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森人の詩  作者: すばる
第七章 汝が望むこと
44/49

(5)

「ぼくが冗談をいうと思う?」

 ざわり。

 大樹の驚きが伝わってきた。

 伊吹は淋しげに笑った。赤茶色の瞳がゆらゆらと揺れ、その大きな瞳いっぱいに大樹を映し出す。

 大樹は信じられぬ、といった様子でさわさわと枝を揺らした。

 もう二度と会えなくなってしまってもよいのかと、伊吹の心に問いかける。

「――……」

 伊吹は一度視線を地面に落とした。が、すぐに顔を上げた。そうしてはっきりと告げる。

「それでもいい」と――。

 小夜との決別。どうしたらいいかと、悩み続け、そうして出した結論だ。

 小夜にかけられた多くの優しい言葉。それにより、固く閉ざされていた伊吹の心はゆっくりと開かれていった。長年癒されることのなかった心の傷。それを小夜が少しずつ温かな言葉で癒してくれた。長い冬の間に張った氷を融かす春の陽のように。

 そんな小夜だからこそ、伊吹は決断したのだ。

 小夜がぼくのような思いをすることにならなければ、それでいい。小夜にはこの空間は似合わない。闇が覆い尽くす場所に迷い込む魂を元の世界へと導く役割など。

 帰る場所を見出した者たちにほっとすると同時に、帰って欲しくないという利己的な思いに苦しむのは自分だけで充分だ。

 小夜には闇は似合わない――小夜には明るい光が似合うのだから。緑の若葉や光が踊る水面、かぐわしい香りを運ぶ風――小夜にはありのままの姿で、美しい自然の傍らにいて欲しい……。

 すっと双眸を閉じた。こみ上げてきた熱い思いをじっとこらえるように。

 大樹はさわりと一度枝葉を揺らした以外、それ以上何も聞きはしなかった

 二度と小夜には会わない。

 自分の思いを断ち切るために。

 小夜をこの空間に残す結果にならないように。

 ――これ以上、大切なものを失わないために。

 大切なものを守るために、敢えて大切なものとの関わりを断つ。一見矛盾しているようには見えるものの、伊吹の心の中では、それは決して矛盾しないことであった。

 伊吹は大樹に何も言わない。けれど、大樹には伊吹の気持ちが痛いほどよくわかっているのだろう。だからこそ、大樹もまた何も言わない。

 伊吹はこの空間に一人残ることを選んだ。

 ずっと望んでいた外の世界。ずっと願っていた現実の世界への帰還。ずうっと欲していたはずなのに。

 やっと訪れた機会を自らの手で握りつぶす苦痛と悲しみ。

 伊吹がその願いを捨てるほど大きな小夜という一人の少女の存在。

 自分を救ってくれるはずだった一人の少女。自分の身代わりにこの空間に残るはずだった少女。

 でも――そんなことできるはずなかった。

 小夜をここへ残すくらいならば、自分が残ったほうがましだ。そう思ってしまった。そうして願ってしまった……。かの少女が二度とこの地に来ることができぬように、と――。

 そうせねば、いつか恐れている日が来てしまうような気がして。決してそんなことはしまい、とどんなに強く思っていても、人の心はもろいから。それは自分自身が誰よりも一番よくわかっている。長いときをこの空間で過ごした自分だからこそ、人の心がどんなにもろいかは分かっている。

 決して責めることはできない人の性。

 自分の幸せを第一に願ってしまうのは誰にでもあること。むしろ、自分が幸せにならずに他人を幸せにすることなどできぬ。伊吹もそう感じることはある。

 小夜に出会う前の伊吹が追い求めていたもの。それはいつかここから出ていくこと。外の世界へ戻ること。けれど今、自分の長年の夢が叶ってしまったら……。

 小夜に出会ったときから、伊吹の幸せは変わってしまったのかもしれない……。小夜を自分の身代わりにし、外の世界へ帰ることができたとして、果たしてそれは自分の幸せを意味するのだろうか。

 決して幸せとは思えないだろう。逆に今度こそ自分は自ら命を絶ってしまうかもしれない。自分を責め、苦しんで。瑠璃のときのように。いや、それ以上に。

 なぜなら、いまの伊吹は残された者の気持ちを身にしみて分かっているから――。

「小夜には……もう会えない……」

 大樹が頷いたように伊吹には感じた。




 お前が望むなら。他でもない伊吹、お前の願いがそれならば……。叶えぬわけにはいくまい。

 そうして大樹はこっそりとため息をつく。「やはりだめだったか」と――。

 シャラン、シャラン、シャラン…

 悲しげな大樹の葉の音が、閉じられた空間に鳴り響いた。いつまでも、いつまでも――。



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