7、なんたる不覚
「…………? いっ……!? ったぁ~……、え、なに?」
「あ、起きた」
デネッセの寝ぼけ眼は右肩に走った鈍い痛みで一気に覚醒した。見たことが無い天井だとか、少し硬めのベッドだとか、脇の椅子に座っているミルだとか、そういうのがどうでもよくなるくらいの痛み。
窓の外は暗く、夕方よりも、夜と呼ばれる時間になっている。空腹具合から考えて、大体八時くらいだろうか。この腹時計は以前、ちょっとした事故で二日ほど絶食せざるを得なくなった時になんとなく身に付いたものだ。あの時は時計の針が進むのが遅かった。
左手で右肩を擦るが、別に何か怪我をしているというわけでもないらしい。ただ少し、包帯できつめに固定されている。何が起きたのかいまいち把握できない。嗅覚から得た情報でここがどこだかはわかった。病院だ。
問題は、なぜさっきまで学園にいたはずの自分が病院のベッドで寝ているのかということ。
「……全然思い出せないんだけど、これ何があったの?」
「えっと、どこまで覚えてる? 二階の端で話してたとこまでは?」
「それは覚えてる。で、その後……、そう、あんたの肩掴もうとしたのよ。言い逃げしようとしたから。それで……、なんだっけ……」
「その掴もうとした手を横から掴まれたんだよ。ていうか、痛いの肩だけ? 膝とか大丈夫?」
「え? ああ、そういえば確かになんか膝も痛い。なんか全身痛い? なんで?」
「床に勢いよく叩きつけられたからね。まあ痣とかにはなってなかったし、骨も折れてない。丈夫な身体で良かったよ」
珍しく真剣な顔を浮かべている友人の言葉に、床? と一瞬首を傾げるが、次の瞬間、気絶する直前の記憶が一気に蘇る。そう、突然陰から出てきた何者かに右手首を掴まれて、そのまま魔法で廊下の床に押し付けられたのだ。しかしそこまで。
それ以上の記憶はデネッセの脳には残されていなかった。まあ、詳細に覚えているより精神的ダメージが軽く済むと思えば、忘れるのもそう悪いことばかりではない。ただやはり疑問は残る。なぜ自分は病院にいるのか。
「その肩、脱臼してたんだよ。だから私が病院まで連れてきたの。魔法で意識はしっかり深く沈めてたから、痛みで起きたりはしなかったでしょ?」
「…………脱臼。私の右肩が?」
「デネッセの右肩が」
肩ほどの高さで掴まれた腕は、深く沈んだ身体についていけず外れた。可動域の大幅な超過による肩関節脱臼である。直後に意識を失ったため必要以上の苦痛を覚えることはなかったが、それでも一度外れた関節に何の障害も残らない保証はない。
右肩に集中していたデネッセの視線がミルの方に向く。どうもさっきから親友らしからぬテンションだと思ってはいたが、病院だから騒げないだけ程度にしか考えていなかったのだ。甘かった。
座っていた親友の目は、据わっていた。感情の起伏が読み取れない少女の身体から立ち上る魔力は、紛れもなく怒りによって漏れ出ているもの。ミルが怒ったところというのは付き合いの長いデネッセでも一度しか見たことがないが、その時の記憶すら可愛く思える。
そしてその対象は間違いなく、あの時の腕の主だ。
「えっと……、だ、誰だったの? あの時の腕掴んできた奴……」
「第二王子。やりやがったよね。ほんと」
犯人が誰なのかを聞いたのは、その犯人が無事かどうかを知りたかったからなのだが、これは聞くべきではなかった。デネッセにそんな判断を事前に下せるわけもないのだけど、それでも、失敗したと思わざるを得ない。
無事に決まっているからだ。つまり怒りの理由はそこにある。ミルは第二王子に対して文句もろくに言えず、復讐の一つも出来ず、その場をやり過ごして病院に親友を運んだ。我慢したのだ。
欲望に奔放なミルが、ただ自分の感情を抑え込んだ。
「……なんで私腕掴まれたの?」
「本人的には、私に嫌がらせしようとしてた生徒を止めたつもりだったみたいだよ。ちゃんちゃらおかしいよね。自己満足と自己陶酔に浸った顕示欲の化け物っていうのは」
「ま、まあまあ、そんな怒んないで。可愛い顔が台無しだぞっ☆」
「…………」
「…………うぅ」
