婚約破棄されましたので、王太子殿下の護衛任務を終了いたします
婚約破棄されましたので、王太子殿下の護衛任務を終了いたします――ですが学院襲撃は別件です
王立学院の卒業夜会。
「イルゼ・ハルデベルク。君との婚約、今日で終わりにするよ」
王太子フェリクは、ずいぶん穏やかな声でそう言った。
楽団の演奏が止まり、大広間にいた貴族子女たちの視線が一斉にこちらへ集まる。
けれど、言った本人には誰かを断罪しているという意識すら薄いようだった。
怒鳴るでもない。責め立てるでもない。
ただ、長く続いた関係を終わらせる。
そんな口調だった。
イルゼは一度だけ瞬きをした。
「承知いたしました」
「……驚かないんだね」
「多少は」
まったく予想していなかったわけではない。
ここ半年ほど、フェリクの視線が自分から外れていることには気づいていたし、その行き先も知っている。
フェリクの隣に立つ子爵令嬢、ミーナレス。
小柄な少女だった。
百七十を少し超えるイルゼとは違い、フェリクの肩より少し低い。淡い栗色の髪に、柔らかそうな頬。
身体つきも、イルゼとはずいぶん違っていた。
イルゼ自身、女性として痩せすぎているわけではない。胸もあるし、腰もある。
ただし、全身が締まっている。
肩から背中、腹、脚。幼い頃から鍛え続けてきた身体には余分な肉がほとんどなく、長身で姿勢もいいため、ドレスを着れば細身という印象が先に立つ。
対するミーナレスは、小柄な身体に豊かな丸みを持っている。
並べば違いは明らかだった。
「ミーナレスの方が、ちゃんと僕を見てくれてる気がするんだ」
「左様でございますか」
「君はいつも、僕じゃないところを見てるだろう?」
イルゼは少し考えた。
確かにそうかもしれない。
フェリクの顔を見ている時間より、その背後を見ている時間の方が長かった。
窓や扉。給仕や近衛。二階回廊と人の流れ。
誰がどちらの手で杯を持ったか。誰が何度こちらを見たか。誰の歩幅が途中で変わったか。
王太子の隣に立つというのは、イルゼにとってそういうことだった。
「それにさ」
フェリクは少し言いにくそうに笑った。
「ミーナレスは柔らかいんだ。心も、身体も」
一瞬だけ間が空き、大広間が妙に静かになった。
ミーナレスが頬を赤らめ、フェリクの腕へ少し身を寄せる。
イルゼは彼女を見て、それから自分を見下ろした。
なるほど。
胸がないわけではない。むしろ仕立屋からは、細い腰との釣り合いを取るのが難しいと言われる程度にはある。
だが、柔らかいかと問われれば少々困る。
腹部にはうっすら筋があり、腿も締まっている。背中も肩も、女性用の礼装を仕立てるには少々厄介らしい。
抱き心地というものを評価基準にされるなら、おそらくミーナレスには勝てない。
「……身体については、否定いたしません」
フェリクが困ったように笑った。
「そういうところだよ、イルゼ」
「と申しますと」
「何でもそうやって冷静に考えるところ」
「はい」
「怒ったり、泣いたりもしない」
「必要がございましたら」
「必要があるからするものじゃないだろう?」
それはそうなのだろう。
イルゼにも、その程度のことは分かる。
ただ、王太子の隣にいるとき、感情を優先する余裕などなかった。
十二歳の春。
イルゼはフェリクの婚約者になった。
王家とハルデベルク公爵家の結びつきを強めるため。
そう公には説明されたし、間違いではない。
ただ、それだけでもなかった。
ハルデベルク公爵家は代々、王家の表に出ない警護を担ってきた。
近衛が剣を抜く前に、剣を抜こうとする者を見つける。
毒見役が倒れる前に、毒が混ぜられる経路を断つ。
王族が襲われてから守るのではない。
襲われる前に終わらせる。
そして婚約者という立場は、王太子の最も近くにいても不自然ではなかった。
