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挨拶しただけで「結婚の約束」をした覚えはないのですが。 ~予備校の同級生からの「善意の指導」が、どう見ても狂気だった件~  作者: 品川太朗


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9/10

第9話「何事もなかったように」

彼の席は空席になり、すぐにまた別の誰かで埋まりました。 世界は何事もなかったかのように、淡々と回り続けます。


 翌日、予備校の教室に入った私は、無意識のうちに「あの席」を目で追っていた。


 左列の後ろから三番目。

 そこは、空席だった。


 机の上には何もなく、椅子の背もたれが少し斜めに向いているだけ。

 私は大きく息を吐き、自分の席についた。


 誰も彼がいないことを気にしていない。講師が教室に入ってきても、出席を取るわけでもなく、淡々と現代文の講義が始まった。


 さらに三日が過ぎた頃だった。


 教室に入ると、あの席に知らない男子学生が座っていた。

 パーカーを着て、マスクをした、どこにでもいるような浪人生。彼は貧乏ゆすりをしながら、スマホをいじっていた。


(……ああ)


 私は立ち尽くしそうになるのをこらえて、自分の席へ向かった。


 入れ替わったのだ。

 神谷リョウという人間が座っていた場所は、ただの「空きスペース」となり、すぐに新しい誰かがそこを埋めた。


 予備校というシステムにとって、生徒一人が消えることなど、コピー用紙が一枚詰まる程度の些事なのだ。


「ユイ、今日こそお昼、外に食べに行かない?」


 昼休み、ミオが明るい声で話しかけてきた。


「うん……そうだね。行こうか」


「やった! 駅前の新しいパスタ屋さんがさー」


 ミオは何も知らない。

 私がこの一週間、どんな恐怖と戦っていたのか。そして、クラスメイトの一人が、山奥の農家に隔離された事実も。


 彼女が知っているのは、「最近のユイはちょっと元気がない」ということだけだ。


 そして、それでいいと思った。

 真実を知っているのは、私と、彼の両親だけでいい。


 その夜。

 いつものように机に向かい、いつものように十一時を迎えた。


 机の上のスマホは、沈黙を守っている。

 画面を埋め尽くす長文も、服装の指定も、もう送られてこない。


 私はLINEの友達リストを開き、『神谷リョウ』のアカウントをタップした。

 アイコンは初期設定の人型のままだ。きっと、スマホを取り上げられる前に初期化されたか、あるいはアカウントごと削除されたのだろう。


『ブロックしますか?』


 確認画面で「はい」を押す。

 さらに「削除」を押す。


 画面から彼の名前が消えた。

 指先一つで完了する、あっけない幕切れ。


「……終わったんだ」


 部屋に自分の声が響く。


 警察も動かず、ニュースにもならず、誰にも騒がれることなく。

 社会の裏側でひっそりと処理された、「ストーカー未遂」の結末。


 私は参考書を開いた。

 英単語の羅列が目に入る。


 静かだ。

 あまりにも静かで、シャーペンの芯が折れる音さえ大きく聞こえる。


 私はその静寂の中に、言いようのない怖さを感じていた。

 平和とは、こんなにも薄氷の上に成り立っているものだったのか。


 隣の席の人が、明日も普通の人である保証なんてどこにもない。

 すれ違っただけの誰かが、脳内で私との結婚生活を始めているかもしれない。


 そんな「見えない地雷」が埋まった世界で、私はこれからも生きていかなければならない。


 でも。


 私は顔を上げた。

 今は、目の前の問題を解こう。

 彼が勝手に思い描いた「将来」ではなく、私が自分で掴み取る「合格」のために。


 私は新しい芯を出し、カチリと音を立てて、白紙のノートにペンを走らせた。

お読みいただきありがとうございます。


アカウントを削除し、全てが終わりました。 けれど、「隣の席の人がまともな人間である保証はどこにもない」という事実に気づいてしまった主人公。


この警戒心は、ある意味で彼女が大人になるための通過儀礼だったのかもしれません。


次話、最終回です。 家族との対話、そして彼女なりの決着を描きます。

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