旅立ちへの準備〈5〉
◇◇
あれから約2週間半。僕がこの街を出る日が、いよいよ2日後へ迫っていた。
この2週間半はナノヤさんと剣の手合わせをしたり野宿の練習をしたり、1人で依頼のため街の外に出てみたりと、なかなか充実した日々を送っていた。
明日は旅に出る準備をするため、今日を最後の依頼を受ける日としていた。いつも通りナノヤさんとギルドで依頼を選んでいると、激しい音を立てながら1人の男性がギルドへと駆け込んできた。
「緊急だ!街の外にレッドウルフの群れが来てる!目視できるだけでも30匹はいやがった!」
途端、ワッとギルドが騒がしくなって空気がピリピリとしだす。受付窓口から、受付担当の職員が慌ただしく表へと出てきて男性へ話しかけた。
「それはいつの情報ですか!?」
「10分ぐらい前だ、俺はギルドに知らせるのに戻ってきたが、俺のパーティーの仲間がまだ残って戦ってるんだ!助けてくれ!」
ボロボロの状態で縋り付くように叫ぶ男性を見て、受付職員がくるりと振り返った。
「みなさん、緊急依頼です!討伐に参加していただける方はどうかよろしくお願いします!」
にわかに騒がしくなるギルド内を横目に、僕はそっとナノヤさんに視線を送る。
「……緊急依頼とは?」
「今みたいに緊急性の高い依頼だと判断された場合に、ギルド側が依頼を出すやつのことだ。それぞれ、自己申告制で参加になるな」
「なるほど。……しかし、レッドウルフはC級モンスターですよね。そんなに群れることがあるんですね」
「そうだな。俺も初めて聞いたが、目視で30匹ってことは実際はもっといるだろう。魔法が使えるやつが第一陣として出るのが妥当だろうな。そこでバラけたところをパーティーで討伐って感じかな」
「…………」
緊急依頼に参加するのか、続々と駆け足で外へと出て行く冒険者たちを見ながら、僕はナノヤさんに向き直った。
「僕も参加します」
「あ?これは自由参加だぞ、何も出なくとも……それにお前はまだEランクだ、今回はだいぶ格上の依頼になるんだぞ」
「それでも、ナノヤさんがいるうちに緊急依頼というものも受けてみたいのです。それに、僕の魔術も少しは役に立てるかもしれませんし」
「そりゃそうかもしれないけどなぁ……」
「私も行きます」
「エレシアちゃん!?」
2人で振り返ると、真後ろにエレシアが立っていた。聞けば、町中に緊急依頼の話が出回っているところなのだという。
「街が危ないとあれば見過ごせません。私も行きます」
「うーん……」
悩むように僕とエレシアを交互に見つめていたナノヤさんは、しばらくしてガックリと項垂れて首を振った。
「わーかったよ……行くか、この3人で。ただし2人とも無茶はすんなよ」
「はい!」
「はい」
しっかりと頷くのを確認して、ナノヤさんが早歩きで外へと歩き出す。僕たちも顔を見合わせて、後に続いた。いつもはさまざまな出店の出ている大通りも、今はいつレッドウルフが街中に突入してきてもいいように急いで店仕舞いをしていた。
街の入り口近くまで来ると、すでに何組かの冒険者たちが戦闘を開始している。それぞれ3〜4人程度で組んで戦っているようだった。
順調に倒している冒険者たちの横をすり抜け、更に奥へと進む。すると20匹ほどのレッドウルフと対峙する4人の冒険者たちと出くわした。赤い毛色に約1メートルほどの狼がレッドウルフだ。
ナノヤさんは険しい顔つきで先頭へと歩いて行き、中心に立っている男性に話しかける。
「生きてたか」
「ナノヤ!来てくれたのか、ありがたい」
「まぁ、街の危機だからな。それで、作戦は?」
「この数だ、まずは魔術で一撃喰らわせたいが、俺たちのパーティーは魔術師が1人しかいなくてな……膠着状態だ」
「だったらうちの2人を使ってくれねーか?」
「2人?」
