二章 非現実
◇
「焔ー! こっちこっち!」
駅を飛び出し、手招きする禍女。
名前を教えたら、早速呼び捨てだ……一応年上なのに……。
自らの狭量を恥ながらしばらく進むと、閑散とした商店街に到着する。
辺りはすでに薄暗く、通りはどの店も閉まっていて、誰一人見当たらない――。商店街自体が機能しているのかを疑ってしまう程だ。
前方に視線を遣ると、遠く先の禍女が街灯の下で再度手招きをしていた。
スマホを見ると、19時を回っている……ちなみに受信アンテナは圏外。
八ツ木ヶ原駅ぐらい何もない場所ならわかるが、このくらい開けていても電波の受信はよくないらしい。
そのとき一軒のタバコ屋に設置された、ピンク色の公衆電話へと目がいった。
しかもダイヤル式。
緑のプッシュボタン式しか見たことがないのでとても新鮮だ。
そういえば、公衆電話自体使ったことがない。その存在は必要ないようにも感じられるが、災害のときに役立ちそうではある。
「焔! こっちって、言ってるでしょ!」
古臭い商店街に気を散らしていると、前をいく禍女が痺れを切らして声をあらげてきた。
年下に怒鳴られた僕は、渋々禍女の後を辿っていく。
あまり――いや……、かなり関わりたくないのだが、泊まれる場所を提供してくれるらしいのであまり邪険にはできない。
交換条件として、裏苑という呪われた人間に会うことーーそれに関しては、恐い気持ちもあるが会ってみたい気もするので了承した。
夏祭りの『あの人』を思う。
本人だったら――と。
十年前のあの日から、『あの人』とはもう会えないと思っていたから。
淡い期待を抱き、小さな少女の後ろ姿を追いかける。
商店街を抜けて、立ち止まっている禍女をようやく追い抜くと、いきなり視界が広がった。
そして血が広がる――。
暗くなっていようとも、それが血だとわかる。
赤々と――。
赤黒々と。
その中心には横たわった人影。
「ちっ」
禍女の舌打ちを背中越しに感じた。
血溜まりのなか倒れている人に、僕は駆け寄ろうとするが足が動かない――。
倒れている人と、その傍らに屹立する人らしき者の光景に、戦慄を覚えたからだ。
それは――通常の生活を送っていれば、まずお目にかかれない凄惨な光景。
何かが喉元まで這い上がってくるのを感じて、口を両手で押さえる。
禍女より一回り小さい人らしき者は、血塗れで、右手に何かを握っている。
それはだらりと垂れ、倒れている人の腹部へと繋がっていた。
かろうじて繋がっているソレは、とても細々としていて――、
とても千切れかけていて――、
トテモミルニタエマセン。
地面ガ傾ク――
「あんたねぇ、いい加減にしなさいよ」
禍女が、屹立する人らしき者に向かって苛立ちをぶつける。
その強い語気により、僕の失いかけた意識が持ち直す。
目を凝らして見ると、人らしき者は人らしき形をしてはいるものの、
口は裂け、
目玉は飛び出さんばかりにギョロギョロと動き回り、
頭にはおよそ均等とは言えぬ間隔で角のような瘤がいくつも並んでいる。
ぶらぶらと揺らした手には、とても鋭そうな爪を光りちらつかせていた。
人らしき者、
いや――化け物は、裂けた口許を更に裂けたかのように口を開く。
低く、酷く潰れた声で――
「禍女――ソイツハ……誰ダ? 人間カ?」
「ええ、人間よ。あなたには関係ないただの人間。だからそこを通しなさいよ」
お互い知っているといったやりとり。
通しなさいと言った禍女の言葉で、辺りの状況を遅蒔きながら知ることとなった。
視界が広がったが別段道が広いわけではなく、車一台通れる程度の幅。
その道を挟んで、ひまわりが咲き誇る畑が広がっている。
太陽が照りつける日中は、青空をキャンバスに鮮やかな黄色が彩られることだろう……などと、悠長に構えてはいられない。
今すぐにでも逃げなければ……化け物からは、危険な気配しか漂ってこない。
「ソノ人間……ウマソウダ」
うまそう……?
