(8)
伊吹が腕を上げ伸ばすと、その指先に一羽の鳥が止まった。
純白な美しい羽を持つその鳥は、伊吹のひとさし指の上で軽やかにひと声鳴くと、ぱっと羽を広げ飛び立っていった。
それはまるで一枚の絵のようであった。
思わず見とれて小夜の歩みが再び止まる。
「どうしたの?」
数歩先を行く伊吹が振りかえった。
「ん……何でもない」
「そう?」
伊吹はそこでにっと笑うと小夜の顔を覗き込んだ。
「ひょっとして、ぼくに見とれてた?」
「ば、ばかっ」
拳を振り上げるが、伊吹はひょいとそれを避けてかわした。
「私はお前に見とれていたんじゃないぞ。あの白いきれいな鳥に見とれていたんだ」
いいわけがましく、小夜はプンと横を向いた。だが、顔が火照っているのが分かる。照れ隠しにそんな動作をしても、伊吹には丸見えだ。
「ふうん、残念だなー」
だが、伊吹はそれ以上突っ込むこともなく、意味ありげに笑うと、再び歩き始めた。
伊吹は時々立ち止まっては、珍しい花や動物たちのことを丁寧に教えてくれた。
朔の夜にしか咲かない花のこと。冬でも冬眠することなく活動する動物のこと。悲しげな歌を歌う鳥のこと。
小夜の村からはそんなに離れてはいないはずなのに、こんなにも不思議な生き物たちであふれている。
(神域っていうのは、あながちでたらめでも何でもないんだな……)
そう思わせるほど、ここは清らかな空気で満たされているのだ。そして感じるのは――ここは見えない何かの力で強く守られているということ。
「小夜……」
前を行く伊吹の足が止まった。
「どうしたんだ?」
「悪いけど、ぼくはここまでしか行けないんだ」
「?」
「いや、ほら……日が暮れる前にぼくのほうが帰れなくなる」
笑って前方を指差した。
「ここまでくればわかるかな?」
伊吹が指し示すほうに目をやると、なるほど、見なれた山道と、道を遮るようにして居座っている巨岩が見えた。
しばしば来る、という場所ではなかったが、それでも毎年紅葉が色づくころになると、村の子どもたちと年に一度は訪れる地帯だ。
神域に近いこともあり、普段はめったにここまで村人たちが足を踏み入れることはない。
ただ、毎年この時期の許された期間だけ、山の恵みでもあるきのこや木の実を求めてやって来るのだ。去年も来た覚えがある。
「ここからなら一人でも帰れる」
「本当?」
「――私の方向感覚と記憶力はこれでも村一なんだぞ」
威張って胸を張る小夜を見て、伊吹は笑った。
「ぼくとこの森で出会ったのは?」
方角を見失い、帰る道も、かといって進むべき道も分からず神域にまで迷い込んだことなどすっかり忘れてしまっている。
伊吹に言われて小夜も照れたように笑った。
伊吹は握っていた小夜の手を離す。――別れのときが来たのだ。
小夜の心がきゅっと締め付けられるように痛んだ。ここで伊吹と別れてしまうことが、とても悲しくそして切なかった。
たった数刻だけ共に過ごしただけであったが、伊吹は初めて同じ目線で話をしてくれる同世代の者だった。
伊吹ともっと話をしたい――そう願わずにはいられなかった。
だからだろうか、小夜の口からは自分でも驚くような言葉がするりと出てきた。
「また、ここに来てもいいか?」
それは伊吹にも予想できなかった言葉だったに違いない。一瞬、驚いたように瞳を大きく見開いた後、伊吹は目を細めた。
「君が……望むなら……」
「ありがとう」
小夜の顔がほころぶ。
くるくると楽しそうに、叉羅沙は二人の周りを駆けずり回っている。
「じゃあな、叉羅沙」
差し出された手に叉羅沙は頬擦りした。
「じゃあ、私は行くから」
「うん」
「またな」
手を振って小夜は山の斜面を駆け下り、その下にある山道へと降り立った。そこでもう一度だけ伊吹を振り返り、大きく手を振った。
伊吹も小さく手を振り返ってくれた。
名残惜しくて、それからも何度も何度も小夜は振り返っては伊吹に手を振った。彼の姿が木々に隠れて見えなくなるまで……。