(3)
「違う! ――違うよ、小夜…」
小さく、ごめん、と伊吹は謝る。
「――ぼくが…意気地がないのがいけないんだ……。怖いんだよ……これを言ってしまったら…小夜は…小夜は…」
「伊吹…?」
「君を巻き込んでしまうのが怖い……。このまま…じゃ…」
「伊吹」
小夜は涙をぬぐうと、強い眼差しを伊吹に向ける。
「伊吹、私にはあの少年が……お前のもう一つの心だと思えてならないんだ。だからお前があんなにも苦しんでいるのも見たのに、そのままでいることなんてできないんだ」
だから――「知っているのであれば教えてほしい」と、強い口調で小夜は言った。
伊吹は小夜の言葉を聞いて、静かに瞳を閉じた。
二人とも身動きひとつしないまま、沈黙の時が流れる。
きゅん、とそれまで伊吹の隣で静かに座っていた叉羅沙が飛び起きた。それとほぼ同時に伊吹は立ち上がると、そのまま戸口へ向かっていく。
ガタと音を立てて、戸が開けられる。
「伊……吹……?」
伊吹はゆっくりと振り返ると、小夜に向かって左手を差し出した。
「――君に…すべてを受け止める勇気があるなら…ぼくと来て」
小夜はすっと立ち上がる。きゅっと唇をかみ締めると、大きくひとつうなずいた。それを見た伊吹の目が細められる。
そうして、二人は戸をくぐる。
真っ白な光が目一杯あふれたその後。ぼんやりとした光の中、小夜は見た。
大きな樹が一本。どっしりと根を大地に下ろし、枝を天に向かってゆったりと伸ばしている。その先に何かを求めるように。降り注ぐものをその身で受けとめようとしているかのように。
(これは……)
ハッとなって大樹を見上げる。
シャラン……
小さな鈴の音が耳元で聞こえた気がした。
間違いない。これは、先日見た光景にそっくりだ。泣いている伊吹と出会った場所にあった大樹だ。
天を支えるように立つ大樹――。枝葉は一枚一枚が銀の色をしている。風がないのにさやさやと優しく歌っていた。この世界全体を優しく包み込むような包容力を感じさせた。
その傍らにはこんこんと湧く泉があった。銀色の清水がとめどなく湧き、大地を潤していた。
すべてが銀色の光に包まれ、輝いて見えた。
「ここは……」
「ここはね、森の一番奥。決して人が踏み入れることがない、森の生き物たちの聖なる場所」
「だったら……私もここにいたらまずいんじゃないか?」
伊吹は小夜の言葉にちょっとだけ驚いたが、何よりその言葉が嬉しかったようで、すぐに顔は笑みで溢れた。
「気にしなくていいよ。今日は」
今日だけは特別だから、と伊吹は天を仰いだ。
天からは、小枝を通して、まぶしい光が筋となって降り注ぐ。
伊吹はその光を全身で受けとめるように、大きく手を広げた。透き通るような肌。柔らかくゆらりと揺れる見事な土色の髪。
その姿があまりにもきれいだったものだから、小夜は思わず見とれてしまっていた。
そこには「ひと」でないものがいる――そう感じた。決して人ではなく、そして動物でもないもの。
彼はいったい何者なんだろう? いや、何なんだろう……。
疑問が次々と浮かんでくる。
いつもとは違う――そんな印象を与える今の伊吹を、小夜は不思議な感情で見ていた。
「小夜?」
小夜の食い入るような視線に気付いた伊吹が、こちらを向いた。
「なんでもない……気にしないでいい」
「そう?」
いつもとは異なる大人びた微笑みを浮かべ、伊吹は大樹の元へと近づいた。
そうして、幹のところまで行くと、そっと触れた。
大切なものを扱うかのように。
愛しいものに触れるかのように。
「この森を太古から見守ってきたんだ、この樹はね」
森に生きるものたちを。
人間たちの営みを。
はるか彼方の昔から。
「小夜……よくみてごらん……」
促されて、小夜は数歩退いて大樹を見上げた。
「ああ……」
思わず感嘆の息がもれる。
あたりが暗くなったその瞬間、それまで小夜の瞳には映っていなかたものが姿を現した。
銀色に輝く大樹の周りにあるものは――
「これは――なんだ?」
透明な球。大きさはてのひらに乗るほどの大きさのもの。青白く、あるいは淡い桃色に輝き、ふわりふわりと大樹の周りに浮いている無数の球。まるで、小夜が身につけている玉のように、ひとつひとつが美しい。
「小夜は知っている? この森がどうして神域と言われているか」
「神様がいるからではなく?」
「それは表面上だよ」
そうだね、と伊吹は笑って続けた。
「あれはね、人の『心』なんだよ」
「?」
「輝いているのは、その人が一生懸命『今』を生きているから」
そこで伊吹は一つの球を指差す。
「あれは――」
光を失った球が頼りなげに浮いていた。
「あれは、『心』が死んでしまっているから……だから輝きを失ってしまったんだ……」
「『心』が死ぬのか?」
「そうだよ」
小夜には理解できなかった。人が命を失う、というのならわかる。誰にも平等にいつかは訪れるものだから。けれど「心」が死ぬとはどういうことなのだろう。
そうだね、と伊吹は少しばかり考えた後、説明を始めた。
「たとえば、誰かが『こんなところで、これ以上生きていたくはない』と思ったとする。でも、その人は『死』を選ぶことはできなかった。死ぬのは誰でも怖いからね。けれど、その代わりにその人が現実から逃げることを選んだとしたら――」
「そうしたら?」
「その人の心は身体を離れてしまう。そうして『心』の球があるここへと来てしまうんだ。現実とは違うところへ行きたいと強く望んでしまうことでね」
小夜は伊吹の言葉を大きく目を見開き聞き入った。どれもが初めて聞く話だった。ここが変わった場所だとは思っていた。だがそれはきっと神域だからに違いないと小夜は思っていた。神域だから不思議なこともありうるのだろうと。
見たことのない動物。見たことのない草花。聞いたことのない鳥の声。それはここが「特別」だからだと、いつの間にか納得していた。
けれど、今伊吹が小夜に話していることは神域だから、などという単純な理由では片付けられないような話だった。
「身体を離れてしまった『心』がここにいることを望めば、やがて『心』は光を失っていくんだ」
「――どう……してだ?」
「『心』はね、生きようって強い意思がないと、身体と共にないとだめなんだよ。どちらか一方が欠けても駄目なんだ」
どちらか一方が欠けても。身体も、心も。身体が朽ち果てれば、それは死を意味する。だが、心が欠けてしまっても、人は生きてはいけない。
「迷いこんだ人の魂を元の世界へ導く者――それが『 森人 』」