前編
はあ、はあ、はあ。
生臭い息が『わたし』の耳をかすめる。『わたし』は泣きそうになりながら、何でこんなことになってるんだろうとごちゃごちゃした頭で考えようとした。したけれど、頭の中がまとまらないのでやめる。第一、そんなこと考えてる暇なんてないもの。
目が覚めた時、『わたし』の足元には誰かがいた。その誰かが『わたし』の服を脱がせようとしてたのだと気がついたのは、はいていたはずのパジャマの下が脱げていたから。あわててその人を蹴り飛ばしたけれど、その誰かは懲りずにじりじりとにじり寄ってくる。一体どこの誰なんだろう、この人。
『きゃ、こ、来ないでっ!』
迫ってきていた息の主を何とか押し戻して、必死で狭い部屋の中を逃げ回った。長い髪が寝汗にまとわりついて気持ち悪いけれど、そんなことを言っている場合じゃない。
ほっそりした感じの、いわゆるガリ勉タイプの相手だから『わたし』はどうにか逃げられている。これがスポーツマンタイプの相手だったらとうの昔に、その餌食になっていただろう。
でも、多分相手の体格差はほんのちょっとだけの時間稼ぎにしかなっていない。だってほら、その誰かはニタニタ笑いながらゆっくりと歩み寄り、『わたし』に向かって両手を差し出してきている。
『さあ、おとなしくしていれば怖くないからね。はあ、はあ、はあ』
何を言っているんだろう、この人。真夜中の女の子の部屋に押しかけて荒い息をついている、見知らぬ男性が怖くないわけないじゃない。ちらりと月明かりに映し出された顎の細い顔はやっぱり知らない顔で、両目はらんらんと輝いている。『わたし』のことを、獲物としか思っていない目だ。
『いや! 来ないで、誰かあ!』
必死で声を振り絞ってみたけれど、ここは1人暮らしの人が多いアパート。『わたし』もそうだけど、住人はあまり隣近所に関心がない。それに、うっかり悲鳴に反応して出ていったら自分が巻き添えを食うかもしれない、と考えるだろう。
だから、助けは来ない。
『わたし』は妙に冷めた頭の一部分で、そう結論づけていた。でも、頭の大部分は相変わらずパニックで、何とかして逃げ出そうともがいてる。ああ、逃げるなんて無理かもしれない。だって彼はもう目の前にいて、実に楽しそうに舌なめずりをしてるんだから。
『はあはあはあ、君の――は僕のものだよ。さあ観念して……』
『いやああああっ!』
思い切り叫びながら両腕を伸ばし、彼をどんと突き飛ばした。そのままくるりと振り返り、部屋から逃げ出すために月明かりの方へと飛び出して――
「――あ、夢か」
私が目を覚ましたのは愛用のベッドの横、ぶっちゃけフローリングの床の上だった。寝返りを打っているうちにごろんと落っこちたらしい。寝相が悪いわけでもないのになあ、どうしたんだろ?
