序章
夕暮れどきが終わりを告げ、薄暗くなってきた神社の境内。
浴衣に身を包んだ人々がこの場を彩り、様々な夜店が華を添え、お面を被って走り回る子供たちの声が響く。
蒸し暑かった日中も、日が暮れてからは大分涼しくなった。
そんなすごしやすくなった夕闇のなか、笛や太鼓の音と人々の喧騒が空気に震えながら融け合う。
その独特な雰囲気のなかを胸を弾ませながら歩く。
たこ焼き、お好み焼き、焼きそば、かき氷――
そのなかでも、特にたくさんのとうもろこし屋が並んでいた。そこへ射的やかたぬきまで目に飛び込んできて、胸は高鳴るばかり。
これはいつの記憶だっただろうか――?
確か小学一年の頃に行った、夏祭りでの光景。
幼かった僕は、気がつくと一匹の金魚に心惹かれていた。
ほかの金魚より大きいせいか、金魚すくいの紙は簡単に破れてしまう。
お小遣いはすべて使ってしまった。
まだ、焼そばもかき氷もりんご飴だって食べていないのに――。
金魚はそんな気持ちなど知るよしもなく、悠然と泳いでいた。
折角の祭りなのに、何も買えないというだけですべてが羨ましく、妬ましく目に映り、さきほどまでの胸の高まりは消え失せ、後悔だけが押し寄せてくる。
金魚のためにすべてを諦めたのに――
だけど、そこまでしても手に入らなかった。
「どうしたのぼく? そんな悲しい顔してたら気になっちゃうよ」
後ろから突然声がして、僕は振り返った。
返事をしようと開きかけた口なのに、言葉が出てこない。
目の前にいる女の人に、心を奪われてしまったからだ。
女の人は高校生ぐらいにみえる。
銀髪のようなさらさらとした綺麗な白い髪。
薄い灰色の瞳。
微かに口を開いただけで、どきどきしてしまう端正な口許。
――そして、身につけた白いワンピースより真っ白な肌。
すべての色が薄く、儚い。
当時の自分と女の人は、10歳程度の差があったと思うのだが、一瞬で好きになってしまっていた。
緊張している僕の頭を、女の人はひとつ優しく撫でてから、金魚すくいのおじさんにお金を手渡す。
プラスチックで作られたピンク色のポイを受け取った女の人は、僕に向かい合う。
「これはね、水にずっと浸していては駄目なの」右手にポイを持ち、わっかの部分を見えるようにくるくると回転させる。「違いがわかる?」
「……? えっ?」
目の前でくるくるとでんでん太鼓みたいに回されても、自分にはさっぱりわからなかった。
くすっと笑った女の人は、時間切れーと楽しそうに説明を始めた。
「このわっかに紙が貼ってあるでしょう? 紙が乗ってるほうが表。その反対が裏。こっちの表でやらないと駄目だよ?」
そう言って、目の前にポイを差し出してくる。
受け取ろうとした瞬間、僕の指が女の人の指に触れて頭が真っ白になった。
追い討ちをかけるように、背中に密着してくる女の人。
涼しくなってきたとはいえ、夏の夜なのに、背中に感じる体温はとても心地よくて暖かい。
微かにいい香りが鼻の奥を刺激する。
香水ではなく、シャンプーや石鹸のような柔らかい香りだ。
意識が朦朧としてきた僕に女の人は続けた。
「いい? さっき言ったように、水に浸けたままじゃ駄目だからね?」
「うん……」
「ふふふ。素直でいいこいいこ」
また頭を撫でられる、今度は後ろから。嬉しくて恥ずかしくて、どうにかなってしまいそう。
「こっちが、表だよね?」
恥ずかしさを隠すために、ポイの紙が乗っている部分を確認する。
「そうそう、次はお目当ての金魚を頭から一気にすくってね。水に入れるときは斜めに切るようにだよ」
「何で頭からなの?」
僕は訊く。
今度は恥ずかしさをごまかすためではなく、純粋に疑問に思ったからだ。
「うん。尻尾からだと尾ひれで紙を破っちゃうからね」
「そうなんだ……知らなかった……」
金魚すくいは奥が深い。感心しながら、散財したばかりの金魚に僕は狙いを定めた。
「うん、やっぱり男の子だね。嬉しいよ。その金魚以外をいったらがっかりだったよね」嬉しそうに言う女の人。そして、最後のアドバイスとばかりに大きく僕に声をかける。「それはちょっと大きすぎるからね。教えのとおりにやっても難しいよ? あとは気持ちだよ!」
気持ち――――か。
投げかけられた言葉を受け、絶対にこの金魚を手に入れてやる――そう心に強く思い、切るようにポイを沈ませ一気にすくい上げた。
金魚を欲しかった最初の理由とは違う、今は金魚を手に入れることができれば、この人との繋がりができる気がしたから。
――水飛沫が顔にかかった。
左手に持ったお椀のなかで、金魚が暴れている。
「やったね!」
女の人は喜び言うと、僕から離れていく。
「――待って!」袋に入れて貰った金魚を、女の人に差し出した。「これ……お姉さんのお金で取った金魚だから……」
「私が見る限り、その金魚には貴方のほうがたくさんお金を使っていた気がするわ?」
「そ……そうだけど……! でも――」
「悲しそうな貴方を見ていたら、助けたくなっちゃったの…………ただそれだけだから」
言いかけた僕に、女の人は言葉で遮る。
女の人は儚く微笑むと、次の瞬間にとても悲しそうな表情へと変わった。
「お礼に何かするよ! 何かして欲しいことはある?」
なぜ悲しい顔をしたのかわからないけど、この人にこんな顔をさせてはいけない。
笑顔に変えられるなら、何かをしてあげたかった。
予想外の提案だったのか、女の人は少し驚いた顔をした。
そして考える素振りを見せた後、それなら――と、口を開いた。
「私のみっつの願い――、どれかひとつ叶えて欲しい」
――と。
歳が離れていて叶わぬ恋でも、好きになった人のために何かをしてあげたい――幼いときの僕はそのとき、そう強く思ったんだ。
女の人の願いは三つ。
私にかかった呪いを解いてくれる?
それとも、私を殺してくれる?
それとも、私が死ぬまで一生側にいてくれる?
「どれでもいいの、ひとつ叶えて欲しい――」