第9話 あのスープは、母の味がしたんだ
彼が泣くところを、私は初めて見た。
大ざまぁの余波は、数日にわたって学園全体を揺るがした。
ミランダ・セルヴァーニは、貴族令嬢としての面目を失った。盗まれたレシピ。偽装された薬膳。そして、自分の無能さがあからさまになったこと。それだけではない。彼女は、隣国の使節を危機に陥れたのだ。その罪は、単なる窃盗ではなく、準外交的な侮辱である。彼女は学園から身を引く他なかった。
その後、彼女の両親からも勘当されたと聞いた。貴族社会というのは、そういうところだ。才能のない者は、どれほど身分が高かろうと、いずれ消えるのだ。
一方、私への風当たりは一変した。
「お嬢様!」
トーマスが最初に気づき、その後は列が戻ってきた。行列は、以前にも増して長くなった。「毒を見抜いた料理人」「隣国の王族に認められた才能」──そういう噂が、学園中を駆け巡ったのだ。
(小ざまぁではなく、大ざまぁだった)
社畜時代、私は何度も左遷を受けた。その度に、自分の価値が下がったと感じた。だが、今は違う。むしろ、自分の価値が上がった。それは不思議な感覚だった。自分が変わったわけではない。他者の目が変わっただけだ。
なのに、それが嬉しかった。
だが、最大の変化は、別のところにあった。
フェリクス殿下が、学園から姿を消したのだ。隣国への急な帰国。公式には「国務の都合」とだけ発表されていたが、妙だった。あれほど頻繁に学園食堂に足を運んでいたのに。
実は、彼の帰国は、ミランダへの罰と関連があるのだろう。隣国の王族が、自国民を危機に陥れた外国人を許さないという明確な意思表示。それは、ヴァイスベルク王国に対する無言のプレッシャーでもある。
だが、その事実よりも大きなショックは、フェリクス殿下の不在だった。
毎日、毎日、その顔を見ることに慣れていた。その琥珀色の瞳が、私の料理に反応する様子を見ることに慣れていた。その習慣が、突然に奪われたのだ。
学園食堂での仕事は、虚しくなった。
三日目の夜。
私は調理室で後片付けをしていた。学園食堂は既に閉まり、明日の仕込みも終わった。ベルタ先生も帰宅した。唯一、私だけが残っていた。
扉がノックされた。
「……入ってください」
フェリクス殿下だった。
琥珀色の瞳が、いつもと違う色をしていた。迷いに満ちた、か細い光。
「聞いてほしい話がある」
それが、最初の言葉だった。
私は調理室の隅に座っているフェリクス殿下の前に、湯のみを置いた。
「茶です。聞きます」
フェリクス殿下は、ゆっくりと口を開いた。
「俺の母は……料理が好きだった」
銀灰色の髪が揺れた。
その言葉は、完全形ではなく、仮定形だ。「料理が好きだった」と過去形で語る。つまり、今はそれが失われているということだ。
「幼い頃、母はよく俺に料理を作ってくれた。外交官の妻というのは、忙しい。だが、母だけは違った。どれほど忙しくても、どれほど疲れていても、夜間には必ず俺の傍で何かを作ってくれた」
それは、フェリクス殿下にとって、唯一の「愛」だったのだろう。王族の家庭では、感情的な表現は控えられる。だが、料理という行為を通じて、その母は自分の息子に愛を伝えていたのだ。
その方法は、私の前世の社畜時代とは全く違う。だが、その根底にある「誰かのために何かを作る」という気持ちは、同じものなのではないだろうか。
「……」
「母は、七年前に亡くなった。病だ。その最後の日に、母は白い温かいスープを作ってくれた。デザートスープではなく、本当に白い、淡いスープだった。塩気もあり、甘さもあり、複雑で……」
フェリクス殿下は目を伏せた。
「俺は、そのスープの味を覚えていない。医師が、食べるなと言ったから。だが、母の手つきだけは、覚えている。その手は、震えていなかった。最後の瞬間まで、何かを掴もうとする手だった」
白い液体が頬を伝った。
フェリクス殿下は泣いていた。
王族が、人前で泣く。それは、絶対にあり得ないことだ。だが、この瞬間、彼は王族ではなく、一人の人間だった。
「……あのスープを飲んだ時、俺は気づいた。それが、あのスープの代わりだったのだ。あなたが、あの白銀のデザートスープを作ってくれた時。俺の母が、最後に俺に渡そうとしていた愛が、そこにあった」
その言葉の重さ。食材が持つ魔力は、単なる栄養ではなく、作り手の心を伝える媒体なのだ。そう、それは音楽と同じだ。同じ楽譜でも、演奏者が変わると、全く別の作品になる。
同じように、同じ食材でも、作り手が変わると、全く別の料理になるのだ。
私の手は、自分の意志なく動いていた。
フェリクス殿下の手を、握っていた。
「リゼット。あなたの料理は、本物だ。それはただの食べ物ではなく、人を癒すものだ。俺は、それを求めている。──いや、俺だけではなく」
フェリクス殿下が目を上げた。涙で濡れた琥珀色の瞳が、直接私を見つめていた。
「……俺も、前世の話をする」
そう言うと、フェリクス殿下は目を上げた。
私は声を出した。それは自然と出た言葉だった。
「私の前世は……社畜でした。食品メーカーで、毎日毎日、定時を知らずに働いた。結婚もできず、友人も作れず、ただ仕事だけが人生でした」
フェリクス殿下は、黙って聞いていた。その琥珀色の瞳は、私の言葉の一つ一つを受け止めるかのように、集中していた。
「そして、ある日。仕事の途中で、私は死にました。定時を知らない会社で、カップスープを啜りながら」
その瞬間の記憶は、今でも鮮明だ。デスクの上のパソコン。熱いお湯を注いだプラスチックの容器。そして、そのスープを飲んでいた時に、自分の心臓が止まった。
私は、フェリクス殿下の手をより強く握った。
「それが、私の最後の食事でした。味も分からないカップスープ。誰が作ったものか分からない、プラスチックの味がする液体です。あなたのお母さんの白いスープとは違う。だけど……」
私の喉が詰まった。
「だけど、同じことなんだと思います。最後の瞬間に、誰かが作ったものを食べたい。そう思う気持ちは、同じだったんだと思います」
フェリクス殿下は何も言わなかった。ただ、私の手をより強く握った。
その握力は、同じものを失い、同じように求め、そして同じものを見つけた者同士の握力だった。言葉など不要だ。その握力だけで、全てが通じていた。
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二日後。
隣国から、正式な招待状が届いた。
宮廷晩餐会。それは隣国の王妃が主催する、最高位の晩餐会だった。招待されるのは、政治的に重要な人物か、もしくは王族が認めた才能ある者だけだ。その招待は、単なる晩餐ではなく、外交的な承認を意味していた。
私は招待状を手にして、呆然と立ち尽くしていた。
招待状には、一言添えられていた。
「フルコースの提供を、この方に一任いたしたく」
十品。フルコース。それが、私の仕事だった。
思い出したのは、フェリクス殿下の言葉だ。「来てくれたら、わかる」。あの言葉は、決して王族の気まぐれではなく、計画の一部だったのだ。
「隣国の宮廷晩餐会……フルコースを、私が?」
私は招待状を握った。
その紙の裏に、別の言葉が隠されているような気がした。フェリクス殿下からのメッセージ。彼が選んだ道。彼が示した未来。
「……来てくれたら、わかる」
あの言葉の真意が、今、明かされようとしていた。