と敵の方を気にしながらも振り向いた男性は、こちらを見るとギョッと目を見開いた。
「エレシア様に、氷の!?」
なるほど、僕は半分嘘だと思っていたが、本当に巷ではナノヤさんが言っていたように“氷の”、といった呼ばれ方をされているらしかった。
「あぁ。エレシアちゃん、やってもらえるか?」
「もちろんです。イオリ、氷槍を使いましょう。レッドウルフは炎耐性があるので、反対に水属性には弱いんです」
「わかった」
「とにかく、一撃入れてくれるってことなんだな?」
「はい」
「わかった、頼んだ」
まだ不安そうな男性に頷いて、2人で前へ歩み出る。反対に他のメンバーたちは1歩後ろへと下がった。
僕たちはそれぞれ右手を前に出し、頷き合ってから詠唱を始めた。
「「ーー我が魔力を糧に、貫き給え。氷槍」」
ドドド、と音を立てて氷でできた槍が飛んでいく。キャン、と鳴いたレッドウルフたち。約20匹いたレッドウルフたちのうち、半数ほどを氷槍で仕留めることができた。
「よっしゃ、ありがてぇ!よしお前ら、あとは俺たちもやるぞ!」
「「「おぉ!」」」
数が半分となったことで気合いを入れたらしい。一斉に飛びかかっていく冒険者たちを見て、僕たち3人もレッドウルフの群れへととりかかった。
「俺とイオリが前衛、エレシアちゃんは魔術で支援してくれ!」
「わかりました」
「はい!」
半歩後ろに下がるエレシアを横目に、腰元の剣を引き抜く。猫のように姿勢を低くして威嚇するレッドウルフたちに対峙し、僕たちは走り出した。
「ワウッ!」
先日討伐したシルバーラビットなどとは比べ物にならない速さで向かってくるレッドウルフたち。しかしナノヤさんとの度重なる訓練で多少目も鍛えられた僕は、冷静にその牙を剣で受け止め、左胸に仕込んでいた短剣でその喉元を掻き切った。
返り血がポタリと顔から落ちる前に、次の標的へと向かう。仲間が一撃でやられたからか警戒するもう1匹のウルフに、後ろからエレシアの鋭い声が響いた。
「我が魔力を糧に、射抜きたまえ。電流」
「キャウン!」
電気の塊がレッドウルフに直撃し、ダラリと尻尾を垂らして足を震わせながら立つところへ僕は一足で近づくと、剣を首に一蹴させた。ゴロリと地面に転がるレッドウルフを横目にナノヤさんの方を見ると、彼はすでに4匹目のレッドウルフを倒し終えたところだった。
「……よし、ここはこれで大丈夫みたいだな。他にもいないか見に行くぞ」
はい、と続けて歩き出す。レッドウルフの死体は、血の匂いで他の魔物たちが集まってきても面倒なため収納袋へとしまった。
しばらく歩き続けると、1匹で行動しているレッドウルフへと遭遇した。これまでのレッドウルフたちより一回り大きく、おそらくリーダーのような役割の魔物だろうと予想できた。
僕たちが先ほどの如く前衛・後衛とで布陣を組みいざ戦闘に入ろうかとした時、予想だにしない驚くべきことが起こった。
『……ニンゲン、タオス……』
「「「!?」」」
あまりの衝撃に僕たちは固まった。目の前の魔物が人間の言語を話したからである。もちろん、魔物が言葉を話すなんてことは本の知識からも、ナノヤさんたちからも、全く聞いたことがなかった。
これまで魔物と関わった経験の少ない僕でさえ驚いているのだ、ナノヤさんとエレシアの驚き具合は押して然るべきだった。
動揺する僕たちを尻目に、レッドウルフは飛び出す構えを取り始める。それに慌てて僕たちも剣を正面に構えた。
『ニンゲン、タオス……!』
「くそっ」
突進してきたレッドウルフを横に転がることで避けたナノヤさん。僕はその反対側からレッドウルフへと斬りかかり、尻尾を切り落とす。イタイ、とまたつぶやいたレッドウルフに、気味が悪いものを感じる。そして今度はエレシアが魔術を叩き込んだ。
「氷槍!」