起き上がってみると、まだ室内は暗い。時計の針がぼんやり光ってて、ただいま午前3時半だと教えてくれる。世の中では朝の3時半ともいうけれど、私にとってはまだ夜中だ。
時刻を確認してから、改めて室内を見回す。そこは住み慣れた我が家の、自分の部屋。アパートの一室ではない。うちは、サラリーマンのお父さんが頑張ってローン払ってくれてる静かな住宅街の一軒家だ。
「……いない……当然か」
夢に出てきた男が部屋にいないことを確認して、私はほうと胸をなで下ろした。小説で読んだことがあるけど、ほんとにほうって言うんだ。
「……てかさ、あれ誰よ。私あんな性格じゃないし」
寝起きのせいでボサボサの頭を、かき回しながら首を傾げてみる。夢の中と違って、現実の私の髪はいわゆるベリーショートだ。あそこまで伸ばすと重いし暑いし、シャンプーの時とか面倒だもん。
知らない部屋で知らない男に追いつめられていた、私じゃない髪の長い『わたし』。私のどこをひっくり返しても、あんな女の子らしい悲鳴を上げる人物は出てこない。いくら夢でも、あれだけは理解できないなあ。あいにく、しおらしいタイプの女の子に憧れてはおりません。情けない話ながら、きゃーじゃなくてぎゃーと叫ぶ性分だし。
『んだぁ? なに、どーした?』
「何でもない。ベッドから落ちただけ」
不意に、ベッドの枕元から声が聞こえてきた。夢の男の声じゃなくてもっと子供、まだ声変わりしていない男の子みたいな、キーの高い声。幸い、この声の主を私はよーく知っているので、感情を飲み込んで事実だけを正確に伝える。別にどんな夢見たとか、そういう報告する必要はないと思ったから。というか、こいつに心配はかけたくない。
『そっかあ……まだ夜中だぞ、寝直せぇ……』
「言われなくてもそうするってば」
自分が眠たくてしょうがない、というその声に同意して、私は布団に入り直した。がばと枕に顔をうずめると、すぐに睡魔がまぶたの上にずっしりとのしかかってくる。
「んー……あー、ねむ……」
そのうち、私はもう一度眠りに落ちていった。次に目が覚めたら、さっきまで見ていた夢の内容なんて忘れちゃうんだろうなあ。いや、すっぱり忘れられたらその方が気分がいいんだけど。
寝直した私が見た夢は、小学生の頃のものだった。ああ懐かしい、3年ちょい前の話か。
私が通ってた小学校はかなり古くからあった学校で、木造だった校舎をコンクリート製に建て替えてからも数十年たっている。その校庭の片隅に、多分学校が始まった頃からのだろう、古い石像がぽつんと立っていた。
由来は知らない。もしかしたら先生から説明があったのかもしれないけれど、すぐに忘れた。ただ、薪を背負って本を読んでいる昔の少年の像は、古くなってたうえに子供&一部大人によるイタズラであちこちが欠けて崩れていた。
卒業式の朝、私はなんとなく友達と一緒にその石像を見に行った。そいつはいつの間にかぼろぼろに崩れて、上半身がなくなっていた。地面には元上半身だった石のかけらが散らばっていて、私はああ、もうおしまいかあ、とぼんやり突っ立っていたことを覚えている。
それから私は、白いかけらを1個拾ってポケットにしまった。理由は特にない。強いて言えば、学業成就のお守りのつもりだったのだろう。何たって、小学校の成績表には「よくできました」の文字がどこにもなかったから。一緒に来てくれた友達が、ほんとにお守りになるといいですね、とくすくす笑ってた。
その、小学生の手の中にすっぽり収まる小さな石が本当に、でも本来とはちょっと違う意味でお守りになった。
この私、水無瀬秋野の。
水無瀬秋野。
ただいま高校1年生。誕生日は名前通り秋で、今は夏なので年齢は15歳。成績は中の上、ごくたまに上の下。クラブは帰宅部。身長体重スリーサイズ容姿、どれをとっても平凡。いや、ウエストはもう少し締めたい。なら運動部にでも入れよという突っ込みは却下。インドア派なのだ。
