魔王の使者
夜が明け始め、霧はまだ森を覆っていた。 林の空気は湿り気を帯び、遠くで鳥の鳴き声が途切れ途切れに響く。
雪誠は早く目を覚まし、渓流のほとりで顔を洗っていた。 その動きは静かで、まるで何かを驚かせまいとしているようだった。
テントの中から、微かな寝返りの音が聞こえる。 リーヴが目を覚ました。
彼女は外套を羽織ってテントから出てきた。 髪は少し乱れていたが、雪誠を見ると、言葉はなく、ただ軽く頷いた。
雪誠は彼女に温かい水を差し出す。 彼女はそれを受け取り、一口飲んでから、遠くの山稜を見つめた。
「今日は、あの山を越えるの?」 彼女は尋ねた。
雪誠は頷いた。 「君が準備できているなら。」
リーヴは答えず、腰帯を締め直し、荷物の整理を始めた。
陽光が少しずつ差し込み、彼らの肩を照らす。 余計な言葉はなく、昨夜のことも蒸し返されなかった。
だが雪誠は知っていた。 ——言うべきことは、すでに言った。 答えは、翻訳される必要はない。
—
彼らは山稜を進み、三つの丘を越え、焦げた林地を抜ける。 空気に異様な匂いが混じり始めた。 腐敗ではない。 それは、濃密な魔気だった。
リーヴは足を止め、眉をひそめた。 「ここ……何かがおかしい。」
雪誠は前方を見つめる。 地形が歪み始め、岩は焼け焦げたように変形し、空気には低い唸りが混じっていた。
「魔王の領域に入った。」 リーヴは低く言った。
雪誠は武器を握りしめ、警戒の眼差しを向ける。 「確かか?」
リーヴは頷いた。 「この地脈は魔王の心臓部。もう境界の中よ。」
彼らが引き返そうとしたその時、遠くから足音と叫び声が響いた。
破れた鎧を纏った数人の勇者が、黒岩の谷から転げるように現れた。 その顔には恐怖と疲労が刻まれていた。
「退け!あれはまだ後ろにいる!」 一人が叫ぶ。
雪誠とリーヴは素早く側林に身を隠し、彼らを観察する。
彼らの胸には王国の勇者団の紋章。 だが今の彼らは、信仰を打ち砕かれた者たち。 剣すら、まともに握れていなかった。
突然、一人の勇者が足を止め、雪誠に目を留めた。
彼は一瞬固まり、そしてその瞳が変わった。 恐怖、怒り、嫌悪——すべてが混ざり合っていた。
「奴だ!」 彼は震える声で叫んだ。 「魔王の使徒!」
他の者たちも足を止め、雪誠に視線を向ける。 剣を抜く者、後退する者、呪いの言葉を吐く者。
「なぜここにいる?俺たちを連れ戻しに来たのか?それとも、死体を拾いに?」
雪誠は動かず、静かに立っていた。 リーヴは彼を見つめ、瞳がわずかに揺れた。
勇者エレイスが雪誠に駆け寄り、衣を掴んで怒鳴る。
「この化け物め!よくも人前に姿を現せたな!」
雪誠は抵抗せず、低く答えた。 「俺は、君たちの敵じゃない。」
「人類を裏切ったくせに!魔王と契約したくせに!忘れたと思うなよ!」
リーヴがついに口を開いた。 その声は冷たく、鋭かった。
「彼を離して。」
エレイスは彼女を見て、嘲るように言った。 「お前も、奴の仲間か?」
彼女は答えず、一歩近づいた。 その瞳は揺るぎなかった。
エレイスは歯を食いしばり、ついに手を離し、雪誠を突き飛ばした。
「死にたいなら勝手にしろ。だが、警告はしたぞ。」
彼は背を向けようとしたが、足を止め、剣を抜いた。
「いや、やはり——生かしてはおけない。」
彼は振り返り、剣を雪誠に向けて叫ぶ。
「魔王の使徒——王国の名において、貴様に挑む!」
他の勇者たちは驚きつつも、誰も止めなかった。 彼らは後ろに立ち、黙認し、あるいは期待していた。
雪誠は動かない。 リーヴは一歩横に出て、警戒の姿勢を取る。
「戦う必要はない。」 彼女は低く言った。
だが雪誠は、ゆっくりと剣の柄に手を伸ばした。
「俺は、魔王のために戦うわけじゃない。」 「だが——逃げるつもりもない。」
エレイスは咆哮し、剣を振りかざして突進した。




