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森人の詩  作者: すばる
第五章 失った過去
30/49

(3)

「どうして泣いているの?」

 不意に雨の音に混じって、頭上から声がした。伊吹は涙にぬれた顔を上げ、ぎょっとした。少女澄んだ大きな瞳が自分の顔を覗き込んでいる。

 こんなところで人と出くわすとは思っても見なかった。

 物盗りかと思い、身体を強張らせる。

 このご時世、子どもでも生きるためならば物盗りと化す。

 ましてや、このような人気のない場所に普通の子どもがいるわけがない。だから、伊吹が思ったことは、至極当然のことだった。

「どこか痛いの?」

 年の頃は自分より若干年上に見える少女だった。

 肩ほどの長さの髪は、見事なまでに黒々としている。しかし長さはそろわず、ぼさぼさで、まるでほうきのようだった。

 見れば、身なりは貧しく、薄汚れた夕焼け色の着物を身に着けていた。

「ぼ…ぼくは何も…持っていないっ」

 喉の奥から振り絞ってようやく出た声に、一瞬、少女はきょとんとして、次いで笑い出した。

「何も盗らないよ、あたしは」

 危害を与えるつもりはない、と両手を広げひらひらと伊吹に見せる。

「来るなっ」

「あーあ、まいったなあ」

 少女は髪をかきあげて、困ったように笑った。

「出ておいで。そこじゃあ、体が冷えちゃう。うちが近くなんだ。おいでよ」

 嫌がる伊吹を半ば強引に引っ張り出し、少女は雨の中を走り出した。

「はなせっ」

「黙って走りなよ。ぼやぼやしていると雷に打たれちゃうよ」

 ぐっと言葉を呑み込む。

 伊吹はべそをかきながら、少女に手を引かれて雨の中を走った。

 ひどいひどい…どうして自分だけがこんな目にあわなくちゃいけないんだ、と天をうらむ。

 やがて前方に見えてきた一軒の小屋。廃屋にしか見えないその中に、少女は伊吹をひっぱりこむ。

 少女は「瑠璃(るり)」と名乗った。伊吹と同じく、両親はいないと話してくれた。なんでも幼い頃に亡くなったという。そう語る瑠璃の表情を見て、伊吹は彼女が純粋に伊吹のことを心配して、ここに連れてきてくれたのだと信じる気持ちになった。

「へえ、あんたも家族がいないんだ?」

 伊吹はこくりとうなずいた。

「じゃあ、あたしら、同じだね」

 自分に向けられた笑顔に、伊吹は心がじんとした。もう長い間、伊吹に笑んでくれた人はいなかったから。

(温かい……)

 ほろりと涙がこぼれてきた。

「お前は泣き虫だね」

 そう笑いながらも、瑠璃はまるで幼子をあやすかのように、優しく伊吹の頭をなでてくれた。伊吹の脳裏に、遠い昔のことが思い起こされる。姉もよくこうして自分の頭をなでてくれた。

 遠い過去のこと。

 二度と会えない大切な人たち。

 もう決して昔のように貧しいけれど、心だけは満ちていた日が来るとは思っていなかった。どんなに願っても、どんなに望んでも、叶わぬのだと諦めていた。

 しかし、出会ったばかりのこの少女は、あの頃伊吹が感じていた心がほっとするような、柔らかな灯火のような気持ちをくれた。

 雨がやむまでのわずかな時間だけの――それはまるで夢のようなひとときだった。

 やがて雨音がやんだことに気づいた瑠璃は、小屋の戸を開けはなった。

「やんだみたいだよ。さあ、もう帰ったほうがいいよ」

「――帰りたく……ない」

 ぎゅっと瑠璃の手を握る。

 温かい瑠璃の体温を感じながら、伊吹は駄々をこねた。

 すでに日はとっぷりと暮れていた。日暮れまでに帰ってこいという村長の命は果たせなかった。このまま村に帰れば、またこっぴどくしかられる。夕飯は確実にもらえないだろう。そうして、屋敷の中にも入れてもらえず、厩で一晩を過ごすことになるだろう。

(村には帰りたくない……)

 しくしくと泣き始めた伊吹を見て、困ったように瑠璃はため息をひとつついた。だが、瑠璃は厳しく言い放った。

「村に帰りなよ。ここにいてもろくなことはない」

「それでもいい。ここにいたい。ここにいさせて」

「だめ」

 頑として瑠璃は首を縦には振ってくれなかった。

「――村にいられるだけで……幸せだよ、伊吹は」

 そんなことはない、と反論しようとしたが、そのときの瑠璃の表情がとても悲しそうだったのを見て、伊吹はぐっと言葉を呑みこんだ。

「そのかわり、またおいで。あたしはここにいるから」

 言われて、伊吹はこくりとうなずいた。

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