緊急の事態だからか、詠唱を短くする短縮詠唱で対応している。僕とナノヤさんはその間に距離をとって左右から斬りかかった。ナノヤさんの剣はレッドウルフの右目を突き刺したが、僕の剣は左手の鋭い爪で防がれてしまい、たたらを踏んだ。なかなかいい攻撃を入れることができない。その間にも、エレシアが隙間をぬって魔術を使ってくれる。僕は思い切って短剣を頭を狙って投げた。傷をつけることは叶わなかったが、それにレッドウルフが気を取られたところにナノヤさんが3連撃を叩きつけた。
ついにグラッと倒れそうになるレッドウルフに、最後の一撃を入れる。両手で剣を握りしめて首に突き入れた。
『ニンゲン、タオス……』
それだけ呟いてついに地面に伏す。僕たちはそれを息を呑んで見つめた。30秒ほどが経ち、完全に息を引き取っているのを確認してから、僕たちはやっと肩の力を抜いて息を吐き出した。
「なんとか倒せたが……なんだったんだ、こいつは」
「言葉を話す魔物なんて、聞いたことがありませんね……」
そう話す2人は、レッドウルフにどこか違和感はないか様子を注意深く見守っている。僕も見た限り、大きさが違うだけで先ほど倒したレッドウルフと変わりはないように見えた。
「もしかしたら他のとこでも同じことが起きてるかもしれねぇからな。そうしたら厄介だ、俺たちも次に行くぞ」
はい、と声を上げてレッドウルフを収納する。その後も森を進む中で出会ったレッドウルフたちを倒し、途中で出くわした冒険者たちにさりげなく何か変わった点はなかったか尋ねてみたが、情報は得られなかった。どうやら人間の言葉を話す魔物を見たのは僕たちだけらしかった。
「……これは俺たちだけの判断でどうにかなるもんじゃねぇ。帰ったらマスターに報告だな」
冒険者たちから大した情報を得られずガッカリした表情のナノヤさんがそう溢す。僕たちもその意見に同意した。
やがて体感で2時間ほど経ったかという頃、街からゴーン、という鐘の音が響いてきた。どうやら冒険者たちに街に戻るよう合図しているらしい。
「まぁ、だいたい群れは狩り尽くしたってところだろうな。俺たちも早く戻るぞ」
「「はい」」
生茂る草を踏み倒し、飛び出ている枝を振り払いながら街の方角へと戻り始める。
ナノヤさんとエレシアの後に続きながら、僕は一度だけ後ろを振り返った。そこには変わらない森の景色があるだけだ。先ほどまでの戦闘が嘘のように静けさが戻っていた。僕は数秒そこを見つめた後、再び前を向いて歩き出した。
◇◇
数多の冒険者たちとともにギルドへと帰還すると、ギルドマスターであるグレン氏が待ち構えていた。
にわかにギルド内は騒がしくなり、受付手続きに冒険者たちが列を作る。
こうしてみると今回の依頼に参加した冒険者たちは約40人ほどで、それぞれ鎧に傷がつくなど軽い怪我を負っている人はいたが、重傷者は1人もいなかった。それだけこの街の冒険者の質がいい証拠だろうと思った。
すると、各冒険者たちから討伐の報告を受けていたグレン氏にナノヤさんが近寄っていく。気配に気付いてか、グレン氏が腕を組んだままこちらに振り返った。
「マスター、ちょっと依頼の件で急ぎ報告したいことがあるんだが」
「なんだ?」
「…………」
チラリ、と部屋の奥に視線を向け、言外にここでは話せないということを示したナノヤさんに、一瞬考える顔をしたもののグレン氏は意図を理解したのかすぐに頷き、
「……よし、報告は向こうで聞こう。エレシアちゃんとイオリも来てくれ」
と長身を翻して部屋の奥へと向かって行く。はい、と僕たちも続く。周りの冒険者たちの訝しげな視線を浴びながら、部屋のドアを閉めた。
「エレシアちゃん、盗聴防止の魔術をかけてくれるか?」
「わかりました」
サッと手を振って部屋に外部からの盗聴を防止する結界を張ったエレシアに、深刻さを理解してかグレン氏が神妙な顔をする。
