一章 禍女(かな)
◇
高校二年の夏休み、僕は鬼抜村へ向かうため一人電車に乗っていた。
目指す駅は終点の八ツ木ヶ原駅。
そこへ向かう理由は、大切な家族を失ったからだ。
都会の喧騒から離れ、田舎の自然に囲まれて心を癒したかったからにほかならない。
鬼抜村自体、地図を広げて適当に決めた場所なので縁もゆかりもない土地だ。
午前中に家を出発したのだが、すでに日が暮れかけていた。
赤みを帯びた車内。
向かい合わせに座席が並び、そこへ様々な影が急流の如く忙しく映り込む。
そんな影を視界に捉えていると、感覚が麻痺していくような錯覚に陥る。
ほかの乗客は、向かい側に風呂敷を傍らに置いた老婆が一人。
古い型の電車らしく、天井には扇風機が取りつけられていた。
それは首を振りながら辺りの空気を攪拌しているが、開かれた窓からの風が身体にあたり、こちらのほうが体感的には涼しい。
心配性の僕は、棚に置いた荷物を確認する。当然だが、旅行の荷物が入ったバッグはそこにはあった。肩に掛けるタイプで色は黒。必要最低限のものしか入れてこなかったので、たいした大きさではない。
ふと窓の外を見ると、茜色に染まった景色が足早に過ぎていた。
その景色は終点が近いせいか山間が濃くなり、都会から遠く離れて来たことを実感する。
「はあ……、感傷的になっているな……」
僕は呟いた。
小学一年の頃に行った地元の夏祭り……いや、何処か別の場所だったかもしれないが、そんな些細なことはどうでもいいだろう。
その夏祭りの金魚すくいで、お小遣いをすべて使っても手に入らなかった金魚。
『あの人』のおかげで手に入れられた金魚。
親や妹は、当時より大きくなった金魚に向かって気持ち悪いとかよく言っていた。肥満でソフトボールぐらいに丸々とはしてはいたが、気持ち悪いとか失礼だ。
金魚は自分にとって大切な家族。そして、何より『あの人』との大切な繋がり。
おそらく二度と会うことはない、僕だけの一方的な繋がり――。
その大切な家族が死んだのだから、感傷的にもなる。
そのとき太ももに震動を感じた――電車の震動ではなく、スマホのバイブ機能だ。
着信は一ノ瀬令菜――二つ下の妹からだ。
出たくはないが通話ボタンを押す。
何故なら、妹は出ないと何度でもかけなおすタイプだからだ。
「もしも――」
『焔おにいちゃん! なんで出るときに声かけてくれないの!?』
こちらの一声も聞かず、一方的に本題に入るところが相変わらずだ。
「おまえ寝てたし」
『それは……昨夜ノートにお土産リスト書いてたら朝になっちゃって……今起きたら焔おにいちゃんいないし』
「お土産リストって、どんだけ買わすつもりなんだよ……」
『せっかく夜なべして作ったのに! ばかっ! 後でお土産リストのメールするねっ! そもそもしばらく会えなくなる可愛い妹に声をかけないなんて、ううん……そんなことより、やっぱり一緒に旅行いきたーい! どこどこ? どこいくんだっけ!? 今から私も――』
――ピッ。
通話を切った。
相変わらず面倒くさい妹だ。
この時間帯にお目覚めとは、夏休みを十分満喫しているらしい。
『えー、次は八ツ木ヶ原――八ツ木ヶ原――お出口は左側です』
妹との通話を終わらした直後に、車内放送が流れた。
都会から離れ数時間。
何度か乗り換えもして、ようやく目的地に到着するみたいだ。
終点とは放送していなかった気もするが、全国の車内放送で終点を告げることが決まりなのかどうなのかは僕は知らない。
そんなことを考えていると電車はゆっくりと速度を落とし、けたたましいブレーキ音とともに古びた小さな駅に停車した。
そこは見渡す限りのとうもろこし畑に囲まれていて、蝉の鳴き声が遠くから響いてくる。
――降りるか迷う。
目的地は八ツ木ヶ原駅なのだが、終点で降りるはずでもあったのだ。
駅の連絡系統図は車内に貼られていないので、判断に困る。
もしかしたら八ツ木ヶ原は終点ではなく、僕の勘違いだったのかもしれない……行き先は見知らぬ土地を選んだので、この勘違いは大いに考えられた。
思考を巡らせていると、同じ車両に乗っていた老婆が風呂敷を担いで降りようとしていたので、僕は小走りで駆け寄った。
「あっ、おばあちゃん!」
「んあ? なんだぁ?」
独特なイントネーション。
「すみません、八ツ木ヶ原って終点ですか?」
僕の言葉を受け、怪訝そうに口をひしゃげる老婆。
僕のイントネーションは、地元民には通じないのだろうか?