食事に同席できる。私的な予定を知ることができる。馬車にも乗れる。夜会でも隣に立てる。王太子宮にも自由に出入りできる。
婚約して一年ほど経った十三歳の春、最初は菓子だった。
王宮厨房から運ばれる途中、焼き菓子の一つに毒が仕込まれた。
イルゼが気づいた。
十四歳の秋には、狩猟会の木立の奥からフェリクを狙う弓兵を見つけ、矢が放たれる前に捕らえた。
十五歳のときには、王都へ向かう馬車の車軸に細工がされていることを見抜き、出発前に交換させた。
十六歳では夜の王太子宮へ忍び込もうとした男を捕らえ、十七歳ではフェリク付きの近衛騎士が買収されていることを突き止め、翌朝には配置から外させた。
どれもフェリクは知らない。
知らせなかったからだ。
王太子は王太子の仕事をすればいい。
その背後にあるものを処理するのが、イルゼの仕事だった。
だから彼女は、いつもフェリクではなく、その向こう側を見ていた。
毒を入れる手を。
武器を隠す袖を。
逃げ道を。
死角を。
「まあ、そういうわけだから」
フェリクは話を戻した。
「婚約は終わりにしたい」
「承知いたしました」
イルゼは裾をつまみ、正式な礼をした。
六年間の婚約だった。
王太子妃となるため、歴史を学んだ。法を学んだ。外交を学んだ。財政を学んだ。礼法も、舞踏も、語学も。
その一方で、剣を学び、短剣を学び、毒を学び、尾行を見抜く方法を学んだ。
建物へ入れば最初に出口を見る癖を身につけ、人と話せば利き手を見る癖がついた。
五年間、フェリクを守った。
婚約者であることと、護衛であることの境目など、いつの間にかほとんどなくなっていた。
それも今日で終わる。
異論はなかった。
ただし、一点だけ確認しておかなければならない。
「殿下」
「何だい?」
「婚約の終了に伴い、婚約者として付与されていた職務および権限も、本日をもってすべて終了する。その認識で相違ございませんか」
フェリクは少し首を傾げた。
「もちろん」
「王太子妃候補としての公務への同行」
「ああ」
「王妃府より委任されている調整業務」
「それも」
「殿下の私的日程および移動予定への閲覧権限」
「全部だよ」
「承知いたしました」
イルゼは頷いた。
ならば、最後の一つ。
「殿下の身辺警護に関する任務も、同様に終了ということでよろしいでしょうか」
「……身辺警護?」
フェリクが瞬きをした。
隣のミーナレスも、きょとんとしている。
「はい」
「君が?」
「正確には、ハルデベルク公爵家が王家より受けております非公式任務の一部を、わたくしが担当しております」
「僕の護衛なら近衛がいるだろう?」
「おります」
「だったら、君がする必要なんてないじゃないか」
「左様でございますね」
イルゼはそれ以上説明しなかった。
近衛が気づくより先に見つける。
近衛が剣を抜くより先に終わらせる。
それがこちらの仕事だ。
三年前、学院の時計塔に弓兵が潜んでいたこと。
二年前、王都地下水路で誘拐計画が進められていたこと。
昨年だけで四度、王太子宮への侵入経路が探られていたこと。
今日の午後にも、夜会で使われる葡萄酒の樽を一つ廃棄させたこと。
言う必要はない。
今日までは、それを知らせないことまで含めて仕事だった。
フェリクは軽く肩をすくめた。
「まあ、婚約者じゃなくなるんだから、それも終わりでいいよ」
「承知いたしました」
「そんなことまでしてたなんて知らなかったな」
「知られないようにしておりましたので」
「そう」
フェリクはそれだけ言った。
少しだけ肩が軽くなった。
明日からは、フェリクがどこへ行くか確認しなくていい。食事の前に給仕の顔を覚えなくていい。窓の位置を確認しなくていい。屋根の上を見なくていい。背後から近づく足音を数えなくていい。
六年間の婚約。
五年間の護衛。
どちらも、今夜で終わる。
イルゼは改めて一礼した。
「それでは、本日をもちまして」
