(2)
「うわあああ」
伊吹は真夜中に、自分の叫び声で目が覚めた。
小屋の中は真っ暗で物音一つしない。
明るい月が顔を出しているときは窓から差し込む月光も、今晩はない。
伊吹は大きく肩で息をした。
「きゅーん……」
伊吹の叫びで、同様に目を覚ました叉羅沙が心配げに伊吹を見上げている。
「ごめん……起こしちゃったんだね」
伊吹はいまだ震え続ける手で叉羅沙をなでる。
温かい――。
叉羅沙の体温を感じ、伊吹はぎゅっとこぶしを握った。
温かい――こんなにも温かい。
自分が生きていることを実感できる唯一の瞬間。
他の生き物に触れることでしかわからない。自分が本当に生きているのか。
ここに来てから、ずいぶんと長い年月が流れた。もうどのくらいたっただろうか。それすらわからなくなるほどに。
それでも初めのうちは丁寧にその日のことを紙につづり、今日はここに来て何日目なのかを数えていた。だが、それも一年、そしてまた一年と経つうちに、次第に空虚なことのように思えてきてしまった。そして遂にここに来てから五年と三月を数え上げたところで、伊吹はその無意味で乾いた作業をすることを止めてしまった。
どうせ何も変わらない――そう身にしみて分かったから。いや、そんなことはこの場所に来て一月が過ぎたところで気づいていた。
ただ、時折迷い込む者たちを外の世界へ帰すだけ。それ以外は何もない。何も変わらない。
(こんなの、生きているなんて言わない。死んでいるのと同じだ――)
自嘲気味に伊吹は笑った。
あんなに別の場所にいけることを願ったのに。なんて自分は身勝手な人間なんだろう。
いざこの空間に来たとたん、元の世界が恋しくなった。
どんなに辛いことがあっても、悲しいことがあっても、それだけではなかった。
家族を失って、絶望に打ちひしがれていた幼い頃。しかし、その後、瑠璃と出会ったことで、苦しい生活の中でも、わずかながら幸せの灯火を見つけることができた。
その灯火を消してしまったのは自分。けれど――……。
あたり前のことに気づけなかった。目の前の不幸に呑み込まれてしまっていて。
辛いことがあっても、現実の世界では楽しいこともあったはずなのだと。
(ここは……辛いこと、悲しいことだけなのに)
外から迷い込んだ魂たちは、大樹の美しさを見て、この世界がとてもすばらしいものだと錯覚する。
ここならば、きっと苦しい思いをもうしなくてもすむのだ、と。
(実際は違うのに、ね……)
ここにあるのは、心も覆わんとするほどの深い闇。たった一人でいる伊吹にとっては、楽しいことも、うれしいこともないのだ。嘆きに満ちた時間がすべて――。
寝床から立ちあがり、伊吹は軽く上に着物をはおり、外へと出た。
冷たい空気がすっと伊吹の頬をなでる。吐く息はすでに白く、冬が徐々に近づいてきていることを感じさせる。
空には満天の星空が広がっていた。秋の夜空にはこれといって目立つ星もなく、四季を通じて見れば、なんとも寂しい季節である。だが、伊吹はこの秋の星空が好きだった。
ひっそりと輝く秋の星々が。人々に忘れられがちな秋の夜空が。そこに自分を重ね見ているからかもしれない。人に存在を忘れられ、このようなところでひっそりと生きている自分自身を――。
「小夜には似合わないな……」
小夜には秋の夜空は似合わない。いや、どの季節の夜空も小夜にはかなわない。なぜならば小夜は闇が支配する夜の住人ではないからだ。彼女に似合うのは明るい昼間の太陽。自分とは正反対の存在――。
なのに。なのにどうして。
どうして彼女はここに来てしまったのだろうか。決して通常の人間はこの「神域」に足を踏み入れることはできないはずなのに。
小夜たちが住む世界と、伊吹がいる世界「神域」の間には見えない壁のようなものがある。小夜がいる世界のものが、こちら側に入り込もうとしても、絶対に入ってくることはできない。しかし、それを外の人間たちが認識しているわけではない。
彼らは確かに「神域」があることは理解している。だが、入ろうとしても入れないよう特殊なまじないがそこには施されているのだ。だから、生きたまま外の世界の者たちがやってくることは不可能なのだ。
やってくることができるとしたら、それは、彼らが今生きている場所から「逃げたい」と強く願ったときだ。もうこれ以上、その場所では生きていたくない。そこに自分の居場所はない。だから、別の場所に行ってしまいたい。辛い思いも、悲しい思いもしなくてすむそんなところへ――。
現実を直視することができず、自らの心に閉じこもってしまった人々が行きつく場所。
でも、ここにくる者は実体を伴ってはこられないのだ。魂だけが、この外界とは隔絶された空間にやってくる。
その間彼らの実体は、本来いるべき「現実」で昏々と眠りつづけるのだ。心が戻ってくるその日まで。
小夜はそんな世界に生身の身体を伴ってやってきた。
それが意味することは――
「小夜」
星空の下、名を呼ぶ。
待っていた。長い間。気が遠くなるほど長い長い間。
一人で。
自分をここから助け出してくれる人を。
この「時」が止まった空間から連れ出してくれる人を。
――自分の身代わりにここにとどまってくれる人を。
「きゅぅん」
悲しげに鳴く叉羅沙の傍らで、痛むはずのない心臓をぎゅっと押さえた。
願っていたはずなのに。
望んでいたはずなのに。
「できないよ、ぼくには……」
熱い感情が心の底から湧き起ってくる。
「できるわけなんかない! ぼくの代わりに小夜をこの空間にとどめることなんて!」
すべてを吐き出すかのように、伊吹は空に向かって叫んだ。心の奥に押しこめていた言葉を。
心配げに近寄ってきた叉羅沙をぎゅっと抱く。