そんなことを不安に感じたとき、老婆が険しい表情で僕を見た。
「お若いの……悪いことは言わんけぇ、おぬしが人ならここで降りるとええ。人にとってここは終点じゃよ」
「えっ……? 人にとって――?」
一陣の風が吹く。
吹き抜けていく風によって僕の言葉は遮られ、身の丈二メートルは届きそうなとうもろこしたちがいっせいに流れた。
――既視感。
その光景は酷く懐かしく、何処かで見て感じたと記憶が揺さぶられる。
「そうじゃ……これより先に進める者は、物の怪そのものか、はたまたその物の怪に呼ばれた者じゃけぇ……どちらにしろ進むが禍じゃ」
――発車のベル。
すでに電車から降りていた老婆と僕との間に扉が滑り込む。
ゆっくりと電車は動き出し、僕の目は呆然と老婆を追う。
次第に駅はとうもろこし畑に飲み込まれていき、漂った視線は行き場をなくして車内へと戻った。
そこは先ほどまでとは違う雰囲気に包まれていた。
一度も降車していないので、そんなことは有り得ないのだが、一瞬、違う電車に乗ってしまったと錯覚してしまい、慌てて自分が座っていた場所にあるバッグを確認した。
はたして、バッグはそこにあった。
「オカルト流行ってるのかなー。まあ、とりあえず終点まで行きますか」
強がりながらひとりごちて、元いた座席に座り直した。
内心不安だ。
「僕は人間だし、残るは物の怪に呼ばれた……か。何てな、このまま終点に着いて、普通に田舎の風景が広がっていて、普通にその田舎で心を癒すことになるはずだ。この近代社会、物の怪の入り込む余地なんてない。皆無だと言ってもいい」
気持ちに余裕が出てきた頃、外が薄暗くなっていることに気づく。
ただ薄暗い。
明るいけど薄暗い――表現が乏しいが、そんな感じ。
無性に不安になり窓の外を窺う。
そこには先が見通せない程の濃い霧が滲んでいた。
心なしか亡者の群れに見えて、胸の不安が一気に膨れ上がっていくのを感じる。
そのうえ、いまだに次の駅の車内放送がない。
八ツ木ヶ原駅を出て大分時間が経っている。だが、駅間が長距離のところもあるし、こんな山奥のローカル線ならきっと尚更だ。
そう自分に言い聞かせ、耳を澄まして車内放送を待った。
――30分。
スマホの時計でそれだけの時間が過ぎた。
ますます膨れ上がり破裂しそうになる不安感。
僕は沈黙。
車内放送も沈黙を守り続ける。
電車だけが音をたてながら霧を裂いて進んでいく――。
「こえー、凄い恐いんだけど!」恥ずかしげもなく一人叫ぶ。誰もいないので恥ずかしいことはない。「何? このシチュエーションは何!? 怖すぎるっ! 僕は何があっても終点まで待たずに次で降りる! っていうか駅着くよね?」
生まれて初めてこんなに取り乱したかもしれない。
