1、糸が切れて
学園の社交界に出る義務というのは、実際のところ存在しない。卒業後の人脈作りという意味合いこそが社交界が開かれる意義の九割近くを占めていて、そうなると必然、義務はなくとも令息令嬢は出席しなければならない、というのが道理なのだ。
ゆえに、そこにあるのは義務ではなく責任である。貴族の子供として生まれ、高等な教育を受けさせていただいている見返りとしての責任。恩返しのようなものだ。あるいは、将来の自分のための投資。
だが、それゆえに問題点が一つ発生する。
こういう場において仲を深められるのは、同格の者同士なことが非常に多いという問題だ。
「…………暇だ」
今こうして、壁際で皿に盛ったローストビーフを貪りながら暇を持て余しているのはラトル・シャッハトルテ。シャッハトルテ家の次男であり、学園に通う生徒の一人であり、残念ながら、こういう場において一緒に過ごせるような関係の人間を持たない少年である。
厳密に言えば、雑談できる程度の知り合いはちらほらとその辺りにいるが、もう既にその誰も彼もが見知らぬ誰かと会話をしており、残念ながらラトルにその輪に割って入るほどの勇敢さと社交性はなかった。
この積極性の無さは貴族としては割と致命的であり、恥じるよりも恥知らずな方が得をするこの世界において、あらゆるしわ寄せが巡ってくる不遇な立ち位置にならざるを得ない。その結果として、社交界なのに孤独を謳歌する不思議な少年が出来上がってしまったわけだ。
社交も交流もあったものではない。どことなく、そんなラトルに周囲の視線も冷ややかだ。まあ、それはそれでまた別の理由があったりするのだけれど。
「……怖いな、あの集団」
横目で見るその先にいるのはまさしく学園のトップ集団、成績において上位を修めている者達。優秀者の中から選抜で構成されている生徒会のメンバーが半数の三人もいるのは、なんとも別世界のような光景だ。近くに寄るだけで消し炭にされそうなほど輝いている気がする。
一学年上の第二王子までにこやかに会話しているのだから、下手に見ているだけで罰せられそうな気がして目線を下げる。不敬罪だとか難癖を付けられたとしても、まともに反論できないだろう程度にはラトルは気圧されてしまっていて、そしてそれは今に始まったことではなかった。
集団の中に、よく知っている少女がいても、それは変わらない。むしろ、それを含めて近寄りがたいとすら思っている。
今回の社交界、いや、前回も前々回も、参加したのは自分の意思ではない。二か月に一度開催されるこれに参加したいと思ったことなどなく、新たな友人などという収穫が得られたこともない。毎回自尊心が粉々になりながら帰路についている。あるいは、粉々にされながら。
新しい人間関係の構築が困難を極めているのは彼だけのせいではないのだが、彼自身はそれに対して酷く無自覚であり、それを知らない周囲からの当たりの強さはもはや残酷と形容しても間違いではない。
さっさと帰りたいのに帰るに帰れない事情があるラトルは、皿の上を空にすると窓から庭を見下ろす。綺麗に整えられているとは思うが、なにがどういう意図でこうなっているのかということは全くわからない。美的感性が昔から壊滅的なのだ。
一体俺は何ならできるんだろうと溜息を吐くが、考えるまでもなくそんな問いに対する答えなどとっくに出ていることに彼自身気付いている。何も無いからここにいるのだ。口を閉ざして、一人で。
「――ラートルっ。どうしたの、黄昏ちゃってぇ。背中だけでも元気がないのわかっちゃうよぉ?」
「……いや、別に。ちょっと庭見てただけ」
「庭? 似合わないねぇ」
背後から肩を叩きながら急に声を掛けてきたのは、先程まで第二王子らと楽しげに談笑していた、ラトルの良く知る少女、ミル・ベリヤフラムだった。ベリヤフラム家の長女であり、ラトルの婚約者でもある。
小首を傾げながらラトルを見つめるその顔は非常に整っており、周囲からの視線がその性質を変え、肌を突き刺すような痛みすら感じる。ミルはそれに気付いていないのか、少しだけ顰められた目の前の顔をなおも見つめ続ける。
白いドレス、薄い化粧、絶世のスタイル、輝くような長い桃色の髪、それら全てが会場の注目を集めている。当然その注目は、最も近くにいる冴えない男にも向けられ、まさしく針の筵。これならさっきまでの方が気楽だった――と、なんだか毎回思っている気がする。
