第6話 新装開店――移転先は王子の手が届かない場所
新しい厨房の壁は白かった。前世のオフィスと同じ色。蛍光灯のような、無機質な白。
ただし。
「窓の外には空がある」
呟く。
前世にはなかったものだ。青。光。風。自由。これが、異世界とこの世界の決定的な差だ。前世は、どこまでも檻だった。この世界も檻かもしれない。だが、窓がある。その窓の外に、何かがある。それだけで十分だ。
白い壁に光が当たる。影ができる。陰陽。対比。美しい。
───
学園外の空き店舗は、最初、見る影もなかった。
古い木造建築。壁は剥がれかけている。扉は錆びている。床には、土埃が溜まっている。これが、私の新しい『社畜亭』になるのか。冗談のようだった。
だがフェリクス殿下の『隣国食文化交流事業』という名目は、強力だった。国家的なプロジェクトとして提出された提案は、ヴァイスベルク王国の学園長すら無視できない。国交に関わる事項だからだ。
ベルタ先生が全力でサポートした。50代の料理教師は、若き日に隣国に滞在していたのか、『文化交流の重要性』を説く人物だ。その先生が「素晴らしいプロジェクト。この国の食文化の未来を左右する重要事業」と学園長に説いた。
新社畜亭は、二週間で完成した。
古い建築の内側を、新しい厨房へと変える。フェリクス殿下が手配した工人たちが、不眠不休で働いた。王族の命令だからだ。王族の資金だからだ。
「完成だ」
フェリクス殿下が、新装開店の朝に来た。隣国から特別に送られた食材を携えて。そして、もう一人。
「リゼット」
新しい声がした。
振り返ると、男性が立っていた。フェリクス殿下そっくりだが、更に背が高く、金髪だ。琥珀色の目は同じだが、その奥に厳しさがある。この人物は、選択を下す者だ。判断を下す者だ。
「これが、かの……」
「兄上。紹介する。リゼット・ヴァルム。君の求めていた逸材だ」
兄上。つまり、隣国アシェンバッハの第一王子。アルヴィン殿下とは違う、本当の『無関心な善人』。無関心と言いながら、実は全てを見ている。判断している。だから恐ろしい。
「国宝級だ。この逸材を手放したのは、貴殿ですか」
第一王子の言葉は、アルヴィン殿下へ向かった。その言葉の背景にあるのは、『外交的圧力』だ。『あなたは優秀な人材を失った。何故か』という問い。『それは、あなたの器が小さいからではないか』という皮肉。
その言葉が、学園長の耳にも届いたのだろう。その後、アルヴィン殿下からの圧力は、ぴたりと止まった。国交は、個人の好みより重要だからだ。
「隣国の食文化交流事業として、この店を営業許可します。学園長も了解いたしました」
第一王子の言葉は、全てを変えた。
営業許可。正式なもの。形式的なもの。法的なもの。
私は、もう『不適切』ではない。
『国家的に重要な食文化交流の拠点』だ。
───
開店初日。
私は、迷子になっていた。
学園外の街並み。こんなに複雑だったか。つい三日前は来たはずなのに。店の位置が、思い出せない。
左に曲がったはずなのに、右に着いた。右の路地に入ったはずなのに、左の広場に出た。
何度目だろう。五度目か。六度目か。
「またか」
声がした。
フェリクス殿下が、腕を組んで立っていた。呆れたような顔で。明らかに待っていた。
「毎回、迷う君。今日は何度目だ」
「申し訳ございません。方向音痴で」
「それは知っている。初日から、既に三度目だ。この街は、そこまで複雑ではない。それに君は、料理人なのに、味覚以外の感覚が。だが」
フェリクス殿下は、こちらへ歩いてきた。そして、手を出した。
何も言わずに。
「毎回、探してくるのか……」
呟きながら、私は手を握った。
温かかった。生温くもなく、冷たくもない、完璧な温度。その温度は、彼が何度も繰り返して覚えた温度なのだろう。『君を導く時の温度』として。
その手は、新社畜亭へ向かって歩いた。私を導きながら。私を失わせないように。
「もう迷わないように、今日は左だ。その左から、二番目の石造りの建物を見つけたら——」
「それがお店」
「そうだ。君がここにいるから、僕はいつもそれを見つけることができる」
フェリクス殿下の耳が、少し赤くなっていた。冬だから、だろうか。いや、違う。彼の頬も少し赤い。
「あ、ありがとうございます」
「謝るな」
「え」
「謝るなと言った。僕は——」
言葉が止まった。彼の脳が何かを処理しようとしている。その過程で、言語化が追いつかない。感情と言語の間に、広大な海がある。
「毎回、探すことにした。君が迷う限り、ずっと。だから——」
その言葉は、約束だった。
───
学園は、激怒していた。
アルヴィン殿下の執務室で、私は伝聞で知った。側近のレオンが、つい先ほど来ていたから。学園長の許可を得て、後始末を申し付けに来ていた。
「あの女を戻せ。学園の食堂として。食文化交流事業など、名目に過ぎない」
そう叫んだらしい。
だが、隣国の第一王子が『国宝級』と評価した人材を、簡単には戻せない。国交に関わる問題になる。食文化交流事業は、王国間の協定となる。それを破棄することは、国家的な侮辱に値する。
つまり、私は、自由だ。
法的に。形式的に。制度的に。
新しい厨房で、私は包丁を握った。
その手は、もう震えていない。
帰属することと、所有されることは、違う。
前世では、社畜亭という名の会社に、私は所有されていた。奴隷。商品。機械。全ては、会社の利益のために。
だが今は、社畜亭という名の場所に、私は帰属している。その場所は、私が作る。私が守る。私が愛する。そこに、私の意志がある。
その違いは、見た目には小さいかもしれない。
しかし、内側から全てが違う。
白い壁の向こうに、青い空が見える。
フェリクス殿下は、常連になった。毎日来る。毎日、何かを頼む。それは、スープのこともあれば、単なる茶のこともある。だが、本当の目的は、別だ。
「もう帰るのですか」
「ああ。明日もここへ来ると思う」
「毎日、ですね」
「そうだ」
その言葉に、隠された意味が詰まっている。『毎日、君と同じ時間を過ごしたい』『毎日、君の料理が食べたい』『毎日、君の顔が見たい』。
しかし、それは言葉にはならない。琥珀色の瞳だけが、全てを語っている。
───
新装開店から、一月。
私たちの関係は、料理人と顧客のままだ。だが、それ以上のものにはなっていない。
なぜなら、王子は、まだ言葉にできないから。
でも、それで十分だ。
言葉にならない感情。
表現できない想い。
それが、最も純粋だから。
「あの、フェリクス殿下」
「何だ」
「毎日来てくれて、ありがとうございます」
「それは、僕の方だ」
琥珀色の瞳が、私を見つめる。
「毎日、君を見ることができて。毎日、君の料理が食べられて。毎日、君がいるから、僕は——」
言葉が止まった。
だが、それでいい。
言葉にならない想いは、存在しないのではなく、言葉を超えているのだ。
白い壁に光が当たる。影ができる。
陰と陽。
対比の美しさ。
それが、この世界だ。




