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森人の詩  作者: すばる
第七章 汝が望むこと
40/49

(1)

 決して開けられない戸。

 その前で、今日も叉羅沙(しゃらさ)小夜(さよ)を待つ。

「――もうこないよ、小夜は」

 毎日のように繰り返す言葉。

 自分から拒絶したのだから。「もうこないで」と。

 だから、小夜はもう来ない。

(これでよかったんだ)

 小夜はここに来てはいけない人間だった。

 伊吹と出会ってはいけない人間だった。

 だから、己の過去を話した。

 そうすれば、彼女は自分に対して嫌悪感を抱くだろう、と。そうすれば、二度とここにやってくることはないだろう、と。

 今にも自分の名を呼びながら、開けられそうな戸を見つめ、伊吹は小さく息をついた。


 辛い――。

 悲しい――。


 いつもの迷い込んだ『心』との別れに比べ、よりいっそう強くそう思う。

 けれど、これでよかったのだと、一番よくわかっているのは紛れもない伊吹本人だ。

 彼女がこのままここに来つづければ、それは、伊吹がもっとも恐れている未来へとつながってしまうのだから。

 どんなにあがこうとも、この運命からは決して逃れられないだろう。自分がそうであったように。

「伊吹!」

 一人、心にぽっかりあいた穴に両足を突っ込んでいた伊吹の思考を中断させる声。それとともに戸が開かれた。

 驚きのあまり声も出せないまま、伊吹はぽかんと現れた少女の顔を見上げる。

「ごめん!」

 少女は現れるなり、両手をあわせて謝る。

「ちょっとここんところ、いろいろあってな。抜け出そうにもできなかったんだ。連絡しようにも神域に来ているだなんて村の人たちには言えないからな。今まで連絡できなかったんだ。本当にごめん!」

 何をこの少女は…謝っているのだろう……。

「なんだ? そんなに嬉しいのか?」

 言われて、初めて気づく。己が知らず笑んでいたことを。

 慌てて口を隠すが、それがかえって小夜の心に響いたらしい。ころころと鈴のように笑うと、小夜は伊吹のほっぺをつついた。

「嬉しいぞ、私は。そんなに心待ちにされていたのは生まれて初めてだ!」

「小夜…なんで…」

「ん?」

「来たら…だめだって…」

 いったじゃないか、という語尾のほうは、口の中で小さくつぶやかれる。

「あのな、伊吹」

 小夜は大きく息を吸うと、ぐいと伊吹の顔を覗き込んだ。

「私を見くびるな。おまえが口にしていることは、本心じゃない。それくらい私にもわかる」

 泣きそうな顔になった伊吹の手を、小夜は両手で優しく包み込んだ。

「――伊吹が心に抱えているものを、私に少しだけわけてもらうことは無理なのか?」

「――小…夜……でも、ぼくは……」

「何をそんなに苦しんでいるんだ? この前話してくれた過去のことか? それともほかにまだあるのか?」

 小夜の優しい心が身にしみた。

 だからだろうか。絶対に言うまいと決めていたはずだったのに、伊吹の口からとうとう己が最も恐れていることが言の葉となって出てしまったのだ。

「――このまま小夜が来たら……ぼくはまた裏切ってしまうかもしれない……」

 と――。

 一瞬、小夜は何のことを言っているのか理解できぬようすでいたが、やがてそれが先日聞いた過去の話に関わっていることなのだろうと、理解したようだった。

「過去のことは過去のことだろう。いま、目の前にいる伊吹は過去の伊吹とは違うだろう?」

「でも、ぼくはぼくだ!」

「――人は過ちを犯すものだと私は思う。ただ、それを反省することで、人は変わっていく。少なくとも、伊吹は……後悔したんだろう? 自分がしてしまったことは深く悔いたんだろう? だったら大丈夫だ」

 小夜は伊吹の頬を両手でそっと挟みこむ。

 そうして、まるで幼い子どものように泣いている伊吹の涙をぬぐってやった。

 伊吹の心の闇の部分を知っても、なおそれを含めて受け止めてくれた小夜。

 なんて強いのだろう。

 なんてきれいなのだろう。彼女の心は。

 伊吹がいままで出会った誰よりも彼女は優しく、そして温かい。深い闇に覆われてしまい、嘆くことしかできなかった自分の心を救ってくれた……。

 でも、だからこそ、彼女をこのままにしてはおけなかった。

 自分の心の恩人だからこそ……。

(小夜はここに来てはいけないんだ……もう……)

 それが何を意味するか、伊吹にはよくわかっていた。

 己がこれからしようとしていることを、実行に移せば、またひとりになってしまう。そしてもう永遠に彼女とは会うことができなくなってしまうだろう。

 ――だが、この日がいつか来るということはわかっていたはずだ。

 いつかの女性のように、彼女をここに残して自分が出て行くか。それとも彼女を拒絶し、自分がこのままここに残るか……。共にここを離れることは決してできぬことなのだ。どんなに願っても、決して叶えられないことなのだ。

(ぼくは……小夜をここに残していきたくはない……)

 彼女を残して、代わりに自分が外に出たとしても、決して幸せになることはできないだろう。瑠璃のときのように、深い後悔に苛まされるに違いない。そして、絶望のどん底から再び這い上がることは、今度こそできないだろう。

 伊吹は、頬を擦ると、立ち上がった。

 小夜をこの空間から遠ざけるためにすべきことはただ一つ。

 彼女の身にこれから何が起こるのか、わからせることだけだ。

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