13、最悪の一日
最悪の一日と、この日は後に言われることになる。
学園創立以来、最も取り返しのつかない出来事が起こった一日の始まりを最初に感じたのは、物事の中心とは何ら関係ないはずの一般生徒たちだった。
学園には、敷地を覆うように結界が張ってある。国内でも他に例がないほどの大規模なそれは、本来は生徒たちに危害が加わらないような守りを主体をしたものであったが、近年その性質は少しずつ書き換えられていた。
校内の情報が外部に伝わらないように、という、隠蔽を主とした形式のものへと変化していたそれは、守護の恩恵が薄れ、皆が無意識のうちに封じていた暴力を解禁してしまっていた。
第二王子がラトルを当たり前のように傷つけることが出来たのも、ここに原因がある。
しかしこの日、最悪の理由でその変異は王城に知られることになる。
ある一人の女子生徒が校門を潜った瞬間、全校生徒はその魔力の凶暴さに身を震わせた。悲鳴を上げる女生徒すらいた。だがそれは結界の影響により外部には伝わらず、事なかれ主義の教師陣はなかったものとした。
彼女が歩く度、地面が揺れるように錯覚する。彼女に見られる度、身体に穴が開いたように痛む。
ミル・ベリヤフラムは、感情に引っ張られて暴走する自分の魔力を抑えることを既に放棄していた。
それでも、傍から見れば表情も仕草も日頃と何ら変わりはなく、この威圧感の正体に気付く者もいない。隠蔽の結界が問題の本質を隠してしまったからだ。煙に巻くように、ひっそりと。
正確に言えば、何人か気付いた者はいた。だが放置を選択した。
自分の力で止められるとも思わなかったし、止めることが自分の利になるとも思わなかった。むしろ、何か大きなことをしでかしてくれるのならそれでいいとすら思った。
成績が優秀、あるいは魔法に秀でている者ほど、第二王子に悪感情を抱いている。
そういう者たちは大体、第二王子が教師陣に圧力をかけ、会長の座を強引に奪取したことを知っているからだ。無駄にプライドが高い第二王子を庇うような成績優秀者はこの学園から全滅している。
ある意味では、校内にラトルの味方になりうる人間はいた。だが、成績優秀者に限られている以上、関わりを持つ可能性は限りなく零に近かったが。
恐怖に慄く校内で、表情筋を露骨に引き攣らせたのはデネッセだった。幼い頃、何度か感じたことのあるこの威圧感。間違いなく親友の魔力だ。
まだ動かすと痛む右肩は下げたまま、左手で頭を押さえる。
(……昨日、私が知らないところで何かが起きたのね……)
椅子から立ち上がり、教室から出る。視界に入る多くの生徒がよくわからない何かに押され、無自覚のままに壁などを触っている。確かにこうも身体を押し潰すような感覚を味わえば、存在が確かなものに縋りたくなる気持ちもわかる。
デネッセも昔はそうだった。まだ感情の制御が下手だった時代のミルが怒りを露わにするたびに、動かないだろうと信頼できる地面を頼りにしていたものだ。草が生えていると掴みやすかった。
階段を下りて玄関で少し待っていると、周囲に人を寄せ付けないような透明な壁のようなものを展開させたミルが歩いてくるのが見えた。十三を過ぎてから気付けば笑っているようになったミルが、今、怒りを隠さないとこういうことになるのかと、デネッセは辟易する。
声を掛けただけで吹き飛ばされそうな嫌な感覚を必死に無視してミルに声を掛ける。
「少し抑えてくれない? 校舎が壊れそうなんだけど」
「壊れちゃえばいいよ、こんなの。どいつもこいつも、全員下敷きになって死ねばいい」
昨日、肩が熱を持ってしまっていたので学園を休んだのはどうやら悪手だったらしい。おそらくは何らかの手段で、ラトルに関する諸々を知ってしまったのだ。そうじゃなきゃここまでの恨み言は言わない。
校舎のあちこちからひびが入るような嫌な音がする。ミルの魔力が結界を構成する一部分である校舎に作用して物理的な破壊をもたらしているのだ。
それこそ、一日中この状態のミルが校内にいたら、校舎は見るも無残に崩れ落ちるだろう。
やろうと思えば今すぐにでも全校生徒を生き埋めに出来る。それをしないのは、怒りで我を忘れていても、僅かばかりの人の心が残っているからだとデネッセは思う。信じる。そうであってほしい。
「ねえ、親友」
「……なに、親友」
「私とラトルって、釣り合ってないの?」
「……私は、あんたらの馴れ初めも交流も惚気も全部知ってる。だから、ミルにはラトルしかいないと思ってる。でも、傍から見れば、違和感のある組み合わせだっていうのは、否定できない」
「……そっか」
誰に言われたのかはわからない。だがそれでも、ここで適当な返事をすべきではないことはわかった。はぐらかすような、誤魔化すような、舌先三寸のような言い方ではなく、真摯に。
