旅立ちへの準備〈4〉
◇◇
翌日、朝から熱いシャワーを浴びてさっぱりした僕はエレシアから借りた植物と魔物図鑑をのんびりと読み進めていた。
窓の外は大粒の雨が降り注いでいる。
時折ペラリ、とページをめくって穏やかな時間を過ごしていると、トントン、とドアがノックされた。
「イオリ、俺だ。ナノヤだが。入っていいか?」
「どうぞ」
本に栞を挟んで閉じると、ナノヤさんがドアを開けて部屋の中へと入ってくる。僕は目の前の椅子に座るよう手で促した。
「おぉ、ありがとな。ちょっと話があってよ」
「僕もナノヤさんにお話があります」
「そうなのか?」
意外そうに目を瞬かせる彼に、僕はゆっくり頷く。昨夜、酒場でナノヤさんのパーティーメンバーたちと約束したことについて話をするつもりだった。
「それで?お前から話していいぞ」
「……わかりました」
本をテーブルの端に置いて姿勢を正すと、ナノヤさんも背筋を伸ばした。
「……実は、ナノヤさんにお伝えしなければと思ったことがあって。今までずっと僕の面倒を見てくださっていましたが、ナノヤさんにも生活があるのではないかと思って。例えば、もともとのパーティー活動をどうされているかはわかりませんが、僕に構わずもとの生活に戻っていただければと。僕ももうだいぶここの生活に慣れてきましたし、大丈夫ですから」
一息に言うと、その間口を挟まず黙って聞いていたナノヤさんがふぅ、とため息をついた。
「……やっぱりその話か。昨日あいつらになんか言われたか?」
「……」
「聞いたんだよ。昨日の夜酒場でお前が俺のパーティーの奴らに絡まれてたみたいだってな。話の内容までは知らなかったが、今の話からすると俺を早くパーティーに戻すよう説得してくれとでも言われたか?」
図星をつかれ、僕はただ黙って首を縦に振ることも横に振ることもできなかった。
「はぁ……勝手なことはするなって言ってあったんだがな。それに今はあいつらとパーティーを組んではいるが、そろそろ抜けようと思ってたところだったんだ」
「……何故ですか?」
「金かな。最初は真面目にやってたんだが、最近は依頼でいろいろズルするして金稼ぎをするようになってきてたからな。だから離れて新しくパーティーを探そうと思ってたんだ」
「なるほど……」
要するに、ナノヤさんと今のパーティーメンバーとで方針が合わず、愛想が尽きてしまったということだろう。
「俺には家族がいるからお前の旅にはついて行けないが、せめて旅に出るまでは力にならせてくれよ」
「……」
「な?」
「……はい」
圧に押されてそっと頷くと、よし!と満足そうにニカっと笑う。なんだか雰囲気に押し切られてしまった感じがした。
「……しかし、彼らは僕が森で倒れていた時にここに連れてきてくれたとも聞きました。悪い方たちではないのでしょう。昨日はお礼を言いそびれてしまったので、良ければみなさんにお礼を伝えておいてくれませんか。もちろん、機会があれば僕も直接言いますから」
「お礼?お前も律儀だなぁ……まぁ、わかったよ。どうせこの後会うだろうし、その時伝えとく」
「ありがとうございます」
座ったまま軽く頭を下げると、
「おぅよ。……まぁ、俺の話も同じだったからこれで終わりなわけだが。お前今日はどうするんだ?」
「今日は雨が降っていますし……1日読書でもしようかと」
「そうか。じゃあ俺はパーティーの方を片付けてくるかな。……明日は晴れたら依頼に行くぞ。喜べ、ついに魔物討伐だ」
「!……わかりました。何か準備するものはありますか?」
「特にねぇな。装備つけて剣を持ってくぐらいだ。魔物と言ってもDランクの低位魔物だからな」
なるほど、と頷く。それだけ言って立ち上がるナノヤさんに、僕も立ち上がって入り口まで送る。ドアの外へと出てじゃあ明日な、と後ろ手に手を振る彼に頭を下げて、その姿が廊下の先に見えなくなってから部屋に戻った。
「ふぅ……」
無意識にため息が溢れたことで思わず苦笑する。ナノヤさんのパーティーの件が案外あっさりと済みそうでホッとしたのだ。ナノヤさんはパーティーを抜けると言っていたのに、パーティーメンバーに対して自分は随分と薄情なことだ、と自嘲した。
頭の中をぐるぐる回る考えを振り払うため、僕は再び本の世界へ飛び込むことにした。ペラリ、ペラリ、とページをめくるごとに徐々に他のことを何も考えなくなってくる。ただの現実逃避だとわかっていながら、静かな世界にのめり込んだ。
◇◇
翌日、ギルドでナノヤさんと落ち合った僕は、早速依頼掲示板へと向かい依頼内容を吟味していた。