落ち着け、これだけ騒いでただの地方の特色だったら恥ずかしい。
「大丈夫じゃない? 次が終点でもうすぐだし。そんなに騒いでおにいちゃん恥ずかしいよ?」
「あっ、次が終点なんだ? お嬢ちゃんありがとう」
僕は微笑む。
左隣に座っているいたいけな少女に、恥ずかしい姿を見せてしまったことを渾身の笑みでなかったことにした。
「ギャーーーーーー!」
次の瞬間、僕の渾身の叫び。
「キャーーーーーー!」
少女の渾身の叫びも加わる。ちょっとした輪唱みたいだ。
「ちょっとー!? びっくりさせないでよ! 心臓が口から飛び出そうになったわよ!」
「僕の台詞だ! 急に現れやがって……おまえは誰だっ!?」
びっくりした。
心臓が口から飛び出るだなんて古典的な表現をリアルに使われたのにもびっくりしたが、隣に少女が突如現れ座っていたことに、心臓が口から飛び出そうになった。
見た目、小学生高学年~中学一年生ぐらい――綺麗な黒髪を赤いリボンで二つに結んでいる。
白い長袖のブラウス、袖の先は可愛くフリルがあしらってある。
赤いスカートに黒のニーソックス、
そして赤い靴。
何故か少女の赤は、すべて血を連想してしまう。
こんな田舎に似つかわしくない少女だ。
それにしても肌の露出が少ない服装は、夏場にはちょっと暑そうだな。
「急にじゃないよ。ちゃんとそこから入ってきたもん」
少女の指差した先は反対側の窓。
その窓は開け放たれていて、今まさに霧が流れ込んできている……
霧というかドライアイスだ。
その窓に限らず、開いているすべての窓からはドライアイス状の何かが垂れ流し。普通に恐い。
こんな状況のなか、ほかの車両から来たらしい。
少女的には窓から入って来たと言っているみたいなのだが、議論しても仕方がないので流すことにする。
取り乱し、叫んでいた僕は、近づく少女にまったく気がつかなかった。
非常に恥ずかしい。
「おまえは誰なんだ? 格好からするに、地元の子供って感じじゃないよな。ひょっとして、僕を呼んだ物の怪だったりしてな」
先程までの恐怖が薄れ、事情を知らない少女に冗談を言ってみた。
「さっきからおまえおまえって馴れ馴れしいわよ! あたしは御堂禍女。災禍の『禍』に『女』で禍女! 物の怪って化け物のことよね? 血鬼って化け物だから物の怪ってことになるのかな? あっ、血鬼の『ち』は血液の『血』ね。ちなみにあたしはあんたなんて呼んでないわよ」
一息ですべて答えてくれた。
うん、痛い少女だ。血鬼だって。
「血鬼ってなんだ? どんな化け物なんだ?」
「んー、血を浴びるのが好きで、不死身だけど太陽の光に弱いかな」
「………………」
血を浴びるのが好きだって。いきなり刺されたりしないよね?
