彼女は知らなかった
夜、雪誠は廃れた神殿の石段に座っていた。 膝の上には、黄ばみかけた魔語の巻物。 彼は爪痕のように曲がった符文を一筆一筆なぞりながら、低く発音を真似していた。
「違うわ。」 リーヴは彼の隣に座り、そっと指先を彼の手に添えた。 筆の動きを別の方向へ導きながら言った。 「この音節は舌先じゃなくて、喉から出すの。」
雪誠は言われた通りに試す。 声はかすれていて、ぎこちない。 彼は眉をひそめ、もう一度やり直した。
「無理しなくていいのよ。」 リーヴは優しく言った。 「これは、あなたが背負うべきことじゃない。」
雪誠は首を振り、筆を止めなかった。 「君はずっと、僕の代わりに話してくれてた。 説明してくれてた。魔獣の怒りを鎮めてくれてた……」
彼は言葉を止め、彼女の掌の古傷に目を落とした。
「君に、全部を背負わせたくない。」
リーヴは言葉を失った。
「もし僕が魔語を少しでも話せるようになれば——」 彼は静かに言った。 「次は、僕が先に声をかけられるかもしれない。」
彼女は彼を見つめた。 その瞳が、ほんの少し光を宿した。 彼女は「ありがとう」とは言わなかった。 ただ、次のページを開き、一行の符文を指差した。
「この言葉は、『私はここにいる』って意味。」
雪誠は頷き、繰り返した。 発音はまだ完璧ではなかったが、声は軽く、そして誠実だった。
その夜、彼は初めて魔語で一つの文を話した。 「私はここにいる。」
遠くで咆哮していた魔獣が、静かになった。 まるで、久しぶりに返された言葉を聞いたかのように。
—
三日後、雪誠には新しい習慣ができた。 夜が更けると、彼は静かにキャンプを離れた。 「地形の巡回だ」と言って。 リーヴは何も聞かなかった。 彼の沈黙にも、説明のなさにも慣れていた。
三日目の夜、彼女はこっそり後をつけた。 雪誠の足取りは軽く、何かを驚かせないようにしていた。 彼は林を抜け、隠された洞窟へと向かった。
そこには、一匹の魔獣が住んでいた。 赤い虎。 その毛並みは燃える炎のようで、瞳は琥珀色。 人間のような理性と悲しみを宿していた。 彼女の声は低く、しかし明瞭で、人間の言葉を話すことができた。
リーヴは木の陰から見ていた。 雪誠は彼女の近くに座り、穏やかな表情で微笑んでいた。 彼は彼女の話を聞き、時折返事をし、時折何かを記録していた。 それは任務でも、巡回でもなかった。 それは——親密さだった。
リーヴの胸が締め付けられた。 彼が魔語を学んでいることは知らなかった。 ただ、彼が三夜連続で、別の女性の魔獣と過ごしていたことだけを知っていた。
—
翌朝、雪誠がキャンプに戻ると、リーヴは焚き火の前に座っていた。 その瞳は冷たかった。
「昨夜、どこに行ってたの?」 彼女の声は静かだったが、棘を含んでいた。
雪誠は少し間を置き、低く答えた。 「……何でもない。」
「何でもない?」 リーヴは目を上げ、彼を見つめた。 「毎晩『巡回』って言うけど、私を連れて行ったことは一度もない。」
雪誠は沈黙し、視線を逸らした。
「後をつけたの。」 彼女は低く、しかしはっきりと言った。 「あなたと彼女——あの魔獣。彼女は女性。 あなたは真剣に聞いてた。笑ってた。」
雪誠は歯を食いしばり、何も言わなかった。
リーヴの瞳が揺れた。 疑念は確信に変わった。 彼は沈黙を選び、彼女ではなく、あの魔獣を選んだ。
彼女の指先が震えた。 何かを抑え込むように。
「答えないのは、私が怒るってわかってるからでしょ?」 彼女の声は低く、しかし鋭かった。
「私はずっと、あなたの隣にいた。 一緒に歩いて、一緒に信じて、一緒に聞いてきた。 なのに、あなたは彼女を選んだ—— 三日前に出会った魔獣を。」
彼女は唇を噛み、冷静さを保とうとした。 だが、涙はこぼれ落ちた。
「彼女に会いに行くのは止めない。 でも、私に隠したこと——それが、私を壊したの。」
その声は、もはや責めではなかった。 それは、壊れかけた失望だった。
「私は……私たちは並んでいると思ってた。」 彼女は一歩後ろに下がった。 それ以上近づけば、壊れてしまいそうだった。
「でも、あなたは一度も、私を本当に近づけてくれなかった。」
彼女は背を向け、肩が震えた。 それは寒さではなく—— 彼女がようやく認めたから。 彼を、思っていた以上に大切にしていたことを。
雪誠は手を伸ばした。 だが、彼女には届かなかった。 何を言えばいいのかも、どう償えばいいのかもわからなかった。
ただ一つだけ、彼は理解した。 その瞬間、彼は——彼女の信頼を失ったのだ。
—
その夜、彼は洞窟へ行かなかった。 巻物は膝の上にあったが、何一つ読めなかった。
彼はようやく気づいた。 言葉とは、魔語だけではない。 彼女がずっと使っていた「沈黙」もまた、言語だった。
そして彼は—— それを、理解できていなかった。




