Ghra’khan・Zuur’vel・Raa’thar!
朝霧がまだ晴れぬ頃、 キャンプはまるで封じられた井戸のように静かだった。 雪誠は焚き火のそばに立ち、手には魔語の巻物。 だが、一言も声にできなかった。
彼は遠くの石段に座るリーヴを見つけた。 彼女は背を向けていた。 その肩はもう震えていなかった。 だが、近づいてもこなかった。
雪誠は静かに歩み寄る。 まるで何かを驚かせないように。
「リーヴ。」 彼は低く呼びかけた。
彼女は振り向かなかった。
「ごめん。」 彼は言った。 「隠すつもりはなかった。ただ……君が気にするとは思わなかった。」
リーヴは突然振り返った。 その瞳は、火が灯ったように鋭かった。
「気にしないと思った?」 彼女は立ち上がり、声が震える。 「毎晩、別の女性に会いに行くあなたを? 彼女には微笑み、私には沈黙。 それを気にしないと?」
雪誠は言葉を失った。 まるで初めて、その言語を聞いたかのように。
「思わなかったんじゃない。 最初から、私のことを心に置いてなかったのよ。」
彼女の声は大きくなかった。 だが、その一言一言が、彼の胸に打ちつけられた。
「謝ってほしいんじゃない。 見てほしいの。私を。」
彼女の目は赤く潤んでいた。 だが、涙はこぼれなかった。
「ずっと隣にいた。 一緒に歩いて、一緒に信じて、一緒に聞いてきた。 なのに、あなたは—— 一番本当の瞬間に、私を外した。」
彼女は背を向け、足取りは揺るぎなかった。
雪誠はその場に立ち尽くした。 まるで、何かに打ち付けられたように。
彼はようやく理解した。 言葉とは、魔語だけではない。 彼女がずっと使っていた「沈黙」もまた、言語だった。
そして彼は—— それを、まだ理解できていなかった。
—
夜が降り、森は静まり返る。 焚き火のそばで、雪誠は地面にしゃがみ、 いつになく丁寧な手つきで動いていた。
彼はもうキャンプを離れなかった。 赤虎のことも、口にしなかった。 ただ、静かに——夕食を作っていた。
乾パンでも、焼いただけの肉でもない。 彼は荷物から、ずっと隠していた香辛料の包みを取り出し、 村で手に入れた小さなソース瓶も添えた。
野菜を洗い、細く刻み、山の水で煮込む。 野兎の肉を丁寧に処理し、塩と香草で味付けし、 弱火でじっくり焼いた。
空気に漂う香りは、戦場の煙ではなかった。 それは——家の匂いだった。
彼は料理が得意ではない。 指を切り、火加減も不安定。 それでも、何度も何度も繰り返した。
任務のためでも、償いのためでもない。 ただ、彼女に伝えたかった。 「君を、大切に思っている」と。
すべてが整ったとき、 彼は石板の上に料理を並べ、 清潔な布を敷いて、食卓に見立てた。
焚き火のそばに座り、遠くの影を見つめながら、 静かに言った。
「リーヴ、食べて。」
彼女はすぐには答えなかった。 だが、聞こえていた。
彼女は少し離れた場所に立ち、 その簡素で、しかし心のこもった食事を見つめた。 彼の手の包帯、皺の寄った眉、疲れた瞳—— すべてが、彼の誠意だった。
彼女は近づかず、ただ低く言った。
「これで全部、許されると思ってる?」
雪誠は顔を上げ、静かに、しかし真剣に答えた。
「わからない。 でも、何かしたかった。 せめて——君に、温かい食事を。」
リーヴは唇を噛み、しばらく黙っていた。 そして、歩み寄り、黙って座った。
雪誠は彼女にスープを差し出す。 指が触れた瞬間、わずかに震えた。
彼女は受け取り、彼を見ずに、口をつけた。
「……しょっぱい。」 彼女は言った。
雪誠は頷いた。 「次は気をつける。」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。 だが、席を立つこともなかった。
—
火が揺れ、食事は冷めていた。 雪誠は彼女を見つめ、胸が高鳴る。
彼は立ち上がり、ついに勇気を振り絞った。 喉の奥から、荒々しく、しかし真摯な声が響く。
「Ghra’khan・Zuur’vel・Raa’thar!」 (——君を、愛してる)
リーヴは驚き、彼を見上げた。
彼女は、その言葉を教えたことがなかった。
雪誠は低く、言葉を添えた。
「彼女に会いに行ったのは—— この言葉を、学ぶためだった。」
リーヴは言葉を失い、瞳が揺れた。 何も言わず、ただ俯き、 静かに——涙をこぼした。
—
その瞬間、言葉は障壁ではなくなった。 説明でもなくなった。
その言葉は、彼女に届いた。 そして、彼女は——感じ取った。