王太子ではなくなった婚約者をまっすぐ見た。
「王太子殿下の護衛任務を終了いたします」
フェリクは小さく笑った。
「うん。ご苦労さま」
「ありがとうございます」
それで終わった。
少なくとも、この瞬間までは。
爆発音がした。
大広間の床が震え、悲鳴が上がった。
窓硝子がびりびりと鳴り、天井から細かな埃が落ちてくる。
イルゼは振り返った。
西側。距離はおよそ八十。
一度目に続いて二度目の爆発。今度は北側だった。
「正門と北門」
「何?」
フェリクが聞き返す。
三度目の轟音が響き、大広間の扉の向こうから生徒たちの悲鳴が聞こえた。
イルゼはドレスの裾を掴み、躊躇なく膝の上まで裂いた。
「イルゼ!?」
右脚に固定していた短剣を抜く。
六年間、フェリクは一度も気づかなかった。
当然だ。
気づかれないように身につけていたのだから。
大広間の扉が開き、男子生徒が転がり込んできた。
「襲撃です! 武装した男たちが正門から……!」
顔から血を流している。
違う。
イルゼは即座に否定した。
「正門からではありません」
全員が彼女を見る。
「正門を爆破したのは、逃げ道を潰すためです」
二度目は北門。
ならば侵入口は別だ。
イルゼは天井を見て、それから東側の窓へ視線を移した。
学院の外周。庭園。厨房搬入口。厩舎。使用人通用門。
「東の厨房口」
言った直後、廊下の奥から金属音が響いた。
剣と剣がぶつかる音。近衛の怒号。悲鳴。
当たりだ。
イルゼは近くにいた学院教師へ言った。
「大広間の扉を閉めてください」
「な、何を」
「机を積む。扉の前に三列。急いで」
「ハルデベルク嬢、しかし」
「襲撃者の目的が不明です。殺戮、誘拐、人質確保、いずれにも対応できる場所を先に作ります」
「イルゼ」
フェリクが呼んだ。
「君はもう僕の護衛では――」
「はい」
イルゼは振り返った。
「ですので、殿下だけを守るつもりはございません」
フェリクが言葉を失った。
イルゼは大広間を見渡す。
卒業生、在校生、教師、使用人、楽団員。
百人を優に超えている。
「ですが」
短剣を逆手に持ち替える。
「学院襲撃は別件です」
その一言で、イルゼの中から婚約破棄の話は消えた。
「学院長」
「は、はい」
「学院の指揮権を一時お借りします」
「え?」
「拒否なさいますか」
再び廊下の奥から悲鳴が上がった。
学院長は青ざめた顔で首を振った。
「……頼む」
「承知いたしました」
イルゼは息を吸った。
「全員、聞いてください! 走らない。勝手に廊下へ出ない。窓際から離れる。教師は生徒を二十人単位に分けて人数を確認!」
ざわめきが止まり、人が動き始める。
「治癒魔法が使える者は右奥へ! 医務科の生徒も同じ場所!」
三人の令嬢と二人の男子生徒が手を挙げた。
「火属性魔法を使える者!」
七人。
「風属性!」
五人。
「土属性!」
四人。
「弓術経験者!」
六人。
「剣術経験者は?」
三十人近く手が上がった。
「実戦経験のある者だけ残してください」
手が六本になった。
「十分です。剣術大会と人間相手の戦闘は違います。経験のない者は戦わせません」
騎士科の男子生徒が悔しそうに唇を噛んだ。
「ですが、働いていただきます。机を運んでください」
「……はい!」
「扉の前に三列。中央は開閉できるように。完全封鎖はしません」
学院長が尋ねた。
「なぜだ?」
「逃げてくる生徒を受け入れるためです」
そこへ近衛騎士が二人駆け込んできた。
一人は腕から血を流している。
「殿下!」
イルゼの目が細くなる。
「敵の数」
近衛は反射的に答えかけ、途中で止まった。
「なぜあなたに」
「何人です」
声を低くすると、近衛は押されるように答えた。
「……確認できただけで十七。まだいる」
「装備」
「短剣、片手剣、弩。革鎧。顔を布で隠している」
「魔法使いは」
「少なくとも二人」
「目的は」
