泣いた。
次話もよろしくお願いいたします!