学校から見ても親から見ても自分から見ても、何の取り柄もなくかといって目立った欠点も見あたらない。ごく普通の女子高生だ。
朝起きて、学校に行って勉強して、バイト先に行ってバイトして、家に帰ってテレビを見て宿題して寝る。基本的な生活サイクルを見ても、特に目立つような点はまるでない……と思う。
『秋野ー。オレ、いーかげん腹減ったあ』
そんな私のことを、絶対忘れずに呼びかけてくる奴がいる。枕元で寝ぼけた声を出した張本人……いや、人っていうのはおかしいか。だって人の姿してないし。もっとも、他人様が声だけ聞いたら中学生くらいの男の子だ、と思っちゃうだろう。
「はいはい。今回は何食べる? ニーミ」
『コンビニおにぎり。高菜を所望~』
私が名前を呼んでやると、会話の相手の口調がうれしそうに弾む。ペットに懐かれてる飼い主みたいで悪い気はしない。ある意味、私も飼い主なわけだし。
「あれ、前回はツナマヨだったじゃん? あれはいいの?」
『はは、ありゃちょっと腹にもたれてさ。サッパリ系の方がいいかなって』
「そっか。ま、食べるのあんただしね」
ぼそぼそと会話しながら、コンビニに入る。ハタから見たら絶対、私のことは独り言ぶつぶつ言ってる変な女の子にしか見えないだろう。『男の子の声』が聞こえるのは、こいつを知ってる奴か霊能力者とかいう連中か、はたまたこいつの同類かである。お陰で中学時代は、事情を知ってる友人以外には変人だと言われたもんだ。
何たって会話の相手……ニーミは、制服のポケットに入っている3センチほどの、小学校の卒業式の朝に拾った石ころ、なんだもの。
帰宅してすぐ、私はさっさと自分の部屋に引っ込んだ。夕食までにはもう少し時間があるので、その前にやらなきゃいけないことがあるから。
買ってきたおにぎりから包装のビニールを引きはがし、皿に乗せる。その横に、制服のポケットにいつも入れてあるハンカチから石を取り出して置いてやった。
『やったー、ごはんごはん!』
と、かたんと硬い音を立ててそいつは動き出した。どこからどう見てもただの白い石が器用に身体を揺らしながら進んでいく様子は、いつ見てもアニメか何かの1シーンにしか見えない。かったこっとかったこっと、という妙にリズミカルな足音もどきが余計にアニメチック。そうか、そんなにお腹がすいていたか。石なのに。
『では、いただきまーす』
「どーぞおあがり下さい。残すなよ」
『おう、頑張るー』
そして、礼儀として私が教え込んだ食前のあいさつの後は、下手するとアニメでも見られないシーンだろう。おにぎりに石ころがもたれかかるように乗っかって、そのまま食べ始めるんだから。どうやら人間でいうところの口に当たる部分が平らになっていて、その部分がぞりぞりと海苔に包まれた米の塊を削っていくさまは何というかこう、食事風景というよりは工作してる真っ最中みたいな感じである。さすがにどこで消化してるのか、石ころより大きいサイズであるおにぎりは一体この石のどこに入ってるんだろうとか、下の話だけどカスはどうしてるんだろうとかその辺は、そこそこのつき合いになる私も知らない。妖怪の身体がどうなってるかなんて、解剖しても分からないんじゃないかな。
とは言えともかく、この石はご飯を食べるのだ。幸い、今のところは月1くらいのペースなので助かってるけれど。毎日食べさせてたら、いくらバイトしてたってこっちの小遣いが厳しい。
などと考え事をしている間に、おにぎりはきれいさっぱり消え去っていた。全部この石が食べ尽くしてしまったのは言うまでもない。で、ご飯の後はやっぱり一服。その前に口、に当たる部分をちゃんとふきんで拭くのも私が教えた。そのまま動いたら、推定口の周りについた海苔やおにぎりの具でテーブルとか汚れるじゃないか。
『ごちそーさまでした。おいしかった』
「お粗末様。で、お茶いる?」
『あ、欲しいな』
「分かった」
