10話 アルス、良いことを思い付く
本日は教育実習の最終日、終了直前に予定を変更し、ミリス達がささやかなお別れ会を開いてくれていた。
主賓はもちろんアルスメリアである。公平で、勇敢で、聡明で、慈愛に満ちた(と勘違いされている)少女は皆の人気者となっており、手厚い歓待をうけていた。
一方で立場的には一番偉いはずのナインデス男爵には塩対応がなされていた。先日ミリアと決別し、バンデット公爵の密命を遂行できていない焦りから不機嫌さを漂わせるハゲオヤジは子供達からも敬遠されたのだ。
と、そのようにストレスをためているナインデスが空気を読まず一人だけ酒を飲み、トイレが近くなったので、立ち上がろうと勢いよく椅子を引いたところ、飲み物を運んでいた幼女とぶつかってしまう。
結果、
――ばしゃっ!
軽やかな水音と共に、ナインデスの頭は盛大に水を被ることになった。
周囲が一斉に息を飲み、幼女本人も、ぬれた薄毛がペタリと張り付いたナインデスの頭に目をまるくする。彼女はこれまでアルスメリアのことしか見ていなかったので、突如として目の前に飛び込んできたハゲ頭にびっくりしたことだろう。
「あ……ご、ごめんなさ」
しかし、幼女が最後まで言葉を紡ぐよりも早く、
「キ、キサマ、わざとやりおったな!こっちへこい、厳しく折檻してやる!」
「ひっ……」
ナインデスは怒声をあげた。幼女が恐怖に顔を歪める。
その直後、二人の間に人が割り込んだ。アルスメリアである。
「男爵、彼女はわざとやったわけではありません」
「知ったことか!これは教育だ、止めることは許さんぞ!愚か者は痛みがなければわからないからな。」
「失礼ながら……愚かなのは、今の貴方です。」
「なら、殴ってわからせてみせろ。言っておくが、あくまでがワシやろうとしているのは子供への教育だの範疇だぞ。だが、キサマの場合そうはならん、正当な理由なく評価者に暴力を振るったとして実習が不合格どころか、学院だって退学処分だ。」
そうなの?とアルスは従者の方をみる。
エドワードは苦々しくうなずいた。
「はい、個人的に思うところはあれど、規則、権限上はそうなってしまいます。」
彼にとって、これこそ最も避けたかった事態だ。
アルスメリアは、なにかを思案するように立ち尽くしている。
それはそうだろう。慈愛に満ちた彼女にとって、幼い少女が理不尽に折檻されるなど、容易には受けいれられないはずだ。
しかし、受け入れなければ、彼女はようやく巡ってきた貴族社会復帰の糸口──祝福の人生を投げ捨てることになるのだから。
先程まで穏やかだった食堂の空気が、今や渦巻くほどの怒気と緊張を孕んでいた。
にもかかわらず、ナインデスはそれを酔いの蛮勇のもとに無視して言葉を続ける。
「ははは! しかし心配するな! 仮に学院にいられなくなろうと、何か生きる道はあるだろう! 冒険者になるなんてどうだ? 野蛮で無学な連中しかいないだろうが、なに、彼らに紛れて過ごす生活というのも、きっと楽しいだろうよ!」
(…………ん?)
アルスは、ふと目を見開いた。
彼の言葉にも、一理あるように思われたからである。
(……待てよ?)
アルスは、緊迫した状況であることも忘れ、素早く思考を巡らせた。
(退学になるって、大変なことだと思ったけど……全然問題なくね?)
そりゃあ学院生活も悪くはなかったが、結局初等部との交流とかはなかったし。そもそも、入学したのだって推薦人の顔を立てるためだ。自分からやめると言うと角がたつから、卒業まで在籍しろと言う話だったが、もしこのまま、男爵を殴ってしまえば、もれなく自分は退学処分になるだろう。
それは取りも直さず、大手を振って学院を出ていけるということではないか。しかもこちらには幼女を守るためだったという大義名分までつくのだ、それならば、メリアからの依頼を裏切ることにはならない。
素晴らしい閃きを生みだした自分に感動し、瞳が潤む。
(いい! 素晴らしい!! 一点の曇りもない、完璧な筋書き!)
「なんてな。そんなことできまいて!結局キサマも我が身が一番可愛いものなあ!ワシが感じていた元々もっていたものを失ってしまったという屈辱、今後さらに失うかもしれない恐怖が少しはわかっただろう?さあ、わかったらさっさとどけ!」
視線の先では、まだナインデスが、一方的な言説を披露している。彼は、話せば話すほど興奮し、しかもそれを誰からも止められないことで、自分の立ち位置にすっかり酔ってしまっているようであった。つい、日ごろの鬱憤まで吐き出してしまう。
しかしアルスはそれにも答えずに、服から学院生の象徴であるバッジを取った。それ床に放ると、勢いよく右手を振り上げた。
「アルスメリア様……!?」
叫んだ声は、誰のものであったか。
アルスは不敵な笑みを浮かべると、
「――いいえ、できます」
ひゅっと風切り音をならしてを鳴らして、一気に。
男爵の顔面へと平手打ちを叩きこんだ。