ちなみに、パーティーメンバーの件については、あの後ナノヤさんと別れてすぐ、メンバーたちにパーティーを一時的にではなく完全に抜けたいということを伝えてきたそうだ。当然、メンバーからはなんとか残るよう説得されたらしいが、長らく話し合った結果、双方納得してナノヤさんがパーティーを抜けることになったと話を聞いた。昨日のレンさんたちの様子から考えて本当に双方が納得できたのか謎な部分ではあったが、僕に真偽の確認が取れるはずもなく、ただ頷くことしかできなかった。ともあれ、今日もナノヤさんと一緒に依頼を受けることになっていた僕がそんなことを考えている中、
「お、これなんかいいな」
とつぶやくナノヤさんの手元を覗いてみると、
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▪️対象ランク:D
▪️依頼目的:魔物討伐
▪️討伐対象:シルバーラビット5匹
▪️達成日時:2の月30の週まで
▪️達成報酬:銀貨50枚
▪️依頼者:ライフ
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と書かれていた。シルバーラビットとは、昨日読んだ魔物図鑑にも図解付きで解説が載っていた。曰く、「シルバーの毛並みに赤い眼をした体長60センチほどのウサギで、動きが素早いことが特徴。弱点は雷で、痺れると動きが遅くなる。シルバーラビットの肉は高値で取引されている」と書かれていたのを覚えている。
「じゃあ行くか」
「はい」
前回と同じように受付を済ませ、街の外へと移動する。道中、ナノヤさんが横並びで歩きながらふと問いかけてきた。
「お前、魔術の方の勉強はどこまでいってる?」
「エレシアに教えてもらって、ある程度一通りは。練度はまだまだ低いですが」
「十分だ。なら今日は雷属性の魔術を使ってシルバーラビットを倒すか。後は剣で斬るかだな」
「はい」
「だけどお前……」
そこで言いづらそうに口ごもる彼。思わず首を傾げる僕を見た彼はどこか気まずげな様子で、
「……お前、前の世界でナイフで刺されたのがまだトラウマなんだろ?今回は生き物を殺める作業だ。お前にできるか?」
正面から向けられる茶色の瞳に僕は納得する。確かに考えないようにしていたが、これから僕が向かう先は魔物を討伐、要するに殺すためだ。地球での殺生経験もない上に、トラウマのある僕には荷が重い依頼だとも言えた。僕は正直に今の思いを伝えてみることにした。
「……正直、僕の生まれた国は平和だったので生き物を直接殺した経験もありませんし、ナイフや剣を見ると僕が殺されそうになった時の記憶が蘇ってくることは確かです。でも、これからこの世界で生きていく上で乗り越えるべき壁とも言えるでしょう。それならば、旅に出る前に克服してしまった方がいいと思うんです」
一度言葉を切って、腰元に吊り下げている剣に視線を向ける。
「……ですから、今日は克服できるよう協力してもらえると助かります。……だめでしょうか」
「いいに決まってんだろ、そんなもん。お前が前向きに考えられてるのはいいことだよ」
恐る恐るそう尋ねると、ナノヤさんはそう言って笑ってくれる。それに助けられて、僕も微笑んだ。しかし、僕には1つだけナノヤさんに対して疑問があった。
「……僕からも1つだけ、聞いてもいいですか」
「なんだ?」
「何故、僕にこんなに良くしてくれるんでしょうか。一方的にお世話になってばかりで、何も返せていないのに」
「ばっかお前、世の中損得勘定だけじゃねぇだろ。困ってる人が目の前にいたら助けんだよ」
「………」
「それになんかお前は放っておけないというか……。後はまぁ、なんだ。子供のことを思い出すんだよな」
「ナノヤさんのお子さんのことですか?」
「あぁ、俺には5つになる息子がいるんだが……将来大きくなったら、こんな感じで冒険者の道を選んだりすることもあるのかもなって。そう思ったら、なんとなくお前のことも手伝ってやりたくなったんだよ。まぁ、そんな理由かな」
そう話すナノヤさんは照れの含んだ表情で笑みを浮かべている。これだけ情の厚い人なのだ、家族のことはとりわけ思いが深いのだろうと思った。
「……そうですか。ありがとうございます」
「あぁ、お前のその美少年スマイルで礼は十分だ」
照れが勝ったのか最後に茶化してくる。僕はからかうのはやめてください、と不機嫌そうな眼差しを向けてから、再度依頼場所に向かって歩み始めた。
街から歩き続けて約30分、木々に囲まれた森深くでナノヤさんがふと立ち止まった。
