高校の同窓会。
「今、何の仕事やってるの?」
その質問一番苦手。
底辺の仕事をやっています。頑張っても誰にも、見向きもされない仕事です。ちょっと印刷汚れがあっただけで、アウトレットで売ることもできずにゴミになる仕事です。
一生懸命作っても、お客さんが中身を取り出して、ビリビリ破った瞬間、ゴミと呼ばれる物が商品です。
野球選手みたいに、子供の頃から、この仕事に就くのが夢でしたと語る人がいない仕事です。
映画や小説にもならないような、うんこみたいな仕事です。
毎年、出来たお米がみんなに美味しいね!と言われるような農家に憧れます。
どんなにキレイに印刷して、どんなにキレイにラミネートして、どんなにキレイにスリットしたって、「今回もスリットがキレイだね!」「合掌袋のシールが今年もいいね!」なんて誉められる事はない仕事です。
不良の時だけ、文句を言われまくる商品を、売るセールスマンです。
そんなことを言えるわけない。
「袋売ってるよ。プラスチックのお菓子とかの袋を作っているメーカーで、営業してる。ずっと、この業界にいるの。」
「へー。そうなんだ。」
お決まりのそのリアクション。
聞いてみたものの、何の仕事か想像がつかなくて、話が広がらないって顔を同級生たちがしている。
2017年3月11日。
K高校H組の同窓会。
黙祷を捧げた日の夜に、久しぶりのクラス会は始まった。
よりによって、この日か。
1年の中で、未だに特別な感情が押し寄せる日だが、名古屋の高校の同級生に、それを気にするような人はいない。
クラス会は卒業後、毎年やっているけど、私が参加したのは、卒業式当日と、14年ぶりの今日の2回だけ。
茶色く自分でカラーリングした髪に、明宝ハムのような太ももを強調するような丈のスカート、ルーズソックスが当時のルール。
毎日英語の授業があり、一日に少なくて二時間、多い曜日は五時間が英語の科目がある、外国語コース。
クラスメイトにスイス人がいて、厚化粧の女の子の割合はダントツで、男子は7人しかいなくて(もちろん腰履き)、学祭のクラスの出し物はブリトニースピアーズの『過保護』、全員が外国かぶれの高校生のクラス。
これ以上、私の人格を形成した環境を説明するのに、必要なものはないだろう。
そもそも、高校受験で、第一志望の高専に落ちたことから、話は始まる。
中学の女性の担任に、「こんな偏差値の低い高校、絶対受かるから、受けるの止めなさい!」と、忠告されたにも関わらず、見てろ!絶対行ってやる!と受験して、見事に落ちてしまった。
高専に受かっていれば、建築科の方に進んで、設計の勉強をしていたはずだ。
途方に暮れた私は、第二志望の滑り止めのK高校の外国語コースに行かざるを得なかった。
人生の挫折の序章だ。
そんな私が、もう32才。
私が営業マンになっている事は、クラスメイトの誰も予想していなかっただろう。それも、袋なんて。英語はどこ行った?
経済的に大学や専門学校への進学が難しく、就職をしようとしたところ、進学校と言う事もあり、就職なんてダメだ!と担任から猛烈に反対された。それで、オーストラリアのシドニーの一番学費が安い語学学校に進むことになった。
もちろん、留学エージェントなんて使うお金はないから、飛行機のチケットの手配だけでなく、学校の入学願書の和訳英訳も自力でやるしかなかった。
日本の大学に行く、日本人でさえ、親に入学願書や手続きを任せる子がいるのに、全部英語の入学願書を読んで、英語で記入して、お金を振り込むのは、18歳には難しかった。毎日、担任の先生と放課後残って、願書を作成した。家にパソコンすらない時代だった。
留学するクラスメイトは一割。
お金がないから、海外に行くのは私だけ。
半年ほど、語学学校に行ったものの、英語が伸びるのは最初の三ヶ月と言われた通り、三ヶ月経てばある程度の会話が出来てしまい、急に英語の勉強に対しての面白みもなくなった。
学校の先生と英語で喧嘩をするほどになった頃、学校を途中で辞めて帰国した。
オーストラリアの3年入国禁止処分は、決意の現れだ。
(当初、申請した学校に通う日数の8割に、出席日数が満たない場合、オーストラリアに3年間は入国できなくなると言う法律がある。帰国しようとすると、校長先生に、3年入国禁止になるのよ?!とキレられて、もうこんな国来ねーよ!と張り切って帰国した。)
もちろんオーストラリアは3回も行った大好きな国だ。
帰国してからは、小中高と演劇部だった事もあり、その道にまた進みたいという気持ちが捨てきれず、地元の劇団のオーディションを受けて不合格。そこから、なんやかんやで今に至る。
高校の劇部の同級生で、声優になった子がいる。
14年と言う年月は、残酷なほどに、次々とクラスメイトが活躍して働いている事、国際結婚した事を友達伝いに教えてくれた。
その話を聞くたびに、クラス会への足が遠退いた。
あの頃みたいに輝いてないと、顔を出しにくい。
そんなこんなで、14年も過ぎていた。
担任にとって、
最後のクラスが私たち。
みんなから、おじいちゃんと呼ばれていた。
いつ、会えなくなっても、おかしくない年齢のはず。
心配になって、今回は積極的に参加した。
「hello!every one!」
高校の授業に戻ったように、おじいちゃんが英語で近況を話してくれた。
あの頃の何かに熱中する楽しさを忘れない限り、私はやっていける。
大丈夫、うまくいく。