「不明だ」
「こちらの死者」
「まだ確認できていない。負傷者はいる」
イルゼは頷いた。
「東から入り、西と北を塞いだ。南門は?」
「まだ使える」
「使わせません」
「なぜだ!」
「そこへ全員殺到すれば待ち伏せされます」
近衛が黙る。
「襲撃者が三方向すべてを押さえず、一方向だけ残した理由を考えてください」
理解したらしい。
顔色が変わった。
「誘導されている……?」
「おそらく」
目的が大量殺戮なら、出口を残す意味がない。
人質を取るか、特定人物を狙うか、あるいは逃げ出した者を一か所へ集めるため。
イルゼはフェリクを一瞥した。
王太子に、有力貴族の子弟が一堂に集まる卒業夜会。
狙う価値のある人間はいくらでもいる。
「殿下」
「な、何だ」
「大広間中央へ」
「僕だけか?」
「いいえ。公爵家、侯爵家、王族に連なる者、全員です」
フェリクの表情が固まる。
今までなら違った。
フェリクだけを最も安全な場所へ移していただろう。
今は違う。
王太子は重要な保護対象の一人。
それ以上でも、それ以下でもない。
「ミーナレス様も一緒に」
「わ、私も?」
「殿下の隣にいれば狙われます」
ミーナレスの顔から血の気が引いた。
「は、はい」
イルゼは近衛へ目を向ける。
「殿下を中心とした要人の防護をお願いします」
「君はどうする」
「東へ行きます」
「駄目だ!」
フェリクが初めて大きな声を出した。
イルゼが振り向く。
「危険だろう!」
「はい」
「なら、ここにいろ」
「理由がございません」
フェリクの口が止まった。
「先ほど、わたくしの護衛任務は終了いたしました」
「それはそうだけど……」
「今のわたくしの仕事は、襲撃の全体像を把握し、学院内に残っている者をここへ集めることです」
短剣を握り直した。
「失礼いたします」
二人の近衛と、実戦経験があるという騎士科の卒業生二人を連れ、大広間を出た。
廊下には血が落ちていた。
壁際に一人、男子生徒が倒れている。
息はある。
「運ぶ」
イルゼが言い、一人が肩を貸そうとした瞬間。
「伏せて!」
全員が身を落とした。
窓が割れ、矢が一本、反対側の壁へ突き刺さる。
イルゼは矢の角度を見た。
中庭側。それも二階からだ。
「弩兵。渡り廊下二階」
「見えたのか?」
「見えません」
立ち上がらないまま、割れた窓の下を進む。
「矢が教えてくれました」
次の窓まで移動すると、イルゼは鏡面仕上げの短剣を一瞬だけ窓の外へ出した。
反射した景色の中に、黒い影が一つ見える。
「三つ数えます。二人で窓の左右へ」
近衛が頷いた。
「一、二」
イルゼは三を言わずに飛び出した。
相手は三を待っていた。
短剣が飛び、渡り廊下の男の肩へ突き刺さる。
悲鳴が上がった。
「今!」
近衛二人が走る。
「三と言ってないぞ!」
騎士科の男子生徒が叫んだ。
「敵にも聞こえていますから」
イルゼは平然と答えた。
負傷した生徒を回収しながら進む。
東棟へ近づくほど、戦闘音が増えていた。
曲がり角の手前でイルゼが拳を上げると、全員が止まる。
足音が近づいてくる。
二人――いや、三人。
そのうち一人だけ足音が重い。革鎧だ。
イルゼは壁際へ寄った。
最初の男が飛び出し、近衛が剣を受ける。
続いて二人目。
イルゼが懐へ入り、手首を掴んで捻る。肘を逆方向へ押し込み、そのまま壁へ叩きつけた。
剣が落ちる。
それを拾った瞬間、三人目が長剣を振り下ろしてきた。
半歩だけずらす。
刃が肩をかすめ、イルゼの剣先が男の腿を貫いた。
「ぐっ!」
蹴り倒す。
一人目も近衛が制圧した。
三十秒もかからなかった。
騎士科の二人が呆然としている。
「縛ってください」
「……はい」
「殺さないのか?」
「情報源を減らす必要はありません」
倒れた男の布を剥ぐ。
知らない顔だった。
腕には、三本線を円で囲んだ刺青がある。