雰囲気を和ませるために普段なら絶対に言わないようなことを言ったのに、その後の空気はまさに地獄。気まずいとかそういう次元を通り越して、もはやこの部屋にいることで心身に何らかの変調をきたしそうだ。
もはや心の中でラトルに助けを求め始めたデネッセだが、ミルから湯気のように立ち上る魔力が徐々に収まっていくにつれて、親友からの言葉を待つ余裕が生まれた。
「……ごめん、私のせい。私があの野郎に近付きすぎた。失敗した」
「……まあ、そうね。それはちょっと否定できないから反省して」
あの時、第二王子の目には確かに恩着せがましさが見えた。それが腹立たしくて、そんな奴に親友の身体に振れていてほしくなくて、手を離せと言った。その手は離され、デネッセの右腕と、それに引っ張られて浮いていた右の上半身はそれなりの音を立てて床に打ち付けられた。
重力を考えれば当たり前の結果だ。目の前の男はそんなことを考慮もしない。助けた気になってそこで満足し終わって、冤罪だというのに謝罪もなにも言わない。加えて被害者の身体を丁寧に扱うこともしない。
(――殺してやろうか)
本気で考えた。校内に監視系の魔道具はない。たとえあってもミルならばどうとでも出来る。今ここで、この全てが煩わしいナルシストを殺し、全校生徒から感謝されてやろうか。
瞬間的な沸騰。ミルは自分に近しい人間を害した者に慈悲は持たない。
(……ラトルに迷惑が掛かるかも)
ミルは視野が狭い。非常に狭い。これはラトルからも以前注意されたことがあるのだが、物事というのは広く見ようと気を付けて見れる者ばかりではない。それも含めて、ミルのそれは非常に極端だった。
近しい者を大事にしているのにラトルに関しての評判を知らないのも、そこに原因がある。良くも悪くも他人に興味が無いのだ。他人からの評価も評判も一切合切どうでもいい。
だからラトルに寄り添えない。自分の言動が婚約者にどう思われているかを理解できていない。
もしミルが既に、ラトルの悪評の元凶が第二王子にあると知っていたら、彼はこの場に立っていることも、学園に通えているかも怪しい。
身体的にも、精神的にも、評判的にも。
それもあって、デネッセはラトルの噂をミルに教えることが出来ていない。何が起こるかわからないのが、怖すぎて。
デネッセが否定できないと言ったのは、ラトルのことを知った時のミルの行動を少しでも抑制できないかと考えてのことだが、もうすでに焼け石に水な気もするので、半分諦め気味でもある。
「……そういえば家の方には連絡してくれた?」
「もちろんしてるけど、どういう怪我かまでは言ってない。……それ、隠す? それとも全部正直に話す?」
「……隠すわ。これ以上、親に憐れまれるのも嫌だしね。うちでも口の堅い何人かだけにしか話さないから、あんたも黙っといて」
「わかった……。本当にごめん……」
怒りよりも、目の前の親友への申し訳なさでいっぱいになってしまったミルの顔色は暗い。ここまで落ち込んだ姿は希少で、なんだったらラトルに見せてやりたいくらいだった。
まあ、そうなると第二王子の仕業だというのを言わざるを得なくなり、余計にややこしいことになりそうなので絶対にありえない話だが。
ミルの精神力なら明日には元気になってるだろうと信じての呑気な思考だった。
「いいわよもう。あんたが悪いわけじゃないしね。あの男があんたにご執心だなんて皆知ってるし――」
「――みんな?」
あ、やば。ここで口を閉ざす方が不自然なのはわかっていたが、次の言葉が出てこない。フォローするような、弁解するような、打ち消せるようなことを言わなければならないのはわかっているが、喉からは空気が漏れるばかり。
高等部に進学してから今まで、どうにかこうにかこの話題を避けてきたのになんたる不覚。それもこれも全てあの馬鹿王子のせいだ。こんなことにならなければ口を滑らせることもなかったのに。
顔を逸らしてもこっちに目線が向いているのがわかってしまう。もはやただの引き延ばしだ。どれだけ目を合わせないようにしたって、大人しくミルが帰ることはないだろう。
数日中に第二王子が急逝するようなことがあれば、その共犯は自分だ。
「みんなって、ラトルも?」