「……そこまでか。一体何があった」
「緊急依頼中、驚くことがあった」
「驚くこと?」
「あぁ。……レッドウルフのリーダーが人間の言葉を話していた」
「なん……だと?それは本当なのか?」
「こんな嘘つくかよ。『ニンゲン、タオス』とか、他にも『イタイ』と話していたな。……聞いたのは俺だけじゃないぜ、こいつらもだ」
その言葉に僕とエレシアの方を向くグレン氏。無言のまま僕たちが首を縦に振ると、あの時僕たちが味わったような衝撃を感じているのか、三白眼を吊り上げて押し黙る。何が起きているのか必死に考えている様子だった。
「とにかく、これはマスターに報告しといた方がいいかと思ってよ」
「そうだな……貴重な情報を助かる。それで件のレッドウルフの死体はどうした?」
「回収してあるぜ」
「見せてくれるか」
「あぁ」
ナノヤさんが僕に目配せをする。そして奥のテーブルを指し示すグレン氏に従って、僕は収納袋からレッドウルフを取り出した。
「こいつか……見た目は普通のレッドウルフの姿だがな……」
「あぁ。特に動き自体に変わったところもなかったし、俺たちも驚くしかなかったぜ」
ポケットから虫眼鏡を取り出して慎重に観察していたグレン氏は、しばらく沈黙していたがやがて口火を切った。
「悪いが、このレッドウルフは調査するのにギルド預かりにさせてもらうぞ」
「もちろんいいぜ」
「……この件について、他に知っている者は?」
「おそらくいないな。ここに帰ってくる途中何か変わったことはなかったか聞いて回ったが、どこのパーティーも特に何もなかったらしい」
「そうか。……よく報告してくれた、後で特別報酬を出そう。ただ、今は他の冒険者たちもいる中だ、目立ちすぎる。落ち着いてからの受け渡しにはなるがな」
「もちろんわかってるさ」
「あと、この件は他言無用だ。全員守ってくれるな?」
威圧感をもって僕たちを見回すグレン氏に、黙って首を縦に振る。それを満足げに眺めたグレン氏は、さっと立ち上がるとドアに向かった。
「よし、あまり長くいても怪しまれる。お前たちも戻れ。また何かあったら知らせてくれ」
「わかったよ」
ドアを開けて部屋の外に出る。事情を知らない冒険者たちは不思議そうな顔をしていたが、グレン氏はその視線をものともせず元通り報告者のもとへと足早に戻っていった。
「……マスターって仕事も大変だよなぁ。まぁ、あの人ならできちまうんだろうけどな。……よし、俺たちもレッドウルフの換金しようぜ」
「はい」
「報酬は3分割でいいよな?」
「はい」
「はい、それで大丈夫です」
冒険者たちの列の1番後ろへと並ぶ。今回のようなギルドからの依頼である場合、肉や素材などをギルド側が買い取ってくれるため、依頼後に窓口にて手続きを行うのだと教えてもらった。
やがて順番が回ってくると、受付嬢がガラス越しにこちらを見上げ、
「お待たせいたしました。緊急依頼の件でしょうか?」
「あぁ。レッドウルフを買い取ってもらいたい」
「かしこまりました。こちらの台にお出しいただけますか?」
窓口横の台を示され、収納袋からレッドウルフたちを取り出す。冷静にそれを見た受付嬢は、窓口に戻ると銀貨を数え出した。
「レッドウルフ8匹になりますので、1匹あたり銀貨22枚、合計銀貨176枚になります。それに加えて緊急依頼料の銀貨50枚が各自加味されます。銀貨は金貨に両替いたしますか?」
「いや。そのままでいい」
「承知しました。……また、イオリ様は今回の依頼でDランクに昇格することができますが、いかがなさいますか?」
「昇格?」
驚いて横を向くとナノヤさんとエレシアが笑顔で頷いている。それを見て、僕は窓口に向き直った。
「……では、そのようにお願いします」
「かしこまりました。ギルドカードも更新しておきますね」
