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『あら、どうしたのかしら?』
「そんなに怖がっちゃって……」
小部屋の扉の前にいるリョウコを、カワウソカフェの店長と1頭のカワウソはいつもと変わらぬにこやかな笑顔で見つめ続けていた。だが、その愛らしさと美しさを併せ持った顔からは、ずっとリョウコが感じ続けていた優しさは微塵も感じられなかった。まるで獲物を油断させ、こちらへ誘い込ませようとする捕食者のようであった。今すぐここから逃げないと大変な事になる――そう何度も何度も思い続けながらも、彼女は扉を開くことが出来なかった。目の前で繰り広げられている、今までずっと信じ続けてきた『常識』が根底から崩れていくような出来事を、頭の中で整理しきれなかったのだ。
当然だろう、ごく普通のカワウソが人間の言葉、それも店長と全く同じ口調で語りだすなんて事、あり得るはずがないのだから。
「ど……どうして……どうなって……」
何がどうなっているのか、自分は何を見て何を聞いているのか、理解できずにただ立ちすくむばかりの彼女に、店長とカワウソは口を揃えて告げた。例え受け入れがたくとも、目の前の真実を受け入れざるを得ない事が、人生の中には必ず訪れるものだ、と。
「そうね、例えば……」
『ええ……私の人生で例えるなら……』
同胞が1頭もいないと言う宣告を、人間たちから一方的に告げられた時だ――店長の声が重なり合い、左右の耳から入り込む響きに、言いようがない恐怖に包まれたリョウコは腰を抜かし、扉を背もたれにへたり込んでしまった。彼女は目の前にいる店長、いや『店長』のような姿をした何かの本当の姿を薄々想像することまでは出来た。先程から続いた話の中で店長自身がはっきりとその正解を教えてくれていたからだ。しかし、それ以上の事――店長のように、自分の目の前で起きた常識外れの出来事、信じたくない出来事を受け入れる事だけはどうしても不可能だったのである。
目から恐れの涙が浮かび始めてもなお、リョウコは立ち上がる事が出来なかった。
「い、いや……店長……来ないで……」
『あら、それは失礼じゃないかしら?』
「相談に乗ってくれ、って言ったのは貴方じゃない?」
「で……でも……私は!ちゃんと動物と触れ合うマナーも守ってたし……!それなのにどうして……」
『マナーを守る、それは大事ね』
「でも、それだけで逃げられない現実もあるのよ?」
「そ……そんな……!」
こんな事なんてあり得ない、あまりにも理不尽すぎる――すっかり恐怖で顔がこわばり、声にも嗚咽が混ざる彼女を見つめていた『店長』やコツメカワウソの姿をした何かの表情は、次第に笑顔から哀れみ、それもか弱い動物を悼むようなものへと変わっていった。まるで、この状況を受け入れようとしない彼女そのものの存在を可哀想だ、と『見下す』かのように。その目線を拒絶しようと必死に顔を動かそうとしたリョウコであったが、左を向いた彼女の視界に飛び込んできたのは、いつの間にか傍に移動していたあのカワウソであった。
そして、もう一度愛くるしい仕草を見せ、口元に笑顔を作ったそのカワウソは告げた。
そんなに目の前の真実に納得できないのなら、最良の方法を教えてあげよう、と。それは――。
『貴方も、私の仲間に加わりましょう?』
「……い……いやあああああ!!!」
――耳元で呟かれたその言葉で、リョウコは店長から出された、すべての常識が吹き飛んだこの現実を受け入れてしまうという案を完全に拒絶した。このままだと自分という存在が常識外れのものに侵されてしまう、下手すれば命すらも消えてしまうかもしれない、と言う恐怖に全身が包まれた彼女は、何とかドアノブに手をかけて扉を開き、店長とカワウソが佇む部屋から一目散に逃げだした。背後で1人と1頭が異常なほどにこやかな笑顔で見送っている事を知る余裕は、リョウコに一切残されていなかった。
明らかに入ってきた時よりも長さが伸びている廊下を懸命に走り、転びそうになっても何とか耐えながら駆け続けるその姿は、まさしく肉食動物に追われる『獲物』そのものだった。そして、息を切らしながらたくさんのカワウソたちが佇むカフェがある部屋に飛び込んだ時、彼女の目に飛び込んできたのは、カワウソたちと触れ合いながらスイーツやドリンクを頂き続ける3人の友達――カワウソカフェの常連になって以降、次々に様子がおかしくなっていった女子たちだった。そんなに息を切らしてどうしたのか、と普段と変わらぬ暢気で陽気な言葉をかける3人に、リョウコは必死の形相で告げた。今すぐここから逃げて、と。
