第5話 閉店のお知らせ
閉店のお知らせ——と書いた紙を、手が震えて貼れなかった。
セロテープ。こんなものが、こんなに難しいはずがない。前世では毎日、数百枚の書類を貼り付けていたのに。だというのに、この一枚の紙は、貼り付けられない。
握った手が、震えている。制御できない。前世の心臓発作と同じ。あの時も、手が震えていた。あの時も、何もできなかった。
「何をしている」
声がした。
振り返ると、フェリクス殿下がいた。いや、正確には、フェリクス殿下が立っていた場所に、学園長の従者がいた。銀灰色の髪ではなく、黒い髪。琥珀色の瞳ではなく、冷たく澄んだ瞳。
「営業停止命令です」
従者は冷たく言った。紙を差し出す。羊皮紙。学園長の印鑑。正式文書。
「学園長より、この食堂の営業を本日より停止するよう、命令されています。理由は『無認可営業の形跡』及び『学園の教育理念に反する営業活動』とのことです。ご異議があれば——」
「分かりました」
私は、従者の声を遮った。
「分かりました。ご指示ありがとうございます。本日をもって営業を停止いたします」
丁寧語。完璧な返答。社畜として身につけた、最高の技術。これが、命を救う。これが、生存戦略。反論するな。逆らうな。受け入れろ。そうすれば、最悪の結果は避けられる。
───
一人の厨房は、鮮烈に響く。
どうしようもなく、静かだ。
フェリクス殿下が訪れなくなった。三日目には、もう来なくなった。アルヴィン殿下が『不適切な営業許可』として学園長に圧力をかけたのだ。動機は不明。だが結果は明確。社畜亭は、死んだ。アルヴィン殿下が「不適切」と判断した時点で、世界は『不適切な世界』へ塗り替わった。
二十代の管理職に「君は不適切」と言われて、転職した新入社員がいた。その後、彼女は誰も雇わなかった。『不適切』という烙印は、世界を変える。
包丁の音が、耳に残る。
カタン。カタン。
前世。あの、狭い研究室。
蛍光灯の下。朝5時から夜1時まで。酸素が足りない。左腕が痛い。心臓が痛い。
目の前の書類は、誰のものか。顧客か。同僚か。上司か。もう分からない。全ては、会社という檻の中で、同じ色をしていた。灰色の書類。灰色の机。灰色の人生。
「リゼット」
声を聞いて、我に返った。
包丁を握った手が、さらに震えていた。止まらない。動きが止まらない。ナイフの先端が手指を狙っている。いや、違う。手が意識的に自分の手首に向かっている。
トーマス。一年生。魔力が少ない少年。社畜亭の常連だ。いつも、スープを頼んでいた。誰もが『残飯だ』と言うこのスープを。
「あ……」
「君、いないと思ってた。昨日も来なかったし、今日も——」
彼の目が、後ろの『閉店のお知らせ』を見つけた。張り紙は、まだセロテープが完全ではない。不完全な張り紙。不完全な別れ。
「あ……もうスープ飲めないの?」
子どもの声だ。
だから、壊れた。
前世では、誰かが「ありがとう」と言ってくれるのを、毎日待っていた。だが、誰も言わなかった。帰宅する時間に、既に夜中。会社を出る時間に、既に空は黒い。『ご苦労様』『お疲れ様』という言葉は、あったが、『ありがとう』という言葉は、なかった。
それなのに。
この世界では。
一年生の少年が「スープ飲めないの?」と言ってくれた。
存在を確認してくれた。
その声が、無くなる。
涙が出そうになった。いや、違う。涙が出ていた。気づかないうちに。止められないほどに。
「申し訳ありません」
「あ、ごめん。変なこと聞いて。ごめん」
少年は、慌てて店を出た。後に残ったのは、開いたドアと、冬の冷たい風。そして、不完全な張り紙。
───
厨房に、茶が置かれていた。
いつの間に。
フェリクス殿下が座っていた。奥の椅子に。何も言わず。何も求めず。
「……何ですか」
「茶だ。飲め」
「そうですが」
「飲め」
命令ではなく、頼みだった。それが、より一層、心を壊した。相手が無関心なら、対処できる。相手が優しいなら、何ができるのか。どうしようもない。その優しさの前では、全ての反論は、無駄だ。
私は茶を飲んだ。温かかった。生温い茶は、前世を思い出させた。帰宅後、誰も飲まない茶。冷めた茶。一人で飲む茶。だが、この茶は違う。フェリクス殿下が、温度まで気をつけて持ってきた茶だ。
「同情なら——」
「同情じゃない」
言葉が被った。
「僕は、君のスープが飲みたいだけだ。それだけ」
「それだけ」
「そうだ。それだけで十分。君の料理があれば、僕は満足する」
「それだけ」
長い沈黙。
私は、言葉を探していた。
前世で、死ぬ前に、何を想っていたのか。その記憶が、ぼんやりしている。死は、思考を消す。死は、全てを奪う。だが、生まれ変わりは、それを返してくれたのか。それとも、より深く傷つけるのか。
最後の瞬間、私は何を見たのか。天井か。顔か。光か。その全てが、記憶から消えている。ただ、『失われたもの』という感情だけが、残っている。
「前世で私は、誰にも『美味しい』と言ってもらえないまま死にました」
なぜ、そんなことを言ったのか。自分でも分からない。
「だから、どうした」
「……どうしたって、ありますか。それは、それで終わりです。もう誰からも、言ってもらえない。だから——」
「だから、何だ」
「だから、私はここで、スープを作る。規則なんか、関係なく。アルヴィン殿下の善意なんか、関係なく。ただ、作るんです。その先に、誰かの『美味しい』があれば、それで充分」
声が止まった。私の声が。
頭が、痛い。心臓が、痛い。全身が痛い。
この感覚は、前世と同じだ。あの時も、こんな風に全身が痛かった。だから死んだ。だから異世界に転生した。だから、ここにいる。
フェリクス殿下は、何も言わなかった。
ただ、隣に座った。何も言わずに。何も求めずに。その存在だけで、完全さを示した。隣に座ってくれるだけで、この世界は色を取り戻す。
「学園の外に、場所を作ろう」
呟くような声で、彼は言った。琥珀色の瞳は、もう私を見つめていない。窓の向こう、暗い夜を見ている。
「規則の外で料理を作る方法は、まだある。僕の国には、食文化交流という名目がある。これを使おう。君のための名目として」
「あなたが……国家プロジェクトを」
「ああ。君のために。君が必要だから」
その言葉が、生きている実感をくれた。
会社という檻から逃げて、この世界に来た。その時点で、私は『新しい人生』を得たと思っていた。だが、違った。真の新しい人生は、ここから始まるのだ。
「本当に……ありがとうございます」
言葉が、出た。涙が、出ないように。けれど、喉が詰まっている。感謝と、驚愕と、何かが混在している。
「ありがとうなんていらない」
フェリクス殿下が言った。
「ただ、生きろ。君らしく。君のペースで。誰の指示も、誰の指図も受けずに」
その命令が、最高の贈り物だった。
新しい前世が、始まろうとしていた。