「だいたいいつもこの辺りにシルバーラビットがいるんだけどなぁ……見当たらねぇな。もう少し進んでみるか。気を付けろよ、いつ鉢合わせるかわからねぇからな」
「はい」
いつでも剣が抜けることを確認し、慎重に頷く。生い茂る草花を手で振り払いながら進んでいくと、ついに近くの茂みからガサリ、という音がした。ナノヤさんが立ち止まったのを見て僕もその場で立ち止まる。そのまま静かに、と手で示す彼に従って音を立てないようにしていると、左前約10メートルほどの距離にある草むらからシルバーの毛並みをもったウサギがピョン、と1匹飛び出してきた。その赤い眼でこちらを見据え、ウー、と唸り声を立てている。
「……お出ましだな。まずは練習だ、魔術でやってみろ」
「はい」
頷いた瞬間、姿勢を低くして飛びかかってくるシルバーラビット。さすが動きが素早いという説明書きがあっただけあって、スピード感があった。
僕は念のため右手で剣を抜き、左手を掲げて詠唱を行った。
「ーー我が魔力を糧に、貫き給え。雷槍」
バチっ、と音を立てて雷でできた3本の槍がシルバーラビットへ飛んでいき、3本とも命中する。ギャ、と悲鳴を上げたシルバーラビットは、その場でぐしゃりと崩れ落ちた。
しばらくその場でシルバーラビットが動かないことを確認してから、近寄っていくナノヤさんについていく。
近づくと、シルバーラビットは頭に1本、胴体に2本槍が刺さった状態で血を流しながら絶命していた。
「おぉ……やったな」
「はい」
初めての魔物討伐は、魔術により案外簡単に遂行することができ、ホッと肩を撫で下ろす。魔術を使ったからか、自分が生き物を殺生したという実感はあまりわかず、ただ目の前の光景を眺めていた。そして血を流し続けるシルバーラビットを血が漏れてこないよう防水加工のされている革製の袋へと入れ、収納袋へとしまう。
「よし、あと4匹だな。次は……剣でやってみるか?」
「……はい」
「シルバーラビットは今見たように動きは早いが、お前ならちゃんと見ていれば対処できる。危なければ俺も割って入るから、存分にやってみろ」
ありがとうございます、とつぶやく。来る次の敵に向けて、黒剣を手に握りしめる。いよいよだ、と唾を飲み込んだ。再び先に進み始めると、すぐナノヤさんが立ち止まって木の影に隠れた。
「……あっちにいるな」
僕も真似して木の影から顔を出すと、もしゃもしゃと草を食べるシルバーラビットの姿がある。1匹しかいないようで、こちらの存在にも気づかず黙々と食事を続けていた。
「こっちから仕掛けるぞ。……いけるな?」
「……はい」
心の底まで覗き込もうとする瞳をしっかり見つめ返す。僕は剣を手に、木の影から飛び出した。ガサッという音でこちらに気づいたのか、シルバーラビットが食んでいた草から頭を上げる。そして威嚇体勢をとったかと思うと、先ほどと同じように飛びかかってきた。
突進するシルバーラビットを横にステップすることで避ける。シルバーラビットは避けられたことで地面に着地し、再度飛びかかろうと足の筋肉をたわめている。僕はその一瞬を狙って、剣を振り上げた。
ーーザシュッ。
首に振り下ろす瞬間、思わず目をつぶってしまう。すると、手に肉を断ち切る感触が剣越しに伝わってきた。
「……はぁ、はぁ……」
大して動いていないというのに息が切れる。目を開けると、シルバーラビットは首を切られ僕の足元で即死していた。それを見て、頭の中の血管がどくどくと脈打つ音がする。震える手で剣を鞘に戻した後も、手のひらに切り裂いた時の感覚が残っていた。
「……大丈夫か?」
「はい……大丈夫、です……」
カタカタと震える手をギュッと握りしめることで耐える。血の気も引いていたが、これが僕の異世界における第一歩なのだという気がした。
「よくやったな」
ポン、と頭に手が乗せられる。まるで宥めるように左右に動くその手の暖かさに、徐々に体の力は抜けていった。
「…………すみません、ありがとうございました。もう大丈夫です」
「そうか。じゃあ残りも探すぞ」
「はい」
頭の上の手のひらが離れていく。再び皮袋にシルバーラビットを入れ、僕たちは残り3匹を見つけるべく歩き出した。
◇◇
無事、シルバーラビットを5匹見つけて討伐することができた。最初こそ自分で生き物に手をかけることに罪悪感や嫌悪感を抱いていたものの、徐々に体の力は抜けていった。少なくとも、緊張感はなくなっていった。そんな自分に嫌気が差すという悪いループ。しかしこれはどうしようもないことのように思えた。
「よし、これで全部揃ったな。戻るか」