「えー、どうして?」「こんなにカワウソ可愛いのにー」「そうだよー」
「駄目!!今すぐここから出ないと!!大変な事に……」
「ちょっとリョウコ、駄目だよそんなに大声出しちゃ……」「カワウソたちが可哀想だよー」「カフェのマナー違反じゃん?」
そんな事を言ってる場合じゃない、と声を出し続けたリョウコであったが、次の瞬間、彼女の背筋は完全に凍り付いた。目の前にいる3人の友人――いや、このカワウソカフェを訪れる前までリョウコの友人で居続けていた3人と同じ姿かたち、同じ声ををした何かが――。
「動物がいる前で、大声を出しちゃダメ……』「前にそう注意したのは……』「リョウコちゃん……』
『『『貴方でしょう?』』』
「……!?!?!?」
――カワウソカフェの美人店長の声で、語りかけてきたのだ。
いや、彼女たちばかりではなかった。いつの間にかリョウコの傍に現れたカワウソカフェの店員も、周りのケージでじっと彼女を見つめ続けているカワウソたちもまた、静かにその口を開き、声を発し始めた。
『そんなに怖がらなくてもいいのに♪』『私たちは可愛いカワウソよ♪』『そうそう、もっと楽しみましょう♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』『リョウコちゃん♪』…
あの店長と、まったく同じ声色で。
「いやあああああああああ!!!!ああああああ!!!!」
そして、完全に常識が通用しない空間を飛び出し安全で安心した暮らしができる現実の世界へと逃げ出そうと、カフェの扉を乱暴に開いたリョウコは、一目散にカワウソカフェから逃げ出そうとした。こんな場所にはもう二度と行きたくない、店長もカワウソも見たくない、誰も友人なんて信じない――今にも崩れ落ちそうな心を懸命に抑えながら。しかし、僅かだけ残っていた希望は、扉の向こうに広がっていた景色によって完全に打ち砕かれた。
そこにいたのは、カフェを営む美人店長だった。同性でもつい夢中になりそうな美貌を持ち、肩に可愛らしいカワウソを乗せながら、常連客のリョウコをにこやかに眺める、見慣れた姿であった。たった1つの大きな違い――。
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「ふふ、どこに行くのかしら?」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
――見渡す限り、道という道、建物という建物の全てが、『店長』で覆いつくされている、と言う事以外は。
リョウコに出来る対抗手段は、完全に潰えた。青ざめながら力なく座り込み、声も出ずに涙を流し続ける彼女の周りで、カフェの店員やカワウソ、そして3人の友人も、ゆっくりとその姿を変え、本来の姿を取り戻していった。やがてリョウコの周りは、店内も含め見渡す限り全てが、同一の姿形をした美女とカワウソによって埋め尽くされていった。その逃げ場を全て封じるかのように。
心が折れた彼女には、『店長』の肩に乗るカワウソの姿まで大きく変貌している事に気づく余裕など一切残されていなかった。カフェで飼育されているはずのコツメカワウソと呼ばれる種類はこんなに大きくなかったはず。それに『コツメ』と言う名に反して、数えきれないほどにまで増えている『店長』全員の肩に乗るカワウソには獲物を引き裂くような鋭い爪がはっきりと見えている。そして何より、そのカワウソからはどこか懐かしい雰囲気を感じるはず――最早リョウコにそれを調べる事は出来なかったが。
やがて、彼女のもとにそっと歩み寄った1人の『店長』は、最後に1つだけ、とっておきの真実、この世界の本当の『常識』を教えてあげる、と告げた。その言葉に対し、リョウコは一切抵抗するそぶりを見せず、ただ目の前を覆いつくす存在達のなすがままであった。そして――。
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「ニホンカワウソは、生きてるわ……」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「……貴方の近くに、数えきれないほどね」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
――無限に重なり合うその声を耳に入れたのを最後に、リョウコは『美人店長』の大群と言う名の底なし沼へと静かに沈んでいった……。