「知っているか?」
近衛が尋ねた。
「いいえ」
イルゼは男の服を探った。
貨幣、短剣、細い紐、小瓶。
そして紙片。
開けば、学院の簡略図に赤い丸が三つついていた。
大広間。礼拝堂。南門。
「やはり南へ追い込むつもりでしたね」
「この丸は?」
イルゼは答えず、大広間の丸を見る。
次に礼拝堂。
何かがおかしい。
卒業夜会で大広間に人が集まるのは分かる。
南門は逃げ道。
では、礼拝堂は何のためだ。
そのとき、学院の礼拝堂の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
夜会中に鳴る鐘ではない。
イルゼの顔色が変わる。
「戻ります」
「東は?」
「囮です」
走った。
大広間まで戻り、扉を三回叩く。
合図を確認して机が退けられた。
「イルゼ!」
フェリクが安堵したような声を上げたが、イルゼはそのまま学院長へ向かった。
「地下道がありますね」
学院長の目が泳ぐ。
「なぜそれを」
「ありますね」
「……ある」
やはり。
「礼拝堂から?」
「王族避難用の古い通路だ。礼拝堂地下から本館地下へ繋がっている」
「出口は」
「この大広間の裏手だ」
大広間にどよめきが走った。
「いつ造られたものです」
「百年以上前だ」
「現在も使えることを知る者は?」
「学院長と王家、それから施設管理の責任者程度だ」
内部情報。
イルゼは即座に判断した。
「全員、大広間から出します」
「何だって!?」
フェリクが叫んだ。
「ここが一番安全なんじゃなかったのか!」
「五分前までは」
イルゼは大広間奥の壁を見る。
あの向こうから、地下道を使って上がれる。
敵が地図に大広間を記した理由も、礼拝堂を記した理由も、それなら説明がつく。
南へ人を追い込み、一部を捕獲する。
大広間へ籠もった要人は、地下道から奇襲する。
最初から二段構えだった。
「西側の講堂へ移動。二十人ずつ。走らない!」
再び人が動き始める。
「土属性魔法の四名!」
四人が前へ出た。
「この大広間の床を調べてください。地下から上がれる箇所があるはずです」
「どうやって」
「空洞を探すだけでいい」
一人の男子生徒が目を閉じ、床へ手を置いた。
数秒後。
「あそこ!」
舞台袖。
イルゼが走り、絨毯を剥がす。
床板に不自然な継ぎ目があった。
「机を全部ここへ!」
十人がかりで机を積んだ、その瞬間。
床下から鈍い音がした。
一度目で机が浮き、二度目で板が割れる。
「離れて!」
三度目。
床が吹き飛び、積み上げた机が崩れた。
煙の中から男が一人飛び出してくる。
イルゼの剣が喉元で止まった。
「動かないで」
男が笑う。
「女が」
懐へ手を入れた。
イルゼは止めなかった。
男が握った筒から火花が散る。
「伏せろ!」
近衛が叫ぶ。
イルゼは筒を蹴り上げた。
天井近くで炸裂し、閃光と轟音が広がる。
耳鳴りの中、男の顎へ剣の柄を叩き込んだ。
男が倒れる。
続いて穴から二人。
近衛が一人を受け、もう一人がイルゼへ向かってきた。
刃を受けずに逸らし、男の脇を抜ける。膝裏を蹴り、姿勢が崩れたところへ肩を打ち込んで床へ落とす。
「土魔法!」
四人が一斉に手を向けた。
崩れた床の周囲が盛り上がり、石材が穴を塞ぎ始める。
「完全に塞がなくていい! 狭めて!」
一人ずつしか上がれない幅にすればいい。
そこへ近衛を二人置けば、即席の関所になる。
地下の敵は、それだけで数の利を失った。
「次が来ます!」
穴から手が伸びる。
近衛の剣が突きつけられた。
「武器を捨てろ!」
一人、二人、三人。
上がるたびに拘束される。
五人目で止まった。
地下で撤退したらしい。
イルゼは息を吐いた。
まだ終わっていない。
「学院長。鐘楼へ上がれますか」
「上がれる」
「風属性魔法の者を二名。白い布を持って鐘楼へ。外へ合図を」
「何の?」