「ありがとうございます」
「……はい、お待たせいたしました。手続きはこれで終了となります。緊急依頼を受けていただきありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
ギルドカードと報酬を受け取る。頭を下げる受付嬢に軽く会釈し、僕たちは列を抜け近くにあるテーブルへと銀貨を置いた。
「176枚とはまた半端な数になっちまったなぁ」
「残りの2枚はナノヤさんがもらってください。僕たちは今回無理を言って連れて行ってもらいましたから」
「そうですね、本来は報酬もいらないぐらいですけど」
「それはダメだ。……じゃあまぁ今回はありがたくもらっておくか、お前たちには手を焼かされてるしな」
とニヤッと笑ったナノヤさんは、案外すんなりと納得すると、僕たちの前に58枚ずつ銀貨を取り分けた。さらに、緊急依頼料の50枚もそれぞれの前に置く。積み上がった銀貨を見て、なんとなくお金持ちになったような気がした。
それも収納袋へとしまう。ここ2週間の間に大体の物価もつかむことができ、銀貨1枚は日本円で言うと約100円だということもわかった。つまり、今回の依頼で合わせて約10800円を稼ぐことができた。
地球では高校でアルバイトが禁止だったため働いたことがなかったが、今後こうして冒険者としてお金を稼いでいくのだと思うとどこか感慨深い気もした。
「まぁなんにせよイレギュラーな依頼も無事終えることができたんだ。お前もDランクになったし
、1人前の冒険者の仲間入りだな」
「あまり実感は湧かないのですが……」
「ま、そんなもんだろな」
あらためて鈍色のギルドカードを手にしてみる。これまでEランク、と書かれていた場所が新たにDランク、と表記が変わっていた。
「2日後に出るまでに1人前になれてよかったじゃねぇか」
「それもそうですね」
「……………」
「エレシア?」
どこかぼんやりしたような、翳りの表情を見せるエレシアに声をかけると、ハッとしたように肩を震わせる。そして取り繕うように笑顔を浮かべた。
「あっ、はい!なんでしょう?」
「いや……ぼーっとしていたからどこか体調でも悪いのかと」
「大丈夫ですよ!元気いっぱいです」
「そうか……」
明らかに空元気だが、本人がそう言っている以上心配することもできない。僕とナノヤさんは気づかれないようこっそり顔を見合わせた。
「……よし、じゃあ、金も稼いだし一服しに行くか!もちろん酒場でな」
「お昼なんですからお酒はほどほどにしてくださいね」
「わーかってるよ」
そう話すエレシアはもうもとに戻ってナノヤさんと漫才めいたことを繰り広げている。ギルドの隣の酒場へと戻る2人を後ろから眺めながら、僕はそっと微笑んだ。
◇◇
その夜、家に帰ってからというものぼんやりしているのが自分でもわかる。その原因もはっきりとわかっていた。夕食を食べ終えた後、月の見える窓辺でただ立ち尽くしていると、コツコツと足音が近づいてきた。
「……姉上?」
「……クレイ」
呼ばれた方を振り返ると、弟がどこか心配そうな表情でそこに佇んでいた。
「姉上……どうかされたんですか?」
「いいえ、何もないですよ」
笑顔で答える私をじっと見つめると、
「……イオリさんが旅に出てしまうから、落ち込んでいるのですか?」
「!」
「やっぱりそうなんですね」
ビクッと肩を震わせると、ため息をつきながら弟がそう告げる。図星をつかれただけに、何も言い返すことができなかった。
「姉上も、本当は一緒に旅に着いて行きたいんじゃないですか?」
「……そうですね。旅に着いて行けたら、どれだけ楽しいでしょうね」
「それなら」
「でも、私は長女です。男爵家の令嬢として、どこかのお家に嫁ぐということもあるでしょう。旅に出たいなんてわがままをお父様に言うことなんて……できません」
