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2、火を見るより

 シャッハトルテ家に執事として仕えて早二十年。クロノ・クイゼルは社交界から帰って来た当主の次男――ラトルの様子に困り果てていた。屋敷のメイドたちから、私たちではもはやどうにもできないという救援要請を受けてやって来た次男の部屋だが、なるほど、これは確かに。

 今までなんだかんだ、二か月に一回の社交界をくたびれながらも消耗しながらも乗り切ってきたラトルが、どうして今になってそんなことになってしまったのかと、実際に姿を見るまでは不思議で仕方がなかったが、事情を知る者が見れば一発でわかる。


 間違いなく、婚約者絡みで何かあったのだろう。


 つまりこれは非常にデリケートな問題であり、メイドたちが対応を投げてきたのも仕方ない。仕方ないとは思うのだが、よくもこんなに面倒臭い事案を押し付けてくれたものだなと若干の怒りは抑えきれない。


 クロノは、婚約者としての初めての顔合わせをした時からの二人をずっと見守り続けてきた。その見守りぶりと言えば当主に、お前の方があの二人のエピソード知ってね? と言われるほどであり、もはや実の親よりも親気分である。

 だからこそその二人が双方向から全く違う種類の拗らせ方をしているのも知っているし、それを解決するなど第三者には不可能だという結論はとっくにベリヤフラム家のメイドとの相談会合にて出ている。かれこれ三年前の話だ。


 懐かしさに現実逃避したいところだが、机の上の並べられた二十のカップ。そしてそれに注がれた徐々に薄くなりグラデーションを演出している冷めた紅茶をあらためて視認すると、これは想定よりも大分深刻なのかもしれないと考えざるを得ない。

 それを何を考えて注いだのかは想像すらできないが、その当人は椅子に腰かけてがっくりという擬音が似合う体勢で項垂れていた。まさしくこの世の終わりといった様子だが、自分が部屋に入ってきたことには気付いているのだろうか。


「……ラトル坊ちゃん、起きてらっしゃいますか?」


「……ああ、クロノさんか。起きてる、起きてるよ……」


 ラトルが使用人にさんを付けるのは昔からだ。昔から、人一倍劣等感の強い子供だった。敬語だけはどうにか止めさせたのが十一歳の頃の話だ。本来なら、立場上呼び捨てにしなければ示しがつかないのだけれど、こればかりは何度言っても直らないのでいつしか諦めてしまった。

 起きているとは言いつつも、今にも倒れそうなほど憔悴している。なぜか会場から歩いて帰って来たというが、要はミルと一緒に帰ってきたくなかったのだろうとクロノはあたりを付けていた。そしてこの覇気の無さと合わせて、大きくは外れていないだろう。


 ラトルは全身に強引に力を入れながら、身体をクロノの方へと向ける。その顔にいつもの人当たりの良い笑みはなく、泣く寸前のように悲痛だ。それでも、片側の口角だけは上がっているのは、精一杯の誤魔化しか何かだろう。

 その強がりが余計に悲惨さを際立たせているが、下手にそれを突くのはやめておいた方がいいだろう。コップの水が溢れる切っ掛けなど、些細なもので十分なのだ。

 これは、会話の切り出し方を間違えるわけにはいかない。


「この紅茶は、誰が飲むんですか?」


「俺が自分で飲むから置いといて……」


 濃い紅茶から薄い紅茶へ。それを飲み続けるのがラトルの精神安定法だった。十三歳の頃に始まったそれは、正直言って奇行以外の何物でもないし、そう指摘したことも数知れずだ。今年に入ってから露骨に頻度が増えてはいたが、二十杯は記録を五杯も更新している。

 ストレスの可視化という点ではわかりやすいが、一回分の茶葉から限界まで搾り取られたそれは、終盤になるともはや透明に近い。お湯である。冷めているからすでに水だ。茶葉を通した水。もう意味がわからない。


「……また話相手もいない寂しい時間を過ごしたのですか?」


「それは前提だからあんまり気にしてない……」


 このちまちました話題の進行速度ではいつまで経っても本題にたどり着けそうにない。ミルと何かがあったのは確実なのだが、それに触れてほしいのか触れてほしくないのか。いや、触れてほしくないのだろう。

 両親にすら相談や愚痴ということをしたことがないというのは使用人の間では語り草だ。家族仲は良好なのに、次男とそれ以外の間に妙な壁を感じているのはクロノだけではない。

 話してくれるのを待っていたら、この次男は重大な決断だろうと勝手に一人で決めかねない危うさがある。


「ミル様と何かありましたか」


「……まあ、……いや、これは俺の気持ちの問題だから、あいつとなんかあったっていうのは正確じゃない……、と言えなくもない気がする……」


 面倒臭い言い回しをするようになったものだ。昔は何か隠したいことがあればただ黙るだけだったので、いっそわかりやすくすらあったものだが、迂遠な言葉選びを覚えると引っ込み思案はこうも自分の意思を伝えられなくなるものか。