「王都警備隊です。これだけ爆発していれば、すでに向かっています」
問題は、敵が学院を封鎖していることだった。
外から状況が分からなければ、突入は遅れる。
「白布を三回。十秒置いてもう三回。学院の防衛側からだと分かるよう、王家の旗も出してください」
「分かった」
「弓術経験者は二階西廊下。撃たなくていい。外周を見て敵の位置を報告」
「はい!」
「治癒班は負傷者の重症度を三段階に分けてください。歩ける者から移動」
いつの間にか誰も、なぜ一介の卒業生が命令しているのかとは言わなくなっていた。
言われた通りにすれば人が生き残る。
それだけで十分だった。
フェリクが近づいてくる。
「イルゼ」
「中央へお戻りください」
「僕にも何かできる」
イルゼは初めて少し驚いた。
「剣は」
「一応、習ってる」
「実戦は」
「ない」
「では剣を抜かないでください」
フェリクの顔が引きつる。
「……そんなにはっきり言う?」
「死にますので」
「僕、そこまで弱くないよ」
「実戦経験のない方は先ほど全員、机を運んでいただきました」
王太子だろうが同じだった。
イルゼは周囲を見る。
「殿下は生徒たちへ声をかけてください」
「声?」
「王太子が落ち着いていると分かれば、皆も落ち着きます」
フェリクが少し黙った。
「それは、僕にしかできない?」
「はい」
表情が変わった。
「分かった」
フェリクは剣から手を離し、講堂へ移る生徒たちのところへ歩いていった。
「大丈夫だ。慌てなくていい。順番に行こう」
震えている一年生の肩を叩く。
イルゼは一瞬だけそれを見た。
悪くない。
王太子には王太子の仕事がある。
昔から、そう思っていた。
だからこそ、自分が影を片づけてきた。
その判断自体は間違っていなかったのかもしれない。
ただ、何も知らせなさすぎたのだろう。
「イルゼ様!」
弓術の生徒が駆けてくる。
「東庭園! 敵が集まっています!」
「数」
「十二……いえ、十五ほど!」
逃げるつもりか。
いや、十五人。
まだ攻める気だ。
鐘楼に旗が上がる。
外では警備隊が来ている。
時間がないことは、敵も分かっている。
ならば最後に狙うものは一つ。
「殿下!」
フェリクが振り向いた。
「こちらへ!」
イルゼが叫んだ瞬間、東側の窓が一斉に割れた。
何本もの矢が飛び込んでくる。
「伏せろ!」
悲鳴が上がる。
イルゼはフェリクを見た。
昔なら、彼一人のもとへ走っていただろう。
だが今は違う。
「風!」
待機していた風属性の生徒三人が腕を突き出した。
突風が巻き起こり、矢の軌道が逸れて床へ落ちる。
「全員、壁際へ!」
第二射。
今度は少ない。
囮だ。
その直後、東扉が破られた。
敵が雪崩れ込んでくる。
十一人。
先頭には大柄な男。
「王太子を取れ!」
やはり。
イルゼは剣を抜いた。
「近衛、前へ!」
四人が並ぶ。
「剣の実戦経験者、左右!」
六人。
「火属性、撃つな!」
魔法を構えた生徒が止まる。
室内には人が多すぎる。
火を使えばこちらにも被害が出る。
「光だけ!」
火球ではなく、閃光。
一斉に放たれた光に、敵が目を覆った。
イルゼが走る。
一人目の剣を弾き、二人目の腹へ蹴りを入れる。
三人目の腕を掴み、その身体を盾にすると、敵の刃が仲間の革鎧へ食い込んだ。
「てめえ!」
大柄な男がイルゼへ向かってくる。
速い。
見た目よりずっと速い。
横薙ぎを後ろへ跳んで避けると、ドレスの胸元すれすれを刃が通過した。
二撃目を受ける。
重い。
腕が痺れた。
真正面では勝てない。
三撃目を避けながら後退すると、男が笑った。
「逃げるだけか!」
イルゼは答えない。
一歩。
二歩。
三歩。
男が踏み込んだ。
その足が滑る。
先ほど割れた葡萄酒が、床に広がっていた。
イルゼは最初からそこへ誘導していた。
男の体勢が崩れる。
イルゼは剣を捨てて懐へ入り、肩、肘、腰と全身を使って男の腕を取った。