第二王子と談笑していたということからもわかる通り、ミルは非常に優秀だ。成績は常に学年でも五指に入り、魔法は上級生すら圧倒するほど。来年度の生徒会に勧誘すらされているなど、大勢から目を掛けられている才媛。
そんなミルとラトルが婚約しているというのは奇跡のようなもので、しかしラトルとしてはその奇跡をただ喜ぶというわけにもいかない。むしろ最近は、重荷になっているほどで。
重荷、あるいは、罪悪感。
「にしても、相変わらず暇そうだねぇ。向こうからでもずっと見てたよぉ。私を見習いなさい私をぉ。学園でも常々言ってるけど、友達と味方は多い方がお得なんだから」
流石、生徒全員味方みたいなやつは言うことのスケールが違うなと、いつも通りの軽口はラトルの口から発せられない。口答えをしている、というように見られて、無関係の生徒を敵に回す方が味方が少ないよりも恐ろしいことだからだ。
そんなラトルの様子におかしさを感じたミルだが、体調に何か異変があるなら言ってくるだろうと追及はしなかった。たとえしても、ラトルが口を割ることもなかっただろうが。
八歳からの幼馴染み、婚約者という関係がもたらす信頼。
しかしこの場合、その信頼は無責任とほぼ同義だ。
迂闊な発言を避けたいラトルは、かもな、とだけ口にした。周囲の不興を買わない限界のラインがどの辺りなのかは探り探りで行くしかないが、相槌だけで怒り狂うような人間はこの場にいないことを信じてのことだった。
腐っても貴族だ。腐っているのは自分の性根かもしれないが。
「……そういえば、第二王子に副会長にならないかって言われちゃってさぁ。私のことを一番近くで支えてくれないかぁ、だって。来年も会長を継続するんだってさ。まあ成績がずっとトップだから当然なのかな。貴族としては名誉かもなぁって思うんだけど、ラトルはどう思う?」
ミルの一番の趣味、というと聞こえが悪いので、一番好きなことと言い換えると、それは婚約者を揶揄うことだ。これはもう、ミルが自分の容姿や能力が優れていることを自覚し始めた九歳の頃からであり、もう七年目になる長めの生き甲斐だ。
婚約者の顔が焦ったり、困ったり、歪んだりするのが好き、というとまた言い方が悪いが、それは自分を気にかけてのことだというのを理解していたのでそういう部分で好きなのだ。単に顰め面をさせたいだけなわけではない。
だからまあ、タイミングが悪かった。
昨日や明日ではなく今日だったのが、非常に悪かった。
自分の不甲斐なさや周囲からの視線、日頃から降りかかってくる悪評や噂なども相まって、ラトルの精神は大分摩耗していた。それに加え、罪悪感や無力感、あらゆるマイナス要素が重なった結果、一本の糸が切れてしまった。
自分とは正反対だと思っている第二王子を引き合いに出されたのもかなり不味かったと言える。きっかけを探していただけなのかもしれない。あるいは、言い訳を。自分を正当化できる、そんな状況を。
加えて、顔を上げた時に偶然目に入ってしまった、第二王子からの射殺すような視線がとどめだった。
「――お前が決めたことなら俺は文句は言わない。俺のことは気にしないで、好きなようにやりゃいいよ」
いいんじゃないかとも、やめてほしいとも言わなかったのは、彼なりの抵抗とも言える。あくまでも、今後の判断はミルの自由意志であり、自分がいかなる方向へも誘導したわけではないという牽制。
ミルが呆然としている間に、いつの間にかラトルはいなくなっていた。うっすらと頭が痛いから先に帰るとか言っていた気がするが、それにしたって普通婚約者を一人だけ置いて帰るなんて常識外れもいいところだ。
正気に戻ってすぐに追いかけようとしたところで、第二王子、その取り巻きから話しかけられてしまう。彼女の中の優先順位としては、ラトルと第二王子など比べるまでもないのだが、礼儀として振り払うというわけにはいかない。
そもそも、向こうから声を掛けられなかったら誰がラトルの隣から離れるかという話なのだ。
煩わしく、興味もない第二王子の話に適当に返事をしながら、先程までの会話を思い出す。会話というには、向こうからの返事は極めて少なかったが。何か気に障るようなことを言っただろうかと考えても答えは出ない。思考は巡るばかりだ。
彼女が自分の長年積み重ねてきた失敗を自覚するには、まだもう少しの時間が必要だった。
・この世界の貴族に爵位は存在しません。