おにぎりと一緒に買っておいた小さいペットボトルのお茶を開けて、ニーミ専用のトレイに注ぐ。「はいどうぞ」と置いてやると、石はかっこかっこと移動してきてことん、ちゃぷ、とお茶の中に浸かった。お茶の量がするすると減っていくのは、目の前にある石の正体を知らなければマジックに見えるだろう。知ってたら知ってたで、ある意味怪奇現象なのだけど。
『ふう、満足満足』
どこで覚えたのかは知らないけど、もし人の姿してたらごろんと横になってお腹さすってる時のセリフを吐く石。私はこいつの食事と一緒に買っておいたスナック菓子をつまみながら、その石を指先でつついた。おう、微妙にしっとりと水分を含んでいる。
「満足満足って、あんたまだ赤ん坊でしょが」
『うー、その言い方傷つくー。確かにそうだけどさ、これでも秋野よりは年上だぞ』
「今、30くらいだっけ。それでもまだまだ一人前とは言えないんでしょ」
『そうだけどー。これでも他の同類より成長は早いって、岬言ってたろ?』
「妖怪の時間と人間の時間は違うの!」
いかんいかん、ついつい言い方が荒くなってしまった。でもこれが、石が動いて食事をする理由でもある。
妖怪。
そう。この石、つまりニーミと私が呼んでいるこいつは、いわゆる『妖怪』……付喪神という化け物らしい。何でも長く存在した物に魂が宿ったとかいう代物で、要するにこいつは小学校にあった石像に宿った魂ということになる。本体がぼろぼろになって、自分も消えかけてやばいなーと思っていたところを私に拾われて、ご飯もらえたお陰で生きながらえたと本人は言っていた。本人って人じゃないけど、それ以外の呼び方を私は知らないのでかんべんして欲しい。
つまり、私はこいつの命の恩人なわけだ。いやもう、感謝されたのなんのって。ただ、顔もなければ人型もしてないただの石っころにいきなりお腹空いただの、助けてくれてありがとうだの、あんたは命の恩人だーなんてまくし立てられた時の私の気持ちを考えてみてほしい。一体何があったんだ、とぽかーんとなってしまうんじゃないだろうか。うん、私がそうだったんだけど。
妖怪っていっても、ニーミは何でも生まれて30年ぽっちだそうだ。私よりはずっと年上だけど、この種類の妖怪としてはよちよち歩きの赤ん坊レベルなのだという。妖怪の寿命ってあるのかどうかは知らないけれど、まあ人間よりは長生きなんだろうなと私は勝手に思っている。
で、私はその赤ん坊を助けたわけで。
『分かってるって言ってる。ちゃーんと、アンタが生きてる間に一人前の妖怪になってみせるってば。な、かーちゃん』
「かーちゃん言うなー!」
……こうなってしまった。拾われたニーミは、拾った私を何故だか自分の親みたいなもんだと認識してしまったわけだ。なんでやねん、と関西弁で突っ込みたくなる。
だけどそうなると、私はこいつを何とか一人前になれるように育て上げなきゃいけない……と思い込んでしまって。最初は気持ち悪くってもう一度捨てようか、いっそ金づちでたたき壊そうかとも思った。けど、いくら相手が石だからといっても捨て子や撲殺は後味が悪いし、何と言っても子犬みたいに懐かれてしまったこともあって、良心がとがめまくった結果がこう。ああ、古い言い方だけど花の女子高生が何で妖怪の母親だなんてねえ。
でもまあ、それなりに良いことも実はあったりした。学校で、学業成就のお守りとして拾っただけのことはあって、成績が中の上ごくたまに上の下をキープできているのはニーミのおかげだ。実はこいつ、さりげなく頭が良いのである。一緒に勉強したら、私より理解が早い。それでいて、私が分からない部分を指摘するとものすごーく分かりやすく教えてくれる。うっかりすると、学校の先生より上手なんじゃないかな。
そんなわけで、宿題中やテスト勉強の時はニーミが私の勉強を見てくれている。塾通いしなくてもそれなりの成績なのはひとえにこいつがいてくれたから、だ。