僕を食うのか?
その倒れている人も食うつもりなのか?
ぶつんと、嫌な音が鈍く脳内に伝わる――化け物が右手を上げ、つかんでいたモノを引き千切ったのだ。
音響効果など一切ない、リアルな音。
「駄目。この人間は裏苑が呼んだかもしれないんだから、手を出さないで」
前に出て、僕を庇う禍女。
「オレハ……呼ンデ……ナイ」
「本人にも訊いてみないとわからないわよ」
会話から伝わってくる違和感――。
そんな違和感の正体を知ることより、この場にいたくない。
だからと言って、禍女を一人置いては逃げられない。
「ソウカ……オマエノ、餌カ」
「いい加減にしなさいと言ったわよね?」
再度舌打ちをして、低く唸るように言葉を発する禍女。
知り合ってまだ浅いが、禍女は短気だと思う。この状況でまともに話し合っていられる度胸には恐れいるが、相手が危険過ぎる。
これ以上あの化け物を逆撫ですればどうなるかわかったものじゃない。
最悪あの腹部を裂かれた人と、同じ末路を辿る羽目になるかもしれないのだ。
「禍女! ここは退こう!」
化け物に近づきたくはないが、庇うように禍女の前に立ち塞がり、手をつかもうとする――した瞬間、
「あたしが退く? なんで?」
冗談じゃないわよ。と、禍女は僕を押し退け前に出た。
直後、とても少女とは思えない威圧のこもった声で続けた。
「小鬼よ聞け――、お前がなにをしようといいだろう。どこの誰を殺そうとかまわない。そこにどんな理由があろうと一向にかまわないし、ましてやただの八つ当たりだったとしても、あたしにはかまわない。ただ――」
と、禍女の開いた口の隙間から、白くてとても綺麗な牙が二つ覗く――。
禍女は更に続ける。
「ただ――あたしの前に立ちはだかるのなら絶対に許さない」
そして許せない――と、言い足す禍女。
恐い――こわい――化け物も、
禍女も。
化け物は、睨みつける禍女としばらく無言で対峙した後、道の右手側へ物臭に――そして怠惰に移動した。
ひまわり畑を背に不気味に揺れる化け物の姿が、いつのまにか出ていた月に照らされてはっきりと目に映る。
背景との異質な組み合わせが、僕を現実から遠ざけていく――。
「行くわよ」
禍女の小さな左手が僕の右手をつかんで、化け物の反対側へと誘導する。
正直、化け物は見たくない。
正視に耐えない――化け物も、倒れている人も。
恐くて、恐くて、視線を外したい。
だけど、どんな行動に移るかわからない相手に視線を外し、背中を見せるなどできるわけがない。
化け物は、あんなにギョロギョロとしていた目をピクリとも動かさずにじっとこちらを見据え、通り過ぎる僕たちに向かって静かに息を殺している。逆に不気味だ。
禍女は、僕と化け物との間を歩く――。
情けない、こんな年下の少女に守られている。だけど手足は震えっぱなしで、それに甘んじている……本当に情けないよな……。
化け物が視認できなくなってからも、しばらく警戒を怠らず歩いていると大きめの通りに突き当たった。
その通りを右に曲がった先、禍女は小屋の傍らで何かを見ていた。それがバス停で時刻表を見ているのだとすぐに僕は理解する。
バス停は何人かで座れる長椅子が設置され、そこへ雨風を防ぐ板が、壁や屋根になっているといった簡易な作り。
壁にはアナログな丸時計がかけられていた。
時刻は19時40分。
通りは舗装されており、遠くまで街灯が立ち並んでいる。
気持ちが少し落ち着いてきたときに、うるさいくらいの虫の音が耳に飛び込んできた。
道の周辺は平地に草木が生い茂り、遠く先は聳え立つ山によって囲まれている。
これだけの自然が溢れていれば、この虫の大合唱も頷ける。
この音に気づかないほどに、僕は錯乱していたらしい。
「まだ最終がぎりぎり大丈夫みたい」
平静さを取り戻した僕に、声をかけてくる禍女。
あんなことの後にこれだけ落ち着いているのは、今に現実味がないからだ。
「えっ、何? バスに乗るの?」
「ん? 歩いて行くには焔には遠いよ?」
あたしは平気だけど――、そう禍女は言う。
あまりに現実離れしていたので大変なことを忘れていた。
腹を裂かれ、倒れていた人。
「禍女! あの人を助けないと!」腹部を裂かれて中身を出され、千切られた人。それでも、生きているかもしれない。「きゅ……救急車……! あと、警察っ!」
慌ててスマホを出した。
当然圏外――。
商店街に設置された、ピンク色の公衆電話の存在を思い出して踵を返す――が、来た道が目に入った途端身体が竦み、脳が警告音を鳴り響かせる。
引きかえすのか?
