新規飛び込み初日①。
知らない人ばかりの街だった。
前の会社で、何年か前にひたすら新規飛び込みだけを毎日やっていた一ヶ月を思い出した。
20代半ばのあの頃に比べれば、顔つきも口調も、ずっと大人び、
原反を毎日運んでいたおかげで、二の腕はプロレスラーだと親に言われるほど、たくましくなっていたが、薄い一枚のドアが鉄の塊のように重く感じた。
ドアを開けたら、腹をくくるしかない。
「こんにちはっ。」
一斉に事務所の中、全ての視線が集まった。頭の中では、自分の心臓の音しか聞こえない。入口に一番近い、短いボブの黒髪の若い女性がすくっと立ち上がって、近づいてくる。
「S社の、鳴瀬と申します!包装資材のメーカーなのですが、資材担当の方は、いらっしゃいますでしょうか?」
会社に入る前に、鞄のポケットに用意をしておいた、組織の一員だと証明をする名刺と、会社案内のカタログを差し出した。
名刺を受取りながら、眉を上げて案内を見る女性。
「担当は、豊川工場にいるので、こちらにはいません。」
新規飛び込みなので、当然本社を訪問している。
「そうなんですね。担当の方のお名前を伺っても、よろしいですか?」
名前を聞き出せずに帰ったら、上司に怒られる。担当者の名前を聞き出すのが、絶対条件だ。
「円山部長です。」
ピンクの手帳を開いて、ボールペンを握った。
「豊川工場さんは、どちらにありますか?」
小走りで若い女性は、一枚の紙を取りに行った。
「ここです。」
<新工場設立のご案内>と、取引先用に作られた案内を見せてくれた。
住所を見ても、ここから行ける距離かも見当がつかない。とりあえず、メモをしようと試みたものの、心臓に合わせて右手が動いてしまい、文字にならない。右手を見つめていた女性が、機転を利かせて、案内書を持って、どこかに走って、またすぐに戻って来た。
「失敗しちゃった。」
はにかみながら、差し出したのは余白部分の広いA4サイズのコピーだった。
どうやら、手の震えが収まらない私のために、工場の住所をコピーしてくれたみたいだ。
上下左右反対だが。
嬉しさと、恥ずかしい気持ちになり、小さな声で、
「ありがとうございます。こちらに行ってみます。失礼いたします。」と、返事するのが精一杯だった。
中学三年生の途中に、名古屋市に引っ越して以来、たまたま豊橋や豊川、豊田、豊明の4つの豊には縁がなく、土地勘がないなどのレベルではなく、市そのものが、どちらの方角にあるかさえ、皆目分からなかった。
しかし、新規飛び込み一件目で、担当者の名前を聞き出せた事は、本当に運が良かった。
少しでも、このラッキーが続くように、少しでも安心できるよう、お気に入りのアニメソングを聴きながら、渡された住所を頼りに豊川工場に向かった。
覚悟を決めるしかない。営業は男しかいない会社。
今までもずっと、そんな業界で男臭くやってきた。
女性と言うだけで、「男の営業さんにやってもらってよ。」と製袋屋さんに言われたり、「男の営業さんに変わって。」と、お客さんに冷たくあしらわれたこともあった。
この業界の新規飛び込みで、女性と言う事はそれだけで圧倒的に不利になる。
だが、一人前の営業と社内で認めてもらうには、まずは新規を一件とるしかない。泥水をすすってでも、お客さんに気に入ってもらわなければいけない。
そうやって今までもやってきたと言う事が、今の自信につながっている。
それに、何よりも、私には運がある。
知識も経験もコネもない、30代小娘が何故ここまでやってこれたかを説明するには、避けて通れない。
90%の運と、10%の知略が実力となり、腐らずにこの業界で働けた。
後は、神頼みが人より強かったとしか言いようがない。
15分ほど車を走らせたところで、甘い香りがしてきた。
豊川工場だ。