さすがに妖怪使ってカンニング、なんてしょうもないことはやってない。それはニーミも分かっているのか、テスト中はカバンの中でおとなしくしてる。別に私が教えたわけじゃないから、分かってるんだろうなあ。それとも元小学校在住だったから、先生のお叱りを聞いてたりしたんだろうか。
『……でさあ、かー……じゃないや秋野。宿題やらなくていいのか?』
かたかたと、机の上で石が身体を揺らせる。こやつ、もしかして自分がやりたくて私に宿題やらせてるんじゃないのか、と思う節もまあなくはない。でも、宿題忘れて先生に叱られるよりはよほどましだ。
「うっさい、私はまだ晩ご飯食べてないんだから。後にしなさい後に」
『はーい。そんじゃ、待ってるぜー』
かたかたかた。何かのリズムを取るかのように、規則正しく机を叩くニーミ。私ははいはいとうなずきながら、自分の食事を摂るために腰を上げた。
夕食の後は石と一緒に宿題を済ませ、風呂に入り、明日の準備をすませてベッドに入って寝る。ハタから見たら変かもしれないけど、これが私の日常風景。ニーミに会ったその日から、毎日こんな感じで生活してる。
さて。
うちの高校は、小学校ほど歴史はないもののそれでも創立30年ほどになる、ドが付くほど平凡な公立高校だ。ついてる名前は地名だし、制服も冬は地味な紺色のブレザー、夏は少し明るい青のベストとボックススカート、男はスラックス。胸元を飾る濃い赤のリボンは好きだけど、朝急いでる時に結ぶのは結構面倒くさい。
お勉強好きな方々はよその進学校に行っちゃっているので、うちの生徒はのんびりと学生生活を楽しんでいる。2年の夏くらいからは就職にしろ大学受験にしろ忙しくなるようだけど、私はまだ1年生だし。いや、今から考えておいてもいいか。
で、学校にありがちなのがいわゆる七不思議。うちの高校にもそれなりに歴史があるおかげか、代々ちゃんと伝わっている。内容はやっぱりありがちな話ばかりなんだけど、最後の7つ目がちょっと珍しいかもしれない。
ちなみにこの高校には、ニーミの元になったあの石像はない。中学でも見てないので、最近の学校にはないのかな。撤去されたのかもしれないけど、変に口に出したらニーミが凹みそうな気がして聞けないでいる。
「……でね、ルーがまた夜中にやらかしたらしいんですよ。3年の男の先輩が聞いたとかで、3年生じゃ噂になってるみたいです」
午前の授業も終わり、ただいま楽しい昼食タイム。私と校庭の花壇に並んで座り、弁当広げつつこういうネタを振ってくるのは、セミロングのふんわりした髪が羨ましい物心ついてからの腐れ縁である一橋岬。悪い子じゃないんだけど妙にオカルト好きで、丁寧語はいいんだけど何かっていうとその手の話ばかりしてくるのがちょっと問題かな。とはいえ、そのオカルト好きが私には助かっている部分がある。ニーミのことに関してだ。
こいつはニーミを拾った時一緒にいて、お守りになるといいですねと言ってくれた張本人。そういうこともあって、ニーミのことはよく知ってる。付喪神だっていうのも、岬がいろいろ資料を調べて教えてくれた話だ。それまで石ころ自身、自分がどういうものなのか知らなかったんだから。
「また? ま、深夜なら不法侵入だろうけどさあ。どーせいきなり『運命』の頭やったんでしょ、じゃじゃじゃじゃーんって」
「らしいですー。そりゃ、驚きますよねー」
「あはは、まったくもー。少しは自粛してもらえるように頼んでみるか」
「本人としては防犯ベルのつもりなんですし、放っておいてもいいんじゃないですか?」
「そうかな。けど、騒々しい防犯ベルよね」
「その方が効果ありますもん」
うふふ、と口元を押さえて岬が笑う。これは該当者を思い出しての笑いだろうな。
話のネタになっているルーっていうのは我が校七不思議の1つ、音楽室に飾ってあるベートーベンの肖像画のことである。要は絵が夜中に抜け出してピアノリサイタルやるという、大変にベタなネタ。この手の話のお約束として本来人がいないような時間帯にしか動かないんだけど、住宅街の中にある学校ってことで聞いたことのある人は結構多い。
