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夜襲

 ブローワ領から戻ると、私たちは元の生活に戻った。

 私の部屋は相変わらずこじんまりした部屋だし、ユリウスと顔を合わせるのは、食事時くらいという生活。



「足りないものとか、俺にしてほしいこととか、何かないのか」



 戻ってきて以来、ユリウスの言葉が何度も胸の中で蘇る。

 本当に幸せな毎日を送っている……心の底からそう思っていた。


 でも今は――。

 足りないものも、ユリウスにしてほしいことも――ある気がする。



 ああ、バカ。バカ。バカ。もう、本当にバカ。私のバカ!

 今日も起きて早々に、馬鹿げた妄想をしているわ。

 きっとお腹が空いているせいよ。





 ダイニングルームには、頬杖をついて小首をかしげるユリウスと、上から目線を絵に描いたように立っているリュカがいた。


「今日も二通、招待状が届いております。一向に絶えませんが、いかがなさいますか?」

「うーん」

「まあ招待という名の依頼ですけどね。仮にも侯爵夫人を寄越せなどと、気軽に頼むにもほどがあるでしょう」

「お前……」


 不意にリュカがこちらを向いた。


「おや、そんなところに立ったまま、よだれを垂らされて。ユリウス様のお顔はパンではありませんよ」


 もおーっ! やめてよね。そりゃあ、じっと見ていたのは確かなんだけど。

 よだれだなんて。まさかとは思ったけど、気になって思わず口元を触ってしまった。


 慌てて席に着くと、ユリウスの方から「おはよう」と声をかけてくれた。


「お、おはようございます」


 目を見ずに挨拶するなんて、マナー違反よね……。


「ぷっ」とリュカが笑った。でも次の瞬間には何事もなかったようにすました顔。


 むうっ!


 それにしても、最近、リュカとユリウスは、同じような会話をよくしている。


 あれからあっという間に噂が広がったと聞いて、ここ何日かは湖でしか歌っていない。

 人前で歌うのは、やっぱり止めるべきなんだろうな。


 一瞬、ユリウスが手を伸ばして、私の手を握った気がした。


「え?」


 ユリウスの両手はテーブルの上にあった。

 ……そ、そうだよね。



「別に気にすることはない。我が領地で遠慮など不要だ。それに、聞いたところでは、他の領地では、例年並みの収穫量を確保できているらしい。癒しの力で助けるほどのことではないんだ」


 リュカがわざとらしく、これがパンですよ、と私に見せるようにバスケットを目の前に掲げてから、ゆっくりとテーブルに置いた。


「つまり、楽して稼げるのなら、ちょっとだけ若造に頭を下げて、奥方に働いてもらおうという魂胆なのです」

「わ、若造だと!」



 うふふふ。やっぱり、このままでも十分に幸せだわ。





 夜、ベッドに入ると、あのとき背中に感じたぬくもりや、ユリウスの唇の感触を思い出してしまう。

 あの夜以来、一人で眠りにつくのが難しくなったって言ったら、ユリウスはどんな顔をするかしら。


 ため息をついて瞳を閉じる。



 ……あれ? 城の周囲の空気が揺らいでいる。

 ……なんなのこれ。


 ねっとりとした悪意が、黒い実態を伴って周辺を覆い尽くそうとしている。

 ……気持ちが悪い。


 どす黒いモヤモヤしたものが、城壁を登ってくる。

 ……あ、来る!



 ガッチャーン!



 何者かが、部屋の窓を割って侵入してきた。

 モヤモヤが男の姿になったのかと思った。

 冷えた夜気まで一緒に入ってきて、体を震わせる。



「奥方様!」


 部屋のドアが乱暴に開いたかと思うと、剣を構えた兵士が駆け込み、侵入者の前に立ち塞がった。

 兵士がすかさず剣を抜くと、侵入者も腰からナイフを取り出した。

 二人は互いの間合いを測るかのように睨み合っている。



「敵襲! 敵襲!」



 城内から叫び声と共に、あちこちからドヤドヤと人が集結する足音が聞こえた。


 ……逃げなきゃ。

 そう思うのに、ベッドから出られない。体がいうことを聞かない。


「アデリーン!」


 ユリウスを先頭に、五、六人の兵士が部屋になだれ込んできた。


「ちっ」


 侵入者は睨み合っていた兵士からユリウスへ視線を移すと、構えていたナイフをいきなり投げつけた。


 ヒュン! ダン!


 ナイフはユリウスの横をかすめて、壁に刺さった。

 誰もがホッとして、それから慌てて窓辺を見たが、既に侵入者の姿はなかった。


「うっ」


 ユリウスが左腕を押さえて、膝をついた。


「ユリウス様!」


 近くにいた兵士が駆け寄ったが、ユリウスは手で制した。


「俺はいい! やつを追え! 逃すな!」

「はっ」

「はっ」


 兵士たちが一斉に駆け出していく。


「ああ、そんな。ユリウス様!」


 霧が晴れて呪縛が解けたかのように、やっと動けた。

 ユリウスの夜着に、じわじわと黒い染みが広がっていく。



「ユリウス様!」


 リュカは部屋に入るなり、一目で全てを察知したらしい。

 すぐに冷静さを取り戻すと、エメが置いてくれていた水差しのトレイにあったおしぼりで、ユリウスの腕を縛った。


「俺はいい。それより使用人たちは無事か?」

「はい。他に侵入者はいないようです」

「それよりも早く傷の手当を」

「別にいらん。かすり傷だ」

「なりません。どんな小さな傷でも悪化すれば命の危険が伴います。それに、毒が塗ってないとは言い切れませんから」


 毒ですって!? いったい何が起こったの? どうしてこんな目に?


「……アデリーン。大丈夫か?」


 私ったら。こんなときこそしっかりしなくっちゃ。


「はい。ごめんなさい。私、なんの役にも立てなくて」

「何を言う! 謝るのは俺の方だ。お前が無事でよかった」


 ユリウスの瞳には、激しい怒りの炎が見える。


「とりあえず、ユリウス様の寝室へ参りましょう。医者もそちらに呼びますので」


 いつもは憎たらしいリュカも、今夜ばかりは本当にいてくれて助かった。

 リュカの毅然としながらも、ユリウスに向ける暖かい眼差しを見て、心底そう思った。

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