第7話 悪気がなかったからこそ、私は戻らない
懐かしい声が、店の扉を開けた。
「リゼット」
レオン。アルヴィン殿下の側近にして、私の幼馴染。黒髪。黒い瞳。いつも、申し訳なさそうな表情をしている。その表情は、今日も変わっていない。むしろ、より深くなっている。
「いらっしゃいませ」
丁寧語。完璧な返答。前世で鍛えた技術。だが、その声には、距離がある。親友を前にしての距離。意図的な距離。
「いや。来たのは、仕事じゃなくて——」
レオンは、店の奥に座った。いや、座らせられた。フェリクス殿下がいたから。
「君の友人か」
フェリクス殿下が、そう聞いた。その琥珀色の瞳には、明らかな警戒がある。恋愛的な警戒ではなく、領域的な警戒。この場所——社畜亭という領域への侵入者を見る眼光だ。
「昔からの知人です。よろしくお願いします」
レオンは、フェリクス殿下を見た。その視線は、複雑だ。罪悪感と、期待と、何かが混じっている。そして、その『何か』は、認識だ。この王子が、リゼットに好意を持っているという認識。そしてそれは、彼が原因だという認識。
「リゼット。王子は悪気がなかった。戻ってきて。学園に」
「……そうなんですね」
「本当だ。あいつは、君が『不適切』だと言われただけで——」
「不適切な営業許可」
「そう。その『不適切』は、学園長が勝手に決めたことで。王子は、君のためだと思って——」
「アルヴィン殿下が、私のためだと思った」
言葉を反復する。確認するように。重ねるように。
「そうだ」
「では、アルヴィン殿下の無関心は、無関心ではなかった」
「え?」
「つまり、悪気がなかったのですね」
レオンが頷く。その動作は、確定の印だ。死刑宣告の印だ。
「だからこそ、私は戻りません」
───
沈黙が、店を満たした。
フェリクス殿下も、レオンも。
「何を言ってるんだ。あいつは君を想って——」
「悪意なら対処できます」
私は立ち上がった。厨房から出る。客席に立つ。その立場の転換は、重要だ。舞台を変える。立場を変える。
「悪意があれば、怒って、言い返して、避けることができる。相手を責めることができる」
「リゼット……」
「でも無関心は、違います。無関心は、治りません。悪意は、対処できる。でも優しさは、対処できない」
レオンの顔が、引きつった。彼は、その言葉の重さを理解している。
「アルヴィン殿下は『無関心な善人』です。その善意で、私は壊されました。友人だから大事だと思われて、『有害だ』と判断されて。その判断は優しさから出ていて。だから、反抗の余地がない」
「そんなことはない。あいつはお前のために——」
「その『ため』が、最も辛いんです。優しさの下に潰される。善意の下に消される。その中では、怒りを持つことすら、申し訳ないと感じてしまう」
前世を思い出す。
会社という檻の中で。『君のため』『給与のため』『福利厚生のため』という言葉の下で。全てが正当化される。全てが許される。そしてそれが、『死』へ導く。
「経営者は言いました。『君のために、給与を上げた』『君のために、昇進させた』『君のために、プロジェクトに参加させた』と。その『ため』は、私を殺した」
「リゼット」
「だから、私は戻らない。あの優しさの下に、私は潰れます。ここなら——」
ここなら。
フェリクス殿下の方を見た。彼は、相変わらず何も言っていない。何も表現していない。だがその沈黙が、スープのように深い。食材の底力を秘めた沈黙。
「ここなら、私は料理を作れます」
「あなたは私の料理が好きなだけでしょう?」
フェリクス殿下へ、問う。
「あなたは、私のこと――」
言葉が止まった。この王子のために、敢えて言葉を停止する。言葉の外にある意図を、言葉にさせるために。
フェリクス殿下は、少し目を逸らした。
「……そうだな。料理が好きなんだと思う」
「料理が」
「そうだ。君の料理が、好きなんだと思う」
不器用だ。この王子は、気持ちを言葉にするのが下手だ。『君』ではなく『料理』。『好き』ではなく『好きなんだと思う』。その不器用さが、最も真実に近いのだろう。
だから、私はほんの少し、寂しくなった。
でも、その寂しさは、悪いものではない。
「ただし。その料理を作るのは、君だ」
続いた。
「だから、君が必要なんだと思う。料理のためだけに、という理屈では説明できない何かが——」
「理屈では説明できない」
「そうだ」
琥珀色の瞳が、私を見つめている。その瞳に映る『私』は、何なのか。料理人か。女性か。相棒か。必要な存在か。
「だから、ただ――君がいてほしい」
シンプルだ。完全に、シンプルだ。
前世では、こんなシンプルな言葉をかけてもらったことがない。全ては仕事であり、期待であり、契約だった。『君の労働力が必要』『君の成果を期待している』『君の給与が必要』。だが、『君が必要』という言葉は、存在しなかった。
その言葉ひとつで、全てが変わる。
「そうですか。ありがとうございます」
微笑んだ。
本当に微笑んだのだと思う。
レオンは、黙ったまま立ち上がった。『無関心な善人』には、この場所は存在しないのだ。この場所は、『理屈では説明できない何か』で満ちている。それは、『無関心』では説明できない。『善意』でも説明できない。
「……頑張れ。二度と戻ってくるなよ」
レオンは、そう言って去った。
───
レオンが帰った後。
私は一人、新しい厨房に立った。
いや、違う。フェリクス殿下がいた。
白い壁。青い空。そして、新しい食材。
「私のこの選択は、冷たいだろうか」
誰にも聞こえない声で、呟く。
友人を傷つけて。王子の善意を拒否して。
ただ、料理を作るために。
フェリクス殿下が、隣で食器を整えている。
言葉を交わさない。ただ、同じ空間にいる。
それだけで、十分だ。
前世では感じられなかった感覚。
過労死した社畜には、与えられなかった選択。
『私のこの選択は、冷たいだろうか』
もう一度、つぶやいた。
だが、その言葉は、過去を振り切るための言葉ではなく。
新しい人生の階段を上るための、確認だった。
フェリクス殿下は、食器の整列を止めた。
「冷たくない。君がいるじゃないか」
その言葉だけで、全てが変わった。
全てが、許された。
私の選択が、肯定された。
「ありがとうございます。あなたは、本当に良い王子様ですね」
「王子じゃない。君の——」
言葉が止まった。彼は、何かを言いかけて、躊躇した。
「君の、何ですか?」
「……まだ、言葉にできない。だが、いずれ」
その約束だけで、十分だった。