関節が逆へ曲がり、剣が落ちる。
男の膝裏へ足を入れ、そのまま床へ叩きつける。
近衛が首へ剣を当てた。
「動くな!」
残りを見る。
七人が戦闘中。
二人が倒れている。
そのうち一人が戦線を抜け、フェリクへ走った。
「殿下!」
ミーナレスが叫ぶ。
フェリクが彼女を庇った。
男が短剣を振り上げる。
イルゼとの距離は十二歩。
間に合わない。
昔なら。
そう思った瞬間、フェリクがミーナレスを押し倒すようにして床へ伏せた。
短剣が空を切る。
近くにいた騎士科の生徒が、机を男へ叩きつけた。
「今だ!」
三人がかりで押さえ込む。
イルゼは足を止めた。
フェリクが顔を上げる。
目が合った。
驚いている。
たぶん、自分でも驚いているのだろう。
イルゼは一度だけ頷き、次へ向かった。
敵はほどなく制圧された。
最後の一人が剣を落とした直後、学院正門側から大きな声が響く。
「王都警備隊だ!」
歓声が上がった。
イルゼは壁へ背を預け、ようやく息を吐いた。
右肩が痛い。
見ればドレスが切れ、薄く血が滲んでいた。
いつやったのか覚えていない。
「イルゼ!」
フェリクが駆けてくる。
「怪我してるじゃないか!」
「浅いです」
「でも血が」
「治癒班はもっと重傷の方から」
反射的に答えると、フェリクは何か言いかけてやめた。
代わりに、自分の上着を脱ぐ。
イルゼの肩へかけようとした。
「不要です」
「そこは受け取ってよ」
少しだけ苛立ったように言われた。
イルゼは考える。
「では、お借りします」
「うん」
ミーナレスも近づいてきた。
髪が乱れ、頬に埃がついている。
「イルゼ様」
「お怪我は」
「ありません」
「よろしゅうございました」
ミーナレスは唇を噛んだ。
「私……何もできませんでした」
「避難誘導で一年生を三人連れていらしたでしょう」
「見てたんですか?」
「見ておりました」
いつもの癖だ。
人を見る。周囲を見る。何が起きているかを見る。
ただし今夜、初めてだった。
フェリクの周囲だけではなく、学院全体を見た。
夜が明ける頃には、襲撃者二十九名が拘束されていた。
死亡者はなし。
重傷者四名、軽傷者二十三名。
警備隊が学院内を捜索し、礼拝堂地下からさらに六名を捕らえた。
後の調査で、襲撃の目的は王太子と有力貴族子弟の拉致だったことが判明した。
国外の反王党派から依頼を受けた傭兵組織。
南門へ生徒を追い込み、身代金を取れそうな者を選別する。
王太子が大広間へ籠もれば、地下道から直接捕らえる。
かなり周到な計画だった。
ただし、彼らの計画には一つだけ想定外があった。
王太子を五年間、表に出ず守り続けてきた女が、その夜だけは王太子一人ではなく、学院にいる全員を守る側へ回ったこと。
翌朝。
学院の中庭で、イルゼは事情聴取を終え、ようやく帰ろうとしていた。
裂いたドレス。
借りたままの上着。
乱れた髪。
昨日までなら、人前へ出られる姿ではない。
不思議と今は気にならなかった。
「イルゼ」
フェリクが呼び止めた。
振り返ると、ミーナレスも一緒だった。
「何でしょう」
「昨日のことなんだけど」
フェリクは珍しく言葉を探していた。
「僕、本当に何も知らなかった」
「はい」
「毒のことも、弓兵のことも」
「はい」
「昨日みたいなことを、ずっと?」
「規模はもっと小さいですが」
フェリクは黙った。
「……五年間?」
「はい」
「僕、君に『ご苦労さま』って言ったよね」
「おっしゃいました」
フェリクが両手で顔を覆った。
「忘れてくれない?」
「記憶力には自信がございます」
「そういうところだよ……」
昨日と同じ言葉。
けれど、響きは少し違った。
フェリクは手を下ろす。
「婚約のこと」
イルゼは待った。
「戻そうとは言わない」
少し意外だった。
「僕が終わらせたんだし、ミーナレスにも失礼だから」
