第1話 本日をもちまして、退職いたします
「——以上が、婚約者リゼット・ヴァルムの罪状である」
アルヴィン殿下の声が、大広間の高い天井に反響して消えた。
罪状。へえ、罪状ですか。
前世の会社で始末書を書かされた時のほうがまだ具体的だったな、と思う。内容が薄い。証拠もない。パワーポイントなら三枚で足りる程度の情報量に、大広間を一つ使うとは。さすが王族。スケール感だけは一人前だ。
第一王子アルヴィン・フォン・ヴァイスベルクは、壇上で金髪を揺らしながら「正義」の顔をしている。碧い目に迷いはない。この人はいつだってそうだ。自分が正しいと信じて疑わない。隣にはミランダ・セルヴァーニ嬢が、涙で頬を濡らして寄り添っていた。
(……あの涙、社交場では目薬なしで出せるって噂だったけど。本当だったんだ。器用な人)
大広間を埋め尽くした生徒たちの視線が私に集まっている。哀れみ。好奇心。少しだけの悪意。前世の退職日に部署の人たちが向けてきたのと同じ種類の目。あの時も思ったけど、人の不幸を見る目は万国共通——いや、異世界共通らしい。
「ミランダに対する度重なる嫌がらせ、学園の風紀を乱す振る舞い、そして婚約者としての責務の放棄——」
嫌がらせ、してません。風紀、乱してません。責務に至っては、むしろ私が一人で全部背負ってた。学園祭の進行表、来賓リストの作成、備品の発注、会場の装飾指示書——あれ全部、私が夜中の二時まで寮の自室で書いたものだ。
でも殿下はそれを知らない。
報告書に載るのはいつも「王太子殿下の側近チームの尽力により」の一文。功績は上に吸い上げられ、失敗だけが下に落ちてくる。
前世と、同じ構造。
「リゼット・ヴァルム。お前との婚約は本日をもって破棄する」
白い結婚だった。
三年間、触れられたことはない。名前を呼ばれたのは公式の場だけ。殿下の寮室を訪ねたのは書類の受け渡しの時だけで、お茶に誘われたことすらない。私は「婚約者」という肩書きのついた事務員だった。無給の。
前世で過労死した時も、こんな感じだったな。最後まで残業して、最後まで感謝されなくて、最後に食べたのはコンビニのカップスープだった。お湯を注いで三分。あの三分が、私の人生で一番長い休憩時間だった。
——でも。
今世の私には、退職届を出した後の解放感を知っている魂がある。
あの瞬間のことは忘れない。上司のデスクに白い封筒を置いた時、肩から何か——目に見えない重たいものが落ちた。あの軽さ。あの自由。
もう一度、味わえるなんて。
「殿下」
一歩前に出た。大広間が水を打ったように静まる。
数百の視線。壇上のアルヴィン殿下は、私が泣き崩れるか、命乞いをすると思っているのだろう。ミランダ嬢は勝ち誇った微笑みを隠しきれていない。
——残念でした。
「ありがとうございます」
満面の笑みだった。自分でもわかるくらい、晴れやかに笑っている。
「本日をもちまして——お役御免ということですね」
殿下の眉が跳ねた。ミランダ嬢の涙が止まった。大広間の空気が、一拍遅れてざわつく。
予想外の反応。泣き縋ると思っていたんでしょう?
(私、退職日に泣いたことは一度もないんですよ、殿下)
「白い結婚でしたから、慰謝料は最低額で結構です。退職金——もとい、手切れ金と思えば十分ですので。あ、婚約期間中の経費立替分は後日請求しますから、経理担当の方にお伝えいただけますか」
大広間がどよめいた。殿下の顔が強張っている。台本にない展開。
ミランダ嬢が小声で「泣くはず——」と口走ったのが聞こえた。見える位置で言うあたり、段取りの詰めが甘い。前世の上司のほうがまだ根回しが上手かった。
「それでは皆様、三年間お世話になりました。リゼット・ヴァルム、本日をもちまして退職——もとい、婚約を解消いたします」
くるりと背を向ける。大広間の重い扉を両手で押し開けた。
背後からアルヴィン殿下の声が追いかけてきた。「待て」だか「控えろ」だか——聞こえない。退職日に上司の引き留めを聞く社畜はいない。引き継ぎ資料は三年分、きっちりファイリングして寮の部屋に置いてある。読むかどうかは、あちらの問題だ。
◇
廊下を歩きながら、私は深く息を吐いた。
足が向かったのは、学園食堂だった。
広い食堂の片隅に、もう半年以上誰も使っていない調理台がある。以前は学園祭の模擬店で使われていたらしいが、今は埃をかぶっている。水場は生きているし、竈も直せば使えそうだ。
前世で過労死する直前まで勤めていたのは、食品メーカーの商品開発部。新しい味を作ることだけが、あの灰色の日々の中で唯一、胸が温かくなる仕事だった。
もう誰かの評価のために頑張らない。今度こそ。
今度は、私が食べたいものを、私のために作る。
調理台の埃を手のひらで払った。袖が汚れたけど、構わない。
木の板を一枚見つけて、墨で文字を書く。前世のブラックユーモアを、異世界の看板に。
——社畜亭、本日開店。
営業時間は放課後から日没まで。残業は前世で懲りました。利益は求めません。食材費の実費だけいただきます。やりがい搾取はもう結構。
看板を調理台の脇に立てかけた時、ふと視線を感じた。
食堂の入口に、人影。
銀灰色の髪。見覚えのない制服——この学園のものではない、深い紺色の詰襟。琥珀色の目が、私の手書きの看板をじっと見ている。
留学生だろうか。この学園には時々、隣国アシェンバッハ王国からの視察生が来ると聞いたことがある。
「……『社畜亭』?」
その人は、首を少し傾げて看板の文字を読み上げた。低い声。抑揚が少ないのに、不思議と耳に残る。
私は営業用の笑顔を作った。前世で身につけた接客業の顔。
「いらっしゃいませ。——まだ準備中なんですけど」
銀灰色の髪の人は、看板から視線を上げて私を見た。
何を考えているのか読めない。表情が乏しい人だった。
でも、琥珀色の目の奥に、ほんの少しだけ——好奇心のようなものが光った気がした。
明日から、ここで料理を作ろう。
誰のためでもなく。誰の評価も気にせず。私の手で、私が食べたい味を。
竈に火を入れてみた。古いけど、ちゃんと燃える。炎の色が安定するまでしばらく見つめていたら、食堂にほんのり温かい空気が広がった。
これでいい。この温かさだけあれば、今の私には十分だ。
この異世界で、定時退勤と美味しいごはんの素晴らしさを布教してやる。前世でできなかった分まで。