弄ってはみたものの、虚言癖がありそうなので話題を選ぶことにした。
「災禍の『禍』に『女』で禍女。珍しい名前だよね?」
珍しいというか、可哀想な名前。親は何を考えているのだろう。
「そう? 珍しい? よくわからないわ。そんなことより、おにいちゃんはよそ者よね?」
禍女からの突然の質問。
しかし何てことはない内容。
少し間を置いてしまったが、僕は答える。
「あっ……うん、夏休みを利用して旅行に来たんだ」
「ふーん。おにいちゃん人間?」
僕は固まる――、
少女の言葉に老婆の忠告が重なったからだ。
不安を隠して明るく振る舞う。
「僕は人間だよ。普通に高校二年生やってる」
「だよね、おにいちゃんどうみても人間だし。じゃあ誰かが呼んだのかなー、普通の人間じゃあたしたちの土地に踏み入ることはできないからね」
あたしたちの土地――
ならば、禍女は地元の子供ということになるな。
それにしても、ここの土地は大人から子供までオカルト信仰みたいなものがあるのだろうか。
今日はもう遅い、泊まる場所を探さなくてはいけない……自由きままな旅の予定だったので、宿泊先をまだ決めていない。
高校生一人で旅館に泊まれなくとも、テレビでよく観る田舎に泊まる企画みたいに、どうにでもなると楽観視していたのだ。
こんな不安になることばかりなら、計画性のある旅にするべきだった。
今更ながら後悔する。
「あっ、もしかしたら裏苑がおにいちゃんを呼んだのかも!」
「りおん?」
目を輝かせながら言う禍女に、僕は訊き返した。
「表裏の『裏』に、『苑』は……うーん、説明が難しいね。広い庭とか庭園って意味がある字なんだけど、『園』じゃなくこっちの『苑』――で、裏苑」
『えん』じゃなくこっちの『えん』――と、口を動かしながら僕に向かって、可愛らしい人差し指で空中に『園』と『苑』の漢字を書く禍女。
なるほど、そっちの苑か。
というか、淀みもなく空中に漢字を書く禍女。
こちらの方向から見てわかるほどに正確なのだから、禍女は逆文字を正確に書いたはずだ。頭の回転が速すぎる。
禍女は続ける。
「神楽坂裏苑――呪われた人間」
「呪われた……人間?」
この少女の虚言に食いつく。
禍女の話に興味が沸いたのではなく、
呪い――
その単語が記憶の網に引っ掛かったからだ。
夏祭りで出会った『あの人』。
呪いを解いて欲しい――そう言っていた『あの人』。
禍女の唇がおもむろに開く。
「そう――裏苑は不老ではないけど不死。寿命がくれば死ぬけど、満月の日に10秒しか時間が動かないの」
僕は意味を把握しかねた。
「どういうことだ? 満月の日に10秒だけ歳をとる……ってことか?」
その問いに、禍女は小さな口端を上げる。
少女らしからぬ妖艶な笑みで――さながら人ならざる者のように――。
「裏苑は死にたがってる」
妖艶な笑みは消え、禍女の顔には悲しみに満ちた表情が覆っていく。
「不死だから死ねない……そういうことか?」
禍女は静かに頭を縦に動かす。
私を殺してくれる?
そう口にした『あの人』が、脳裏にちらつく。
裏苑という人は不老じゃないが不死、しかし寿命が訪れれば死ぬという矛盾を抱えている。
不老ではないのは、満月のたびに10秒歳をとるからだろう。
ただ、恐ろしく寿命が長いことになる。
日数の絡みで満月は月に二回のときもあるが、単純計算で月に一回あるとして、一ヶ月に10秒。
一年で10秒が十二回で120秒。
この計算でいくと、一年で2分しか歳をとらないということになる。
2分……。
一年で2分?
ひとつ歳をとるには、一ヶ月に一度訪れる10秒を何度繰り返す?
寿命を全うするにはその10秒をどのくらい繰り返せばいい?
すべて禍女の虚言なのだろうか……?
『次は……終点――、終点でございます――』
突然の車内放送に思考はぶった切られた。
八ツ木ヶ原から約1時間、どうやら無事に着きそうで胸を撫で下ろす。ここまで来てしまった以上、旅行を中止するわけにはいかない。
棚からバッグを下ろしながら、些細なことに疑問を持つ。
「あれ? 今の車内放送、駅の名前は言ってなかったみたいだけど何て駅なの?」
「ん? 名前なんてないわよ?」
何を言ってるの?
あたりまえでしょ?
そんな表情で眉間に皺を寄せる禍女。
名前のない駅――禍女の虚言めいた言葉に、老婆の忠告。
電車が駅に停まると、禍女は立ち上がり扉に近寄る。
開かれた扉の先は名前のない駅――。
禍女は振り返る――。
「ねえ、おにいちゃんの名前教えてよ」