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序幕~必ず殺してくる男①~

2025/09/04 加筆修正しました。

2025/09/06 一部内容を変更しました。全体の流れに変更はありません。

「私はな、お前が心底憎くて仕方なかったんだよ」

「旦那……様……」

「黙れ。お前にそう呼ばれると、虫唾が走る」


 ベッドで寝たきりの少女―ウルスラ・ヴィンディクタ―を見下ろす、旦那様と呼ばれた男―モートン・ラトロ―の瞳はどこまでも冷たい。


 夫であり婿のはずのモートンは、妻であるウルスラの死を願っていた。


 夫の冷たい言葉に、ウルスラの心はピシリと嫌な音を立て始め、崩れ始めていく。


 1年ほど前から病床に伏し、ベッドから一歩も動けないほどに弱ったウルスラ。かつてはゆるくウェーブがかった美しい水色の髪も、すっかり色艶を失ってくすんでしまっている。エメラルドのようだと言われた碧の瞳も、濁っている上にまぶたがほとんど開かず見ることができない。


 全身が傷み、筋肉がどれもまともに動かず、心臓だけが今にも止まりそうなほどにか細く動いているだけ。部屋にはウルスラの細い呼吸音だけが響いている。


 どうして自分がこんな目に合うのか、まるで分からなかった。幸せになるはずの結婚生活をずっとベッドで過ごすことになってしまった悔しさ、罪悪感、そして寂しさ。


 それでもいつか治るはずだと懸命にもがき、生き抜いてきたのに、今その意思の炎は消えようとしている。


 ウルスラが生まれた国、アデュナティオ国は小国ながらバランスの取れた国だ。

 農業、畜産業、鉱石産業、漁業がいずれも盛んで、国の産業は非常に安定しており、それゆえに他国から狙われやすい。


 近隣諸国とのいさかいは絶えることなく、貿易と交渉でかろうじて侵略を免れている。


 しかしここ数年は交渉がうまくいき、続々と同盟を結ぶことに成功。侵略という驚異から国を守った現国王は「賢王」と称され、国民に支持されている。


 そのなかでヴィンディクタ家は侯爵位をもち、王国に長く仕えている。王都から少し離れたところに領地をもち、経営は安定していた。


 当主でありウルスラの父でもあるヴィンディクタ侯爵は王宮に出仕し、内務大臣を務めている。温厚な性格で、王宮内の軋轢を見事に緩和し、国王の政治運営に欠かせない人物として高い評価を得ていた。


 ヴィンディクタ家は王都の一等地に屋敷を構え、かなりの規模の庭園を誇っている。複数の庭師によって整えられた庭園は、丁寧に刈り取られた芝生と花壇のコントラストが美しい。3階建ての屋敷は白亜の壁で覆われており、ツタの一本もないほどに見事に整えられていた。ヴィンディクタ家の威勢を誇るかのような見事な屋敷は、貴族たちの中でも憧れの的だ。


 その屋敷に家族3人が住み、大勢の使用人が働いている。


 ウルスラの母である侯爵夫人は仕事で疲弊した夫を支え、労っている。


 結婚前には社交界の華として見合いの申し込みが後を絶たなかったらしい。だが、当人は独身だった父を並み居るライバルを出し抜いてあっという間に骨抜きにし、結婚をもぎ取った強かな女性だ。


 その一人娘であり、侯爵令嬢であるウルスラは父に負けず劣らずの温厚な性格の持ち主で、両親のたっぷりな愛の中で人を疑うことを知らずに育っていった。


 一方モートンの生まれたラトロ家は、伯爵位をもち、代々優秀な騎士を輩出する家として知られている。彼には二人の兄がおり、いずれも騎士だ。モートンも2年前に騎士になっている。王都に隣接した小さい領地を持ち、騎士としての訓練場となっていた。


 ウルスラとモートンの出会いは10歳のころの茶会だ。


 季節の花々が入り乱れる庭園で行われた茶会には、たくさんの令息令嬢が将来の伴侶を求めて参加していた。ウルスラもその一人だったが、ウェーブがかった髪をからかう令息たちがおり、それをモートンが諫めたのがきっかけだ。


