名もなき語り手
アイソロンの神殿広場では、週に一度「信仰の座」が開かれる。 誰でも神像の前で語ることができる——神への理解や経験を。 それは万族共存の象徴であり、信仰の自由を示す舞台だった。
その日、雪誠はキティの神像の前に立っていた。 灰色のマントを纏い、顔を伏せていた。 胸の契約印は衣の襟に隠され、誰も彼が契約者だとは知らなかった。
「あなたは誰の信徒か?」 神殿の衛兵が低く問う。
「ただ……話したい者です。」 雪誠は答えた。
衛兵は彼を一瞥し、通した。
雪誠は石の壇に立ち、数十人の聴衆を前にした。 人間、エルフ、ドワーフ、ドラゴン族、獣人——その目は好奇、冷淡、警戒に満ちていた。
彼は深く息を吸い、語り始めた。
「僕は神職者でも、勇者でもない。 聖印も、神の召しも持っていない。」
ざわめきが広がる。
「でも、僕はキティを信じている。 選ばれたからではなく、僕が選んだからだ。」
彼は神像を見つめ、穏やかに続けた。
「キティは高みから裁くだけの神じゃない。 強者だけを見守る神でもない。 諦めそうな時、そっと寄り添ってくれる存在なんだ。」
一人のドワーフが眉をひそめた。 「どうしてわかる?見たことがあるのか?」
雪誠は首を振った。 「見たことはない。 でも、痕跡は見た。 孤独の中でも信じようと思えた時。 痛みの中でも誰かを傷つけなかった時。 誤解されても、守りたいと思った時。」
彼は一息つき、聴衆を見渡した。
「それは僕が偉いからじゃない。 ただ、信じているからだ。 ——光とは、世界を照らすものではなく、歩こうとする者を照らすものだ。」
人々は静かになった。
一人のドラゴン族が低く尋ねた。 「あなたは誰だ?」
雪誠は微笑み、顔を伏せた。
「名もなき旅人。罪人でもある。」
彼は何も弁明せず、何も説明せず。 ただ壇を降り、人々の中へと消えていった。
誰も彼が契約者だとは知らなかった。 誰も彼が魔王と契約を結んだことを知らなかった。
だがその日、彼の言葉を覚えた者がいた。 それは、彼の肩書ではなく——彼の信仰だった。