隣のミーナレスが頷いた。
「ただ」
フェリクはイルゼを見る。
「ありがとう」
今度は、何に対する言葉なのか分かった。
五年間。
毒を捨てたこと。弓兵を捕らえたこと。馬車を交換したこと。侵入者を捕らえたこと。買収された騎士を外したこと。
そして昨日。
王太子だからではなく、学院にいた一人として生かしたこと。
イルゼは頭を下げた。
「どういたしまして」
フェリクが苦笑した。
「やっぱり硬いなあ」
「そうでしょうか」
「うん」
その隣でミーナレスが小さく笑った。
「でも、私は好きです。イルゼ様のそういうところ」
「ありがとうございます」
「あと」
ミーナレスが少し迷ってから、自分の胸元を見た。
イルゼは嫌な予感がした。
「昨日の、身体の話なんですけど」
フェリクが慌てる。
「ミーナレス、それはもういい!」
「私から言ったんじゃありません!」
「分かってる!」
イルゼは二人を見た。
少しだけ笑う。
「身体については、今も否定しておりません」
フェリクが頭を抱えた。
その日の午後。
王宮から正式な使者が来た。
学院襲撃における功績を称え、イルゼ・ハルデベルク公爵令嬢へ王家から褒賞を与える。
そういう話だった。
イルゼは辞退しようとしたが、父に止められた。
「受けておけ」
「ですが」
「お前がフェリク殿下を守っただけなら、家の仕事だ」
父は言った。
「昨夜、お前が守ったのは学院だ」
イルゼは黙る。
「それはハルデベルク家の密命ではない」
父が少し笑った。
「お前が自分で選んだ仕事だ」
その言葉が、妙に残った。
自分で選んだ。
考えてみれば初めてだった。
王太子妃候補になることも、フェリクを守ることも、すべて役目として与えられたものだった。
昨夜だけは違う。
婚約は終わった。
護衛任務も終わった。
だからこそ、あの爆発音を聞いたあと、剣を取ったのはイルゼ自身だった。
数日後。
王立学院の正門には、まだ修理用の足場が組まれていた。
その前を通ったイルゼへ、見知らぬ下級生が頭を下げた。
次も、その次も。
「ありがとうございました、ハルデベルク様」
イルゼは少し困った。
影で働くことには慣れている。
誰にも知られないことにも慣れている。
感謝されることには、慣れていなかった。
「イルゼ様!」
振り返ると、卒業夜会で机を運んでいた騎士科の男子生徒だった。
「王都警備隊へ入ることにしました!」
「左様ですか」
「はい! あの夜、実戦経験がないなら剣を抜くなって言われて、悔しくて」
少し身構える。
「でも、その通りだと思いました」
男子生徒は笑った。
「だから、ちゃんと経験を積みます」
「……頑張ってください」
「はい!」
走っていく背中を見送る。
イルゼは学院を見上げた。
窓。屋根。塔。死角。
無意識に目が動く。
癖は、すぐには抜けそうにない。
ただ。
もう一人だけを見る必要はなかった。
視界は思っていたより広い。
王太子の背後だけを見続けていた頃より、ずっと。
「お嬢様」
迎えの馬車の前で、侍女が待っている。
「参りましょうか」
「ええ」
イルゼは歩き出した。
六年間続いた婚約は終わった。
五年間続いた護衛任務も終わった。
王太子殿下を守る理由は、もうない。
けれど、助けを求める声があれば。
守るべき者が目の前にいれば。
それはまた、別の話だ。
イルゼ・ハルデベルクは馬車へ乗り込む。
昨日までより、少しだけ軽くなった肩で。
王太子殿下の護衛任務は、確かに終了した。
学院襲撃は――別件だった。
婚約破棄されたので、護衛任務も終了です。
ですが、その直後に学院が襲撃されたなら、それはそれ。
今回はそんなお話でした。
ずっと誰かを守ることを「仕事」としてきたイルゼが、最後に初めて自分の意思で剣を取るところまで書けて楽しかったです。
お読みいただき、ありがとうございました。