なお防犯ベルの効果としては、数年前に校舎を荒らしに入り込んだ卒業生がスピーカーごしの大音量『運命』に腰抜かして逮捕された、という事件があった。新聞にも記事が載ったので、私も入学前だったけど知っている。慣れたご近所さんは『運命』がかかると、ああまた学校に不審者だと警察に通報するそうだ。今回はどうだったんだろう。
「でも珍しいよね、3年生が引っかかるなんて。ルーのこと知らなくても、七不思議を知らないわけじゃないんだし」
「そうなんです。警察さんのお話によれば、男性1人らしいってことくらいしか。詳しいことは先生に頼むしかないですかね」
「三段壁先生かあ……それっきゃないかな」
ああやっぱり通報されたかと考えつつ、私は岬の意見にうなずいた。学校内で情報を集めるには、生徒間の噂を拾うか教師から流してもらうかってのがパターンだ。その点、私たちは恵まれてる。
三段壁映。うちのクラスの担任教師で、マンションに住んでる岬とはお隣さん。こちらもニーミのことは知っていて、というか入学式及びお初のホームルームの直後に「水無瀬と言ったか。その、ポケットに入っているのは何だ」と聞いてきたのがきっかけになって何かと力になってくれる。
先生はご実家の関係で霊媒師とかそっち系の能力も持っていて、幽霊や妖怪相手に『言って聞かない奴は殴る』人である。幽霊なんて実体がないはずなんだけど、どういうわけか先生は殴れるのだ。断言できるのは、目の前で地縛霊をストレート一発で殴り倒したことがあるから。なお、人間は「罰則規定や警察絡みで面倒になるから」基本的には殴らないとのこと。うん、体罰とか言われたらいろいろうるさいもんね。
「あ、そうそう。最近モーツァルトがしゃべり始めたそうですよ。あいさつ行きます?」
「あ、マジ? そうだね、ルーの話も聞きたいし行っとくか」
いきなり話が切り替わった。とは言っても、岬の中では多分話はつながっていると思う。さっきのルーの話からだろうなあ。
音楽室の壁にベートーベンの肖像画と並んでいる、数名の作曲家の肖像画。その中の、ベートーベンの隣に貼ってあるモーツァルトのことを岬は言っている。ルーと知り合いになってからそっちも自己主張するんじゃないかって思ってたけど、やっと来たか。いつもいつも隣でやかましくしてたら、いい加減にしろとか言いたくなるだろうさ。
というわけで放課後。今日は吹奏楽部の練習がないから、音楽室にいるのは私と岬とニーミくらいである。ああ、もう2人。
『まったく、何とかならないか。こいつがいるとやかましくてかなわん』
外はねの髪、眉間にしわ寄せて難しい顔をしているベートーベン、じゃなくてルー。この呼び名は本人の希望だ。コワモテかまして可愛い呼び名を希望するなんてこいつ、絶対中身はベートーベンじゃない別の何かだ。
『よろしゅーに。僕のことは気軽に、あーちゃんと呼んでくださいな~♪』
そんでもってこちらが新人さんのモーツァルト、じゃなくってあーちゃん。こっちも中身が本人のわけがない。本人を知っているわけじゃないけれど、いくら何でもノリが軽すぎる。いいのかクラシック音楽家、ただし外見のみ。
「んまあ、その辺はどうでもいいです。お2人でじっくり話し合ってくださいね」
岬は呆れ顔で、あーちゃんの言葉をさえぎる。お、絵の中のあーちゃんが顔をしかめたぞ。石の分際で食事するニーミといい、妖怪って結構器用なんだよねえ。それはともかく。
「ルー、話聞いたわよ。どうしたのさ」
『非常ベルの話か。その……あの生徒、学内であるにも関わらずハレンチな行為に及ぼうとしたのでな。ついつい』
「はれんち?」
難しい顔で描かれてるルーの口から出てきたのは、いわゆる死語であった。はれんちってえーと、エロいとかいう意味だったっけ?
