(4)
ここは――どこだろう……。
村は見えない。
ここはどこだろう……。
早く行かなければ。
伊吹との約束の地へ早く。
だが、周りは行けども行けども樹ばかり。時折枝葉から見える青い空はいつまでたっても暮れる気配はない。
霧が立ち込めた森の中で、伊吹の幻影を見た翌日。小夜は伊吹に告げたと場所へ向かった。だが、どこかで道を間違えてしまったようで、目的地へとたどり着くことができない。通いなれた道で迷うはずなどないのに。やはり伊吹に言われたように、自分の方向感覚はあまりあてにならないらしい。
伊吹と出会ったときに言われた言葉を思い出し、くすりと思わず笑いがこぼれる。
とりあえず引き返そう。それが一番いい。
そのとき、あの大樹のもとで聞いた鈴のような音が脳裏に響いた。
その後、自分がどうしたのか、小夜にははっきりとした記憶がない。どこをどう歩いたのかも、今自分がどこにいるのかも。けれど、不思議と恐怖は感じていなかった。
ただ、心の中には伊吹との約束を果たさなければという思いがあふれていた。
早く行かなくては。約束の場所に行かなくては。
少しばかり焦る一方で、今、小夜の心は何か大切なことをやり遂げた後のような大きな喜びと、それとは相反する空虚な思いで満たされているのを感じた。
ふうと一つ息をはく。
なんだかひどく疲れた気がした。少しだけ休みをとってこれからどうすべきか考え直そうと腰を下ろし、空を見上げた。
青空がどこまでも続いている。
「ああ、きれいだな……」
本当にきれいだ。自然は時折厳しい面も見せるけれど、それでもなお人々の心を癒すほどの美しさで自分たちを迎えてくれる。
そして、伊吹がいるはずの神域にも、確かにこの空は続いているのだろう。
ゆっくりとまぶたを閉じた。
全身で森を感じる。風を感じる。まわりのすべてのものと一体化するような感覚に襲われた。
大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
ああ、なんだかとても眠い……。
すべての体力を使い果たしたかのように、全身がだるい。
「疲れたな……」
小夜は一人呟き、もう一度天を仰いだ。
その直後のことだった。小夜の細い首にかけられていた玉がパンとはじけ飛んだ。玉は小さな破片へと姿を変え、静かにその身を大地に沈めていく。
そうして――小夜の身体がゆっくりと崩れはじめた。
愛らしい鼻も口も、漆黒の瞳も。すべてが土色へと変わり、崩れていった。
さらさら……
小夜は森の土へと戻っていった。
本来有るべき姿へと――。
晩秋のある日のこと。「迷い人の村」から一人の少女が姿を消した。いつものように「森へ行く」その言葉だけを残して。
養い親の村長は、彼女がそういって出かけるときは、たいていいつぞやかに怪我の介抱をしてくれた人のもとへ行っているのだということを知っていた。だが、彼女が森のどこに行っているのかは、知らなかった。それは、巫女であるおばばにも言えたことだった。
かつて彼女を助けてくれた「彼」はどこにいるのだろうか。
深い森の中に思い当たる場所はなく、少女の言葉を頼りに、村人たちがあたり一帯を捜索したものの、ついに少女を見つけることはできなかった。
「彼」は神だったに違いない、彼女は神隠しにあったのだと村の者たちは噂した。あんなに愛らしい少女だったから、と。
「やはり――行ってしもうたの……」
ぽつりと村長はつぶやいた。
「だから言ったろう。小夜はやがて去る、とな。それでもお主は小夜を手元に置くことを望んだのだから仕方あるまい」
おばばの言葉にそれはおまえも同じだろう、と村長は思ったものの、それを口にすることはしなかった。
小夜が山から長に連れられてやってきたとき、奇妙な胸騒ぎを覚えた。それは少女が村では神域とされている方角を指差したとき、より大きなものとなっていた。
この少女はどこからきた?
この少女は本当に迷い人の子か?
この少女は──?
不安が常に付きまとう。
そして収穫祭のあとにあった森告げ。そこには、もっとも怖れていたものがあった。
やがて小夜はここから去ってしまう、と――。
だからこそ、おばばは急いて小夜を巫女にしようとしたのだ。村から離さぬために。
だが、森告げのとおり、小夜は去ってしまった。
村長はふうと小さくため息をつくと、窓から見える空を見上げた。
「もう冬か……。今年の冬は年寄りの身体には辛いものとなるのう」
「よく言うの。都合のいいときだけ年寄りを盾にしても、誰も相手になぞしてくれんぞ」
「それは、ユサとて同じだろう」
今度はためらうこともなく、村長は思ったままを口にした。
「村長様、ユサ様!」
入り口にかけてある布をバサリと持ち上げ、村の子供たちが数名、わいわい騒ぎながらやってきた。
二人は顔を見合せ、次いでふっと笑った。
「あの子供たちのためにも、この村は守らねばなるまいて」
穏やかに笑う。
「そうだな……」