 そこでモートンがウルスラに一目ぼれし、ウルスラは助けられた恩と、モートンの美しい容姿に惹かれて婚約した。


 自分を助けてくれた美しいヒーローとの婚約。からかわれた髪を美しいと褒めてくれたこと。そのことはウルスラを幸せへの絶頂へと導いた。


(あの頃が……一番幸せだったわ……)


 だが、モートンと婚約してからウルスラの周囲では不幸が頻発。


 12歳の頃にはなぜか友人から茶会に誘われなくなり、また茶会に誘っても断られるようになった。


 14歳の頃には両親と執事長が亡くなり、天涯孤独の身となった。


 16歳になり、モートンと結婚したことで孤独じゃなくなる。そう思っていたのに、突然体調が優れなくなり、ベッドから起き上がれなくなった。


 そして17歳になり、いよいよ命が風前の灯火となったとき、モートンはこれまでの姿が幻であると言わんばかりに、暴露を始めたのだ。


 この寝室にはウルスラとモートンの二人だけ。使用人の姿も無い。


 寝たきりが続いた寝室は、すっかり落ち込んでしまっている。空気はよどみ、部屋の一部にはホコリが被り始めていた。助かる見込みのないウルスラの世話など御免だとばかりに、使用人たちはなかなかこの部屋に立ち入ろうとしない。


 しょっちゅう出入りするのは夫であるモートンくらい。今の状況は、はたから見れば助からない妻を前に、二人きりで最期を看取りたい夫のように見える。


 だが真実は、死にかけの女に嬉々として残酷な真実で追い打ちをかける、残忍な男がいるだけだ。


「冥土の土産に全て教えてやろう。お前が友人から拒絶されて孤立するようになったのにも、貴様の両親と執事長が殺されたのも、全て俺が仕向けた。お前が死ぬのは病気じゃない。俺がお前の食事に毒を混ぜるよう手配したからだ。医者が匙を投げたと思ったか?医者は俺の手のものだ。やつは正しく診断した。お前の症状が病気であって毒じゃないという、俺の希望通りにな」

「う……そ……」


(聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない………何で…どうして?あんなに私のためにと、頑張ってくれてたのに…)


 ウルスラにとって、モートンは唯一無二の存在だった。


 茶会で令息たちにいじめられていたのを助けてくれたモートンはヒーローだった。

 友人との連絡が途絶えたときも、彼だけが一緒にいてくれた。

 両親と執事長が亡くなったとき、彼だけが励まして家を支えてくれた。

 彼と結婚したとき、ウルスラは幸せの絶頂にいた。


 モートンはこの国で一番ではないかと思うほどの美丈夫で、いつも美しく金髪をきらめかせ、紅い瞳でウルスラを見つめてくれる。


 こんな美しい男性に見つめてもらえる自分は、間違いなく幸せ者だと思っていた。彼と一緒なら、どんなに辛いことでも乗り越えられると信じていたのに。


 そのすべてがまやかしだった。モートンが仕掛けた悪意を込めた善意。まるで砂糖に包まれた毒。

 それを世間知らずのウルスラは、全く疑いなく飲み込んだ。その結果がこれだ。


 もう聞きたくなかった。喋ってほしくない。


 彼の声を隣で聞くのはどんな素晴らしい音楽を聴くのにも勝ると思っていた。今ではもう、どんな不協和音を奏でる楽器よりも耳に届けたくない。


 さらにモートンは続ける。それはもう楽しそうな笑顔を浮かべながら、冷たい目でウルスラを見下したまま。


「ヴィンディクタ家は俺がもらい受ける。俺がもつにふさわしい家だからな。貴様が死んだ後は、俺の愛する女性がこの家を支える。ああそうだな…最期に彼女にも会わせてやろう」