『はい、夜中に男の子と女の子がここで話してはったんですけど、男の子が嫌がる女の子の肩に手ー伸ばしはりまして、どさっと押し倒さはりまして。で、ルー先輩がじゃじゃじゃじゃーん、とかまさはったところで女の子はいなくなっちゃいましてん』
あーちゃんもルーに同調する……って、何で関西弁!? まさか、モーツァルトはモーツァルトでも浪花の方か!? いや、それは後だ。この際妖怪の口調なんか気にしてられるか。
だけど、何かおかしいな。岬も眉をひそめてる……ああ、そうだ。お昼に岬から聞いた話と食い違う点があるんだ。
「あれ? 噂じゃ男の先輩1人って……ねえ」
「はいー。女の人がいたなら、もっとにぎやかに噂してると思いますし」
『だよな~。夜中の学校で男子生徒と女子生徒、肝試しデートとか言いそうだ』
ポケットの中から器用にはい出してきたニーミも、私と岬の意見に賛成してくれる。夏の夜に肝試しデートか……この学校でやったら、きっと暖房が欲しくなるぞ。七不思議諸氏、面白がって参戦してきそうだし。
『しかし、我らは制服を着用した女子を見ている。そうだろう、あーちゃんよ』
『はいな。きれいな長髪の女の子でしたわ』
ルーとあーちゃんがお互いに視線を合わせ、うんうんとうなずき合う。少なくともあーちゃんのことを好いてないっぽいルーがその相手に同意を求めるくらいだから、2人の話に嘘はないのだろう。すると。
「あー。跡形も残さず消えたとかいうんなら、もしかしてその女の子、あんたたちの同類?」
『かもしれんな。あいにくワシはそういう方面の感覚にうとくてな、すまん』
『僕もごく最近自意識持ったばかりですさかい、よう分かりませんわ。すんません』
あ、著名な作曲家・ただし外見のみに謝られてしまった。うーむ、分からないものはしょうがないか。ニーミだって、岬が教えてくれるまで自分の正体を知らなかったわけだしね。
「そっか、ありがとね。……で、その3年生か女の子、どっちかの顔か名前、分かる?」
『あ、僕、女の子の名前覚えてます。男の子が彼女のこと、よつやくん言うてました』
『ワシは男の方なら。何しろ今の生徒会長だ』
「よつや、ですか?」
「生徒会長……って、ええーっ!?」
女の子の名前は知らない。けれど何でまた、その相手が平凡な高校に在学している理由が分からないほどの飛び抜けた脳みそを持ち、既に大学の推薦も決まってるって噂のある生徒会長なんだろう?
『秋野、知ってんのか?』
ニーミが私の顔を見上げている、ように私には思えた。そりゃ、ただの石ころが見上げてるとか言ったら普通の人は妄想か擬人化かと思うのだろうけど、私はこいつの母親だからそのくらい分かる。そういうことにしておいてほしい。妄想だったら気分的に嫌だ。
「生徒会長の方ならね。ほら、入学式の時、生徒代表であいさつしたでしょう。あんたも声くらいなら聞いてるはずよ」
『あ、あのにーちゃんね。了解了解』
ニーミの頭と思われる部分を指先で突っつきながら教えてやると、ちびすけは納得したようにうなずいた。ほんとに暫定頭部がぴこぴこ動いたんだから、うなずいたんだろう。
ちらりと岬に目を向けてみると、大変分かりやすくワクテカ顔だった。調べる気満々だな、と分かりつつも一応確認をしてみよう。
「……岬。調べてみる?」
「当然ですよ。差し当たって、三段壁先生から情報引っ張ってきますね、後はメールで」
「そうね。頼むわ」
やっぱりね。ともかく、事情が分かったところで後は岬に任せて、今日は家に帰ることにした。ルーもあーちゃんも、情報ありがとうね。
しかしまあ、ニーミを拾ってから3年と少しになるけれど、特に高校に入ってからこの手の事件が周囲でよく起きるようになってしまった。まあ妖怪であるニーミが引きつけてるってのがお約束なんだろうけど、このちんちくりんな石ころに何ができるんだって思う。
『……かーちゃん。オレ、迷惑かなあ?』
「ばーか。しょうもない心配すんな」
だから、私はその石ころをぴんと指先で弾いた。おっと、ピアノの下まで転がってっちゃったな、自力で出てきなさい!