「姉上……」
それに、父は母を亡くしてから家族を失うことを恐れている。いつか嫁に行くことになる日がくるとしても、それまでは父のそばにいるのが娘である私の役割だと思っていた。
「それに、もう十分なんです。イオリはとてもいい人で、1ヶ月一緒にいただけで、たくさんの思い出ができました。だから……」
声が尻すぼみに小さくなる。話しているうち、涙がポロポロと頬をつたった。
「あれ……ふふ、おかしいな、悲しくなんてないのに……」
「姉上……!」
グイッ、と袖で涙を拭うも、次々から次へと流れ出て視界を滲ませる。クレイも困った顔で立ち尽くしている。早く止めなければ、と思うほどに涙は溢れ出てきた。
「…………エレシア」
その時、足音を立てずに廊下の影から父が歩み出てきた。どうやら話を聞かれていたようで、月明かりに照らされたその端正な顔は神妙な表情をしていた。
「お父様……?」
「エレシア……イオリ君のことが好きかい?」
「!」
突然何を、と言いかけて止まる。父がこれまでにない真剣な顔をしていたからだ。この場合、好きというのは人間としての好きではなくて、恋愛的な意味での好きをさしているのだろう。質問の意図がわからなかったが、私は一息ついて正直な気持ちを打ち明けた。
「……わかりません」
「うん?」
「彼のことは真面目で優しくていい人だと思うし、尊敬もしています。もちろん好きです。でも、それが異性としての好きかはまだわからないのです」
1ヶ月しか一緒にいなかったにも関わらず、思い出すのはイオリの真剣な顔や普段の無表情な顔、時折見せてくれる笑顔。いつのまにかこんなにも存在が大きくなっていた。でも、それがどういった意味での好きなのか、初恋もまだの私には難しい問題だった。
「……そうか」
とだけ呟いて押し黙った父は、しばらく経って顔を上げ、泣き続けている私を正面から見据えた。
「……行ってきなさい。イオリ君と」
「!」
「僕はお前に望まない結婚をさせる気もないし、幸せになってほしいと心から思っているんだ。それに、もう僕が一から道を示してあげなければいけないほど、子供ではなくなってしまった。自分のやりたいこともしていいし、行きたいところに行っていいんだ」
「お父様……」
「ただし、1月に1回は手紙で状況を報告することが条件だよ。どうだい?」
「お父様っ……」
堪えきれず、父に駆け寄ってギュッと抱きついた。一瞬よろけた父は、たたらを踏んでからふふ、と笑う。
「エレシアはマリアに似て泣き虫だな」
マリア、とは私たち姉弟が小さい頃に亡くなった母の名前だ。父はたびたび懐かしむように昔の頃の話をするので、すっかり聴き慣れたエピソードだった。
「さぁ、もう泣くのはやめなさい。明日イオリ君に会うときに目が腫れていたら心配されてしまうだろう?」
「はい……」
そっと目元をなぞって涙を拭われる。私は静かに父から離れた。
「そういうことだからクレイ、お前もおやすみ。明日はエレシアの手伝いをしてあげなさい」
「わかりました、父上」
「ありがとう、クレイ」
「いいえ」
ニコニコと安心したように笑う弟にやっと笑顔を返す。私たちは微笑みあって、その日は解散となった。
自室に戻り、ベッドに身を投げ出す。窓の外の月を眺めながら、今イオリは何をしているだろう、と考える。もう眠っているかもしれない。
明日、一緒に旅に連れて行ってほしい旨を伝えることを考えると、胸がドキドキした。その日は、騒ぐ胸を落ち着かせながら眠りについた。
✴︎設定です。
銅貨=10円
銀貨=100円
金貨=1000円
白金貨=10000円
短縮詠唱……詠唱を短縮して魔術を行使すること。威力は落ちるが行使するまでのスピードを速くすることができる。