 そう言うとモートンは部屋に置いてあった鈴を鳴らした。しばらくして扉が開ける音が響き、誰かが入ってくる。


 ウルスラは誰が入ってきたのか見るために、懸命に瞼に力を入れた。やっとの思いで開けた視界には、一人の女性の姿がある。


 女性は腰まで届くほどに長くてまっすぐな黒髪を持ち、黒い目をしていた。非常に整った容姿をしており、二人が並ぶ姿はお似合いのように思えた。


 …もう、自分が彼の隣には並ぶ価値などないことを示すかのように。それがさらにウルスラの心をえぐっていく。


「俺の愛する女性ユーリスだ。見ろ、貴様と違ってこの美しいなめらかな黒髪を。本当に美しい女性というのは、ユーリスのことを言うのだ。貴様のような縮れた髪など、醜くて仕方がない」

「初めまして、ウルスラ様。これからモートン様の妻にあるユーリスです。残念ですよ、ウルスラ様に私たちの晴れ姿を見ていただけなくて」


 モートンはユーリスを自分の隣に侍らせると、当然のように腰を抱いている。ユーリスもまた、モートンの肩に頭を乗せて愛している姿をアピールした。


 互いを見つめ合う二人は本当に幸せそうで、心の底からウルスラの死を願っていることが分かる。二人の姿と言葉に、ウルスラの悲しみはますます深くなっていった。


(嘘…うそ………うそだ…ひどい……ひどすぎる…。なんでそんなことができるの?この方は本当に、あのモートン様なの?)


 きっと彼は別人だ。


 そう思いたいのに、これまで長年婚約者として過ごしてきた歳月が、まぎれもなく本人だと訴えている。それがまたさらにウルスラの心を深く傷つける。


 モートンの追い打ちは止まらない。彼は見せつけるように、ユーリスの腹を撫でた。。


「見ろ、ユーリスの腹を。膨れているのがわかるか?ここにいるのは俺とユーリスの子どもだ。この子どもが、ヴィンディクタ家の正式な跡取りとなる」


 この男は、今堂々と浮気していたことを告白した。ウルスラがベッドで寝たきりのまま苦しい思いをしていたのに、外で女を作り、あげく孕ませていたというのだ。


 恐ろしいまでの仕打ちに、目の前にいる男が悪魔にしか見えない。こんなひどいことができる男が、悪魔以外にいようか、いるわけがない。


 もう、ウルスラの心は悲しみを通り越して絶望しかなかった。


(……夢……夢……そう、これは……夢、なのよ……。眠れば、きっと……こんな悪夢は覚めるはずよ)


 そんな現実逃避の願いしか出てこないほどに、ウルスラは体だけでなく心までも殺されようとしていた。


 早く、ただ一刻も早く眠りにつきたい。そのまま目覚めなくてもいい。こんな悪夢を見ていたくない。その一心で目を閉じた。


「本当はお前の心臓に剣を突き立て、俺自らの手でとどめをさしてやりたいが……ああ、いいなその表情。俺がもつべきものを奪ったお前にはその絶望に染まった表情こそがふさわしい。それが貴様への罰だ」


 モートンに裏切られた絶望で、ウルスラの顔はひどく歪んでいる。それすらも、今のモートンには愉悦の材料にしかならない。


 もうモートンの言葉を聞きたくなかった。だけど、耳を塞ぐ力すら今のウルスラには無い。


 それからもずっと、ウルスラの心臓が止まるまで、モートンのウルスラを罵倒する言葉は続いた。途切れなく続く罵倒に、ウルスラの瞳から涙は流れなかったが、心は泣き続けた。


 だが、希望は一つだけあった。


 もうこれ以上、辛い思いをしなくていいということ。死ねば、何もかもが終わる。苦しい体とも、崩れて灰になりそうな心も、そのすべてから解放されるのだ。


 それだけが、ウルスラに残された最後の希望。救済となりうる死の瞬間を、ウルスラはじっと待った。


(お父様……お母様……今、そちらにまいります)


 これでもう、自分は苦しまずに済む。そう、ウルスラは思っていた。



 ―――これが、本当の絶望の始まりだと知らずに。


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