あの場所に……?
禍女が小鬼と呼んだ化け物のいる場所へ。
いないかもしれないが、まだいるかもしれない。
くそっ、あの状況は進まず戻るべきだった。
「ちょっと落ち着いてよ! あの人はもう死んでた。だから助けられない!」
「僕は落ち着いている! なら警察……はやく電話を……っ!」
そう言って、吐き出しかけた言葉を呑み込んだ。
現実味がなくて落ち着いただって?
現実から逃げようとしていた。実際は混乱している――そわそわして、動悸が激しく、今にも心臓が破裂しそうだ。
今いる場所は化け物の集う隔離された土地――、そんな場所で警察署や消防署、病院があるかも疑わしい。
僕はカラカラの口内を唾で湿らし、飲み込む。
そして深く深呼吸をした――。
「落ち着いた? 焔の言いたいことはわかるけど、ここはあたしたちの世界なのよ? あたしたちには、あたしたちのルールがある」
「ルール?」
僕は訝しげに訊き返す。
「そう、世界のルール。焔たちの世界のルールがそうでも、あたしたちの世界のルールが同じだとは限らない」
そう言って、僕の不審な態度に禍女は嘆息する。
したように見えた。
「じゃあ禍女たちの世界では、あんなことがよく起きるのか? しかも放置するのか?」
たまったものじゃない。
あれが普通?
犯罪にも問われないのか?
禍女はまた嘆息する。やはりしたように見えた。
「よくは起きない。だけどまったくないわけじゃない」
頻度は少ないが、起こり得ることなのか……、釈然としない気持ちが膨らんでいく。
「あの化け物……禍女が小鬼と呼んだあいつは、僕を見て……うまそう――そう言っていた。あいつは食うために人を殺すのか?」
これもルールか?
こういう嫌悪的なことも、食事だからとかで済ますのか?
しかし禍女から返ってきた言葉は予想とは違うものだった。
「小鬼はね、人は食べないよ。うまそうと言ったのは比喩で、殺すときにどれだけ楽しめるか……そういう意味」
なるほど……どちらにしろたちが悪い。
そのとき遠くからライトが近づいて来た。
禍女は迫り来るライトを見つめながら続ける。
「あいつが誰かを殺すのは、『 』の八つ当たりだから――」
禍女の言葉を掻き消すように、重苦しいブレーキ音を響かせながら目の前にバスが止まった。
何の八つ当たりだって?
はっきりと聞き取れなかった。
小鬼との会話でもそんなことを言っていた気がする。
それに訊けないでいたが、もうひとつ訊きたいことがあったのだ。
小鬼は「おまえの餌か?」と、禍女に言っていた。
ここまできたら疑う余地はない……禍女は血鬼と呼ばれる存在なのだろう。
血鬼なのが虚言ではなく、僕を呼んでいないと言うことが虚言だとしたら……?
自分はこのまま禍女についていっていいのだろうか?
不安に駆られながら、一足先に乗車した禍女の後を追い、開かれた扉のなかへと吸い込まれるように、僕は足を踏み入れた――。