(3)
「どうして泣いているの?」
不意に雨の音に混じって、頭上から声がした。伊吹は涙にぬれた顔を上げ、ぎょっとした。少女澄んだ大きな瞳が自分の顔を覗き込んでいる。
こんなところで人と出くわすとは思っても見なかった。
物盗りかと思い、身体を強張らせる。
このご時世、子どもでも生きるためならば物盗りと化す。
ましてや、このような人気のない場所に普通の子どもがいるわけがない。だから、伊吹が思ったことは、至極当然のことだった。
「どこか痛いの?」
年の頃は自分より若干年上に見える少女だった。
肩ほどの長さの髪は、見事なまでに黒々としている。しかし長さはそろわず、ぼさぼさで、まるでほうきのようだった。
見れば、身なりは貧しく、薄汚れた夕焼け色の着物を身に着けていた。
「ぼ…ぼくは何も…持っていないっ」
喉の奥から振り絞ってようやく出た声に、一瞬、少女はきょとんとして、次いで笑い出した。
「何も盗らないよ、あたしは」
危害を与えるつもりはない、と両手を広げひらひらと伊吹に見せる。
「来るなっ」
「あーあ、まいったなあ」
少女は髪をかきあげて、困ったように笑った。
「出ておいで。そこじゃあ、体が冷えちゃう。うちが近くなんだ。おいでよ」
嫌がる伊吹を半ば強引に引っ張り出し、少女は雨の中を走り出した。
「はなせっ」
「黙って走りなよ。ぼやぼやしていると雷に打たれちゃうよ」
ぐっと言葉を呑み込む。
伊吹はべそをかきながら、少女に手を引かれて雨の中を走った。
ひどいひどい…どうして自分だけがこんな目にあわなくちゃいけないんだ、と天をうらむ。
やがて前方に見えてきた一軒の小屋。廃屋にしか見えないその中に、少女は伊吹をひっぱりこむ。
少女は「瑠璃」と名乗った。伊吹と同じく、両親はいないと話してくれた。なんでも幼い頃に亡くなったという。そう語る瑠璃の表情を見て、伊吹は彼女が純粋に伊吹のことを心配して、ここに連れてきてくれたのだと信じる気持ちになった。
「へえ、あんたも家族がいないんだ?」
伊吹はこくりとうなずいた。
「じゃあ、あたしら、同じだね」
自分に向けられた笑顔に、伊吹は心がじんとした。もう長い間、伊吹に笑んでくれた人はいなかったから。
(温かい……)
ほろりと涙がこぼれてきた。
「お前は泣き虫だね」
そう笑いながらも、瑠璃はまるで幼子をあやすかのように、優しく伊吹の頭をなでてくれた。伊吹の脳裏に、遠い昔のことが思い起こされる。姉もよくこうして自分の頭をなでてくれた。
遠い過去のこと。
二度と会えない大切な人たち。
もう決して昔のように貧しいけれど、心だけは満ちていた日が来るとは思っていなかった。どんなに願っても、どんなに望んでも、叶わぬのだと諦めていた。
しかし、出会ったばかりのこの少女は、あの頃伊吹が感じていた心がほっとするような、柔らかな灯火のような気持ちをくれた。
雨がやむまでのわずかな時間だけの――それはまるで夢のようなひとときだった。
やがて雨音がやんだことに気づいた瑠璃は、小屋の戸を開けはなった。
「やんだみたいだよ。さあ、もう帰ったほうがいいよ」
「――帰りたく……ない」
ぎゅっと瑠璃の手を握る。
温かい瑠璃の体温を感じながら、伊吹は駄々をこねた。
すでに日はとっぷりと暮れていた。日暮れまでに帰ってこいという村長の命は果たせなかった。このまま村に帰れば、またこっぴどくしかられる。夕飯は確実にもらえないだろう。そうして、屋敷の中にも入れてもらえず、厩で一晩を過ごすことになるだろう。
(村には帰りたくない……)
しくしくと泣き始めた伊吹を見て、困ったように瑠璃はため息をひとつついた。だが、瑠璃は厳しく言い放った。
「村に帰りなよ。ここにいてもろくなことはない」
「それでもいい。ここにいたい。ここにいさせて」
「だめ」
頑として瑠璃は首を縦には振ってくれなかった。
「――村にいられるだけで……幸せだよ、伊吹は」
そんなことはない、と反論しようとしたが、そのときの瑠璃の表情がとても悲しそうだったのを見て、伊吹はぐっと言葉を呑みこんだ。
「そのかわり、またおいで。あたしはここにいるから」
言われて、伊吹はこくりとうなずいた。