「はい」
帰り道、ナノヤさんは何も話さず静かだった。僕が心を整理する時間を作ってくれたのかもしれないと思う。街に着いてギルドに依頼達成の報告をすると、少し早いが夕食の時間となっていた。
ナノヤさんは今日は自宅に帰って家族と夕食を摂るとのことだったので、僕は1人で酒場のテーブルについた。
とりあえずパスタを頼んで目の前に並べてみたものの、食欲が全くわいてこない。隣のテーブルでジュウジュウと音を立てているステーキを見るだけで、胃のあたりがムカムカした。
仕方なく水だけを口に含んでため息をつく。せっかく頼んだにも関わらず今日は何も食べられそうにないな、と思った瞬間、ふとシルバーラビットを剣で斬った時の感覚がフラッシュバックした。
ぎゅっと目を閉じて我慢しようとしたが、胃のもやもやが治らず、堪らず席を立つ。急いでお代をテーブルの上に乗せ、駆け足で部屋へと向かった。
部屋に戻ると同時にバタン、とドアを閉めてトイレへと駆け込む。途端、猛烈な吐き気が襲いかかってきて、嘔吐した。
「……っう、うぇ……」
するとカタカタと手の震えがまたやってくる。しばらくそうして吐き気と闘っていると、部屋のドアを控えめにノックする音が聞こえた。
「……イオリ?いますか?イオリ?」
ギィ、とドアを開ける音がする。するとエレシアが開けっ放しだったトイレのドアからひょこりと顔を覗かせた。
「イオリ!?大丈夫ですか!?」
トイレの便座に伏す僕にすぐさま駆け寄って背中を優しく撫でてくれるが、あまりの吐き気に返事が出てこない。僕は仕方なくゆっくりと首を横に振った。
「……おぇっ……っう……」
「ゆっくり息をしましょう、大丈夫ですよ」
僕の片手をギュッと握り締めながら、そう励ましの声をかけ続けてくれるエレシア。彼女のその柔らかい声音と体温に深く息をつきながら、落ち着くよう自らの心を宥めすかした。10分ほど経った頃には吐き気も治まり、自然と呼吸ができるようになっていた。
「落ち着きましたか?」
「……あぁ」
心配そうにこちらを見るエレシアにそう返し、立ち上がって洗面所へと向かう。うがいをしてスッキリしてから、エレシアに向き直った。
「ありがとう。傍にいてくれて助かった」
「いいえ。イオリがふらふらしながら階段を上って行ったからどうかしたのかと思って追ってきたんですけど……勝手に部屋に入ってごめんなさい」
「こちらこそごめん。情けないところを見せた」
立ち話もなんだからと、背中を支えるエレシアに従って部屋のテーブルへと向かい合って座る。それで……と聞きにくそうにエレシアが話を切り出した。
「体調は本当にもう大丈夫ですか?何か嫌なことでもあったんですか?……」
「いや……」
この気持ちをどう表現して良いかわからず、俯く。とりあえず頭に思い浮かぶままに口を開いた。
「僕の国は平和だったから、生き物を殺生するなんてこともなくて。今日魔物討伐の依頼で初めて生き物を手にかけた。依頼を受けていた時は割と平気だったんだけど、今になってその時の感触が蘇ってきてどうにも頭から離れなくて。食べ物の匂いを嗅ぐだけでもう気持ち悪くてダメだった」
「そうだったんですか……」
神妙な表情で真剣に聞いてくれるエレシア。窓から差し込む月明かりで彼女の銀糸のような髪がキラキラと輝いている。まるで女神のようだ、とひそかに思った。
「でもエレシアが来てくれて良かった。1人でいると落ち着かなかったし」
「私は何も……。でもイオリが落ち着いて良かったです」
「ありがとう。……君は優しくて美しいな」
「えっ……」
途端ボッ、と顔を耳まで赤くするエレシアに、心の声が出てしまったかと焦る。しかしそう思っていたのは事実だったため、まぁいいかと開き直ることにした。
「……そういえば、仕事に戻らなくても大丈夫なの」
「あ、は、はい、そうだ。そろそろ戻らないと!また何かあったら呼んでくださいね、すぐ行きますから!」
「うん、ありがとう」
「それじゃおやすみなさい!」
「おやすみ」
バタン、と荒々しくドアを閉めてパタパタと駆け足で足音が遠ざかっていく。わたわたと慌てているエレシアも可愛かったが、さすがに正直に言い過ぎたかと反省した。
そして先ほどまでの吐き気がすっかり消えているのを実感する。
「……エレシア効果かな」
部屋で1人ぽつりと呟きながら、寝る準備をするため椅子から立ち上がる。そしてシャワールームへと向かった。
今日はもう、あの苦しい発作は出ないだろうという予感があった。
主人公の世界が変わったことに対する葛藤を書きました。