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挨拶しただけで「結婚の約束」をした覚えはないのですが。 ~予備校の同級生からの「善意の指導」が、どう見ても狂気だった件~  作者: 品川太朗


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5/10

第5話「噛み合わない世界」

話が通じない恐怖から逃げ出した先で待っていたのは、 より具体的で、逃げ場のない「管理」の始まりでした。

 会計を済ませたかどうかも覚えていない。

 私は喫茶店を飛び出し、駅までの道を走った。


 呼吸が荒い。心臓が早鐘を打っている。

 後ろから追いかけてきていないか、何度も振り返りながら、私は改札を抜け、ホームへと滑り込んだ。


「……はあ、はあ、っ……」


 電車に揺られながら、吐き気をこらえる。

 さっき触れられそうになった手の甲が、火傷したように熱い。


 消しゴム。契約。妻としての義務。

 断片的な単語が脳内を駆け巡り、そのたびに寒気がした。


 あいつは狂っている。

 話が通じないなんてレベルじゃない。見ている世界、生きていることわりが根本から違うのだ。


 家に帰り着くと、私は逃げ込むように自室に入り、鍵をかけた。

 カーテンを閉め切り、ベッドの上で膝を抱える。


 スマホの電源を切りたかった。でも、もし何か脅迫めいたことが送られてきていたら? それを無視したら、明日予備校で何をされるか分からない。

 確認しなければという強迫観念が、私にスマホを握りしめさせていた。


 そして、夜。

 通知音は、まるで時報のように正確に鳴った。


『どうして逃げたんですか?』


 怒っているのだろうか。

 恐る恐る画面を見る。


『まあ、仕方ありませんね。突然のことでパニックになったのでしょう。君は精神的に未熟で、キャパシティが少ない。今日の逃走は、その証明です』


 怒っていなかった。

 むしろ、「あきれ」と「憐れみ」を含んだような文面が、余計に神経を逆撫でする。


『やはり、今の君には「管理」が必要です。

 自分で判断させると、今日のように間違った行動(逃走)をとってしまう。

 だからこれからは、僕が君の生活をデザインします』


 デザイン?

 嫌な予感がした。


 次の瞬間、画像ファイルが送られてきた。

 それは、通販サイトのスクリーンショットだった。


 清楚な白のブラウスに、膝下丈の紺色のスカート。

 さらに、カーディガンの色、靴下の長さまで指定されている。


『明日の予備校には、このコーディネートで来てください』


『君が持っている服の中で、これに一番近い組み合わせを指定します。

 上は先週の水曜日に着ていた白いシャツ。下は入学式の時のスーツのスカートで代用可能です』


 悲鳴が出そうになった。

 私が持っている服を把握している。

 いつ、何を着ていたかまで、全部記録されているんだ。


『髪は結ばずに下ろしてください。その方が知的で、僕の好みです』


『朝食はパンではなく、和食にすること。炭水化物の摂取量が――』


 次々と送られてくる「指示」。

 そこにはもう、私の意思が入り込む隙間なんて1ミリもなかった。


 彼は私を、着せ替え人形かペットか何かだと思っている。

 愛しているから管理する。大切だから縛り付ける。

 その完璧な論理の檻の中に、私は閉じ込められようとしていた。


「……う、うぅ……」


 涙が滲む。

 怖い。気持ち悪い。助けて。

 誰か、この言葉の通じない宇宙人を追い払って。


 私は震える指で検索窓を開いた。


 認めたくなかった言葉。

 自分とは無縁だと思っていた言葉。


 ――『ストーカー 対策』


 検索結果に並ぶ、警察への相談窓口、弁護士事務所の広告。

 画面の向こうの無機質な情報は、今の私にはあまりにも遠い世界のことに思えた。


 明日の朝、教室に行けば彼がいる。

 私が指定された服を着ているかどうか、あの笑顔でチェックするために。

お読みいただきありがとうございます。


自分のクローゼットの中身を、他人が把握している。 その気持ち悪さと、それを「愛ゆえの管理」と信じて疑わない狂気。


さて、迎えた翌朝。 教室に向かった主人公を待っていたのは、彼ではありませんでした。


次回、物語は急展開を迎えます。 ラスボス……いえ、彼の母親の登場です。

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