(3)
――幸せだった遠い昔。
両親と姉が生きていたあの頃…。あの時はその瞬間が幸福だなんて露ほどにも思わなかった。なぜならば、それが当たり前だったから。
自分がいて、家族がいて。
生活は決して豊かとは言えなかったけれど、かといって飢えることもなく。
瑠璃と出会ってからもそうだ。辛い中でも、彼女とともにあるときは、心に安らぎを感じ、生きていてよかったと心底思った。
このままこういった日々が続くものだと、信じて疑わなかった。突然、目の前から消えうせてしまうことなど、思いもしなかったのだ。
だからこそだろう。失った後の衝撃はとてつもなく大きなものだった。しかも、家族のときとは異なり、二度目の消失は、自分から引き起こしてしまったことだった。
大切にしていた宝物は、己の手によって壊されてしまったのだ。
生きているという事実さえ危うく、そして不安定で、不透明な……。
いっそうのこと、他人を呪うことができたら、どんなに楽だっただろうか。だが、呪うべき相手は自分。
自分自身を責める声。それを否定する自分の心。そして、それに対する強い罪悪感。
ついに伊吹は耐えられなくなる。
そうして、願ってしまったのだ。
ここにくる多くの魂たちと同じように。
――逃げることができるのなら……。死んでしまうことができたなら……。
この「現実」とは別の世界に行くことができたなら――。
気づいたら、「ここ」に足を踏み入れていた。
決して「ひと」が生身の間までは入りこむことができぬところに。生身のままで。
そんな自分を迎えてくれた人――それまで見たこともないような赤茶色の美しい髪が印象的な女性だった。柔らかな笑みが死んだ姉にどことなく似ている、そんなことを心のどこかでふと思った。
「あなたを待っていたの。ずっとずっと」
すべてを失い、生きること絶望していた伊吹は、彼女の言葉の真の意味に気づきはしなかった。
ただ、ぼんやりとした意識の中で、自分が願っていたことが叶ったのかもしれないとだけ感じていた。
それから数日して、本当にまだ何もわからない状態の自分を残して、彼女は姿を消してしまった。
真実は何も告げずに。
けれど、最後に涙をいっぱいためた瞳で伊吹をぎゅっと抱きしめて、耳元でひとことだけささやいた。
「ごめんね」と――。
彼女がなぜ謝るのか、伊吹には分からなかった。
だが、やがて知った。
彼女がなぜ伊吹と初めて会った時に「待っていた」と言ったのか。どうして最後に謝ったのか。
――もう、その女性の顔は覚えていない。
名前は何だったろうか? 考えてはみるけれど、やはり彼女の名を思い出すことはできなかった。ひょっとしたら聞かなかったのかもしれない。
そう言えば、彼女は自分自身のことを一切語りはしなかった。ただ。黙って伊吹の話だけを聞いてくれていた。
そうして、ときおり相槌をうったり、微笑んだりしてくれていた。
この世界にくるきっかけとなった、あの恐ろしいできごとを思い出し、思わず涙がこぼれたときも、黙って、彼の頭を優しくなでてくれていた。
美しい色の髪。そして、同様の色をした瞳。これだけが伊吹が覚えている唯一確かな彼女に関する記憶だ。
突如、迷いこんできた自分。彼女は優しく彼の名をたずね、何度も何度も繰り返し呼んでくれた。
彼女が去ってしまったと知ったとき、伊吹は大声で泣き叫んだ。
何も言わず、去ってしまった彼女。
彼女と共に時間を過ごしたのがたとえ数日の間だけだったとしても、伊吹にとっては、再び家族が戻ってきたような、そんな温かな気持ちにさせる幸福なときだったのだ。その幸せなときは一瞬にして崩れ去ってしまったのだ。
また自分は失ってしまった。
――三度の大きな喪失感。
だが、このとき、伊吹はまだ何も気づいていなかった。自分がたった「一人」でここに残されてしまったということを。文字通り、本当に自分以外の人間がここにはいない、という事実を。