 しかしどうしたものか。クロノはミルのことを知っているし、なんだったらミルに積極的にラトルの情報を流してすらいるので、喧嘩というのはなかなか考えにくい。もしそんなことになればミルはこの部屋に力づくで押し入り強引に仲直りを敢行するだろう。

 ミルからラトルへと向いている馬鹿みたいに巨大な矢印を、クロノははっきりと認識している。


「……? 手紙でも書いていたのですか?」


「え、あ、いや、これは」


 ラトルが何か誤魔化す言葉を絞り出そうとしている隙に、クロノは机の上に置いてある紙を素早く奪い取る。必死の形相で紙を取り戻そうとしてくるラトルを踊るかのように軽くあしらいながら、上からその紙に目を通そうとして。

 驚きのあまりクロノの足が一瞬止まり、それを見逃さずラトルが紙の逆側を両手で掴み奪取しようとする。滑りやすい紙の上下を掴んでいる両者は均衡し、睨み合いが始まる。


「どういうおつもりですか。こんなことを坊ちゃん一人で決断してしまっていいとでも?」


「とりあえず書いてただけで表に出るかどうかはまた別の話だからとりあえず離してくれる?」


「これを今すぐ燃やすと約束していただけない限りは、私のこの手が開かれることはあり得ません」


「引き出しに入れとくだけだよ。お守りみたいなもんだと思えば可愛いの範疇だろ?」


「書いている内容が可愛くない自覚がないようなので改めて申しましょう。可愛くないです」


「二回言う必要あったか? 紙が嫌な音を立て始めてるからそろそろ離すべきだと思うんだけど」


 そう言われてもクロノにだって譲れない一線というものがある。確かに今まで二人の関係に余計な口出しをせずに見守って来た。それはある種の信念であり矜持でもあった。しかしことがここまで進んだとなると話は別だ。力尽くでこの紙を破ることが今の最優先事項。

 できれば偶然の結果が望ましい。意図的に破るのではなく、引っ張り合っていたら紙の耐久が限界を迎え破れたという言い訳。いや、そんなとってつけたような言い訳をしなくとも、事情を聞いたら当主は笑顔で、良くやった! と褒めてくれる気もするが。


 次の瞬間、ビリッ、という音と共に紙は真っ二つになり、その反動でラトルとクロノは反対方向に飛んでいく。二人揃って尻餅をつき、嫌な沈黙が流れる。

 ベッドの近くに座り込んだラトルから、小さい嗚咽が漏れる。抑えていた感情が、倒れた衝撃で決壊してしまったのだ。これにはクロノも冷や汗をかかざるを得ない。


「うぅ……、どうすりゃいいってんだよぉ……。俺は何をすれば人並みになれるんだよぉ……。俺の何がわかるんだよ……、俺だって頑張ってるのに、なんでこんなに何もできないんだよぉ……」


「……坊ちゃん」


「ミルと吊り合ってないなんてわかってんだよぉ……、婚約だって別に強制じゃないし、俺が縛り付けてるわけでもない……。どいつもこいつも何なんだよ!! 俺がお前らになんかしたか!! そんなにミルが大事ならどうにでもすりゃいいじゃねえか!! 誘うなり奪うなりすればいいじゃねえか!! 俺の方ばっかり睨んでねえでよお!! ……あぁ、もう……、ちくしょう……」


「…………」


「あいつだってわざわざ全部俺に報告することないだろ……、昔からなんだって俺が嫌がることばっか……。別に婚約だって言われたらいつでも解消するよ……。否定も拒絶もしたことないのに、なんでこんなに疲れなきゃなんないんだよぉ……」


 その慟哭は部屋の外で聞き耳を立てていた屋敷の使用人に、どころか、各自室にいたラトルの家族にすら届いていた。本人に自覚はないが、感情の巨大な振幅、それに影響された体内の魔力が声を伝って音響系の魔法を発動させていたからだ。

 慰める言葉も励ます言葉も見つけられないまま、クロノはラトルの手から千切れた紙の半分を取り上げる。既に手に力は入っておらず、頭を抱えながら床に寝転がってしまっているラトルはそれに気付きながらも動かない。


 机の上の皿に二分割された紙を乗せ、マッチで火を点ける。赤色に包まれ呆気なく燃え滓になっていくそれには、決して看過するわけにはいかない文字列が書いてあった。


 『婚約解消に関する承認書』。


 これに当事者の二人、そして両家の当主がサインをすれば婚約は正式に解消される。当然、ラトル以外の三人がサインをすることはないが、こんな爆弾を抱えたまま結婚に至れば間違いなくどこかで火種となる。

 だが、書類がなくともこの激情そのものが爆弾には変わりなく、これから屋敷内の全ての人間が頭を抱えることになるのは、まさしく火を見るよりも明らかだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] ここまで精神的に追い込まれるまで放置してた大人達の責任だわな
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