だが、デネッセは隠し事をした。言わない方がいいではなく、彼女が言いたくなかったから言わなかった。
ミルにはラトルしかいないが、ラトルにはミルしかいないわけではないと。
デネッセからすれば、優位なのも、手綱を握っているのも、付き合ってやっているのも、ラトルの方だった。いつでも切り離せたはずの関係を必死に保っていたのは、いつだってラトルだった。
「で、あんた誰をボコボコにする気なの? まさかとは思うけど、妙な噂を口にしてたやつ全員とか言わないわよね?」
「やってもいいけど手加減できそうにないし、見分けも付かないし見分ける気もないし。一人でいい。諸悪の根源の一人だけで」
ぞわりと、背筋が急激に冷えた。魔力の圧などこれまでも散々味わってきたし、今でも慣れているとは言い難い。それでもこの距離まで近づけるのは、この敵意が自分に向いていないという確信があるからこそのかろうじてだ。
だが今、その自分に向いていないはずの敵意が一瞬だけ質を変えたのを感じた。今までの関係性を考慮して尚、この距離にいるのが危ういと思わせるそれは、殺意だ。
ラトルへの愛情から来る復讐心を超えている。いや、感情の始まりは確かにそこだったのだろうけど、もはやこれは憎悪に近い。ただ漏れていただけの魔力が徐々に鋭さを帯びてきている。
離れたいわけではないが、隣に立つのが難しい。実体がないはずなのに壁と魔力に挟み込まれて圧殺されそうだ。ミルはそれに気付いていない。気付くはずがない。
気付けるものなら、ラトルの顔色にも、学校の異常な空気にも、自分自身の特殊さにも、とっくに気付いているはずで、それができなかったから、今の最悪がある。
どれか一つでも気付けていたら、避けられていたはずの最悪。
「今更それが誰かを聞く意味もないか……。昨日、何があったの?」
「私が直接見たわけじゃないけど、昨日フォートさんから連絡があったの」
「フォートさん? ……ああ、ラトルのお兄さんの」
いつだったかラトルに、物心ついた頃から無視されているんだけど何か悪いことをしたんだろうかと相談された記憶がある。結局時間が解決してくれたとか言っていたけど、思っていたより関係性は良好らしい。
ミルとも関わりを絶っていたみたいだったので、将来的に大丈夫なんだろうかと部外者ながら不安になったものだが、意外と順調な家族仲のようだ。
「第二王子が、ラトルに直接的になんかしてくれやがったみたいなの。笑っちゃうよね」
どういう行動を起こすかわからなかった。予測がつかなかったし、予想がつかなかった。それは思考そのものが根本からデネッセと異なるからであり、才能において比肩する者がいないからでもあった。
だがそれでも、昔から数度見た怒りはまだ取り返しのつく形を留めていたし、どこまでいってもラトルが止めるから深刻に考える必要はないと責任を放棄していた部分があるのは否定できない。
考えないようにしていた。本気の怒りを。ラトルというストッパーの不在を。
だから、親友を本心から怖がる日が来るなんて、思ってもみなかった。
怒りに溺れた人間の笑顔は、禍々しいまでの狂気に満ちていた。
「……言うまでもないかもだけど、結婚できなくなったら元も子もないからね」
「――わかってるよ。まあ安心しててって。明日から、はちょっと厳しいかもだけど、来週あたりからこの学園の教師も一新されるだろうし、大した問題にもならないでしょ」
その確信に似た口調は、デネッセを絶句させるには十分だった。親友の天才性には慣れたつもりだった。見慣れたつもりだった。馴染んだつもりだった。だが、それでもまだ浅かった。
この少女には一体何が見えているのか。どこまで見えているのか。そしてそれを実現させるだけの能力があり、行動力があり、胆力がある。
歯止めを掛けるための、自制心だけが欠けている。
もし、今日を最悪の一日にしないために必要な分岐点があったとするならばそれは間違いなくここで、デネッセが恥も外聞もかなぐり捨てて、親友の足元にしがみついて大泣きしながら制止を促せば、ひょっとしたらミルは少しだけ冷静さを取り戻せていたかもしれない。
だが、デネッセにはこの学校のためにそこまでしてやる義理も恩も無い。
ただでさえ学園に入学してから、ミルに情報を秘匿するのに神経をすり減らして来たのだ。何もかもが綺麗さっぱりリセットされたらどんなにいいだろうと何回も考えた。
それが実現するかもしれないのなら、この歩く嵐のような親友の片棒を担ぐのに躊躇いはない。
ない、が。
「……ここまで進まなきゃ、止まれなかったの? あんたら……」
自分を振り返ることなく前へ進んでいく親友の背中に、口から言葉が漏れ出る。
返事は、無かった。




