優しい目をした狼騎士は、私の手首にキスをする。
「アリス、俺と付き合ってくれないか?」
「はい?」
南区にある騎士団の詰所。
そこへポーションを運ぶのは、毎週のこと。
まさかその詰所で騎士のヒューバートにそんなことを言われるとは、露ほどにも思っていなかった。
「付き合う? どこにですか?」
「いや、俺と付き合ってくれという話だ」
「そういう冗談はいらないですから、補充のポーションがいくつ必要なのかを教えてください」
アリスがそういうと、ヒューバートはひとつ息を吐いてから、奥へと引っ込んだ。そして大きな木箱を三つ重ねて戻ってくると、ドンッと目の前に置かれた。中に入っているポーションの空瓶が、カチャリと音を鳴らす。
「うわぁ、たくさん使いましたねぇ……」
「今週は魔物討伐を行ったからな」
「作り甲斐がありますよ。毎度ありがとうございます。また来週に納品させてもらいますね」
その大きな箱三つ分を持ち上げようとすると、アリスが力を入れる前に箱は浮き上がった。
「家まで運ぼう」
「や、大丈夫ですけど」
「三ヶ月前、ぎっくり腰になった奴が何を言う」
「うっ」
ヒューバートが荷物を全部持って、詰所を出ていく。
アリスは彼を追いかけながら、当時のことを思い出して顔が熱くなった。
それは三ヶ月前のこと。作り終えたポーションを納品しようと持ち上げた瞬間、アリスの腰はビキッと音を立て、そのまま一歩も動けなくなったのだ。
ポーションは外傷には効果を発揮するが、病気や骨のズレなんかには効き目がない。
どうすることもできずにその格好のまま半泣きになっていると、ヒューバートが様子を見に来てくれたのだ。
「あの時は驚いた。いつもの時間にこないから心配して家に行ってみると、箱を上げようとした体勢のまま泣いているんだもんな」
「うう、二十歳でぎっくり腰とかもう、恥ずかしい……っ」
「俺は役得だったが」
「役得って……」
「アリスを抱き上げられたからな」
事も無げにそう言ったヒューバートをチラリと目の端で見上げる。
太陽の光が亜麻色髪を反射して、いつも以上にキラキラとして見えるからやめてほしい。優しく微笑む瞳など、反則でしかない。
「あー、あの時はアリガトウゴザイマシタ。オ世話ニナリマシタ」
「嫌そうに言われると、傷つくぞ」
「いえ、本当に感謝しているんですけど」
ぎっくり腰になって動けなくなったアリスを、ヒューバートは抱きかかえて医者にまで連れて行ってくれた。
それでもしばらく動けず、安静を言い渡されたアリスを、五日間の休みをとってまで面倒を見てくれたのがヒューバートだ。
両親を五年前に亡くし、遠くに暮らしている体の不自由な祖父母に来てもらうことが不可能なアリスは、本当に助かった。
「けど、なんだ?」
「消し去りたい黒歴史です……」
寝たまま動くことが出来ず、食べさせてもらい飲ませてもらい、トイレに行きたいときは抱っこで連れて行ってもらったあと、意地でも自分で用を足した。
トイレの間、『ここから離れておくから、終わったら呼んでくれ』とは言ってくれたが、それはもう、泣きたくなるくらい恥ずかしくて死にそうな時間であった。
「ぎっくり腰にくらい、誰だってなるだろう」
「うう、二十歳でぎっくり腰になる人、いますかね?」
「さあ、いるんじゃないか? 俺はなったことはないが」
お世話をしてもらっていた時、ヒューバートは二十六だと言っていた。十六で騎士という職に就いてから十年。現在は分隊長で、近々区隊長に昇進するらしい。
いわゆる出世コースに乗っている人らしく、他の騎士や市民からの評判は軒並み良い人だ。
そんな人が五日間もの休みを取ってアリスの世話をしたとか、なんの冗談だろうかと思ってしまう。
「アリスの仕事は意外に力が必要だから、無理はするな。手が必要ならば、いつでも来る」
「そんな、これ以上迷惑はかけられないですから」
「付き合えば、『迷惑かける』だなんて思わなくて済むか?」
ドキッと胸が鳴ってしまうから、本当にやめてほしいと思いながら、アリスはヒューバートから目を背けた。
「付き合うとか……ないですから」
「なんで? キスまでしたのに?」
「ひゃ、ひゃぁああ!!」
アリスは慌ててその口を閉じようと、ヒューバートの腕を引っ掴んでブンブンと揺らした。
ヒューバートの持っている箱の中の空ビンが、カチャカチャと笑うように音を立てている。
「あ、あれは、ヒューバートさんが要求したんじゃないですかー!」
「アリスが、お礼に何かすると言ってくれたからだろ」
「にしたって、普通キスしてなんて言わないですよっ」
「仕方ないだろ? キスしたかったんだから」
キスをしたかったと言われて、カアっと顔が熱くなる。
五日間看病してくれて、なんとか起きられるようになったアリスは、ヒューバートにキスを要求された。
断る事も、できた。
けれどアリスは、その唇に惹かれるように……ヒューバートにキスしてしまっていた。頬にではあったが。
「っく、黒歴史……!」
「けっこう酷くないか、それ」
「忘れてください、あの時の私はおかしかったんです」
「……」
アリスの言葉に、ヒューバートはほんの少し眉を下げている。胸が、じくりと痛んだ。
「キスしてくれたから、少しは望みがあると思ってたんだがな」
「な、なにを言ってるんですか……」
「あれからなにも変わってない。俺には全く興味ないか?」
「きょう、み……っ」
凛々しい瞳。亜麻色の髪。がっしりとした体つき。大きな手。アリスの体など、軽々と抱き上げてしまうその筋力。
頭から爪先までじっくりと見てしまい、アリスは熱くなった頬を隠すように押さえる。
「興味ありそうに見えるんだが……」
「ない、ないですよ……った、たぶん……」
たぶん、という言葉に、ヒューバートの口の端が上がる。
明らかに喜んでいるのが見てとれて、アリスは手で自分の顔全体を隠した。
「どうした?」
「ヒューバートさんが、変なこと言うから……!」
「アリスのかわいい顔が見られて、満足だ」
「も、もう……っ」
きっと、からかわれているだけだ。平常心を保たなければ、と口をぎゅぎゅっと結んだ瞬間。
「そんなかわいいアリスが、好きだ」
とんでもない言葉が耳に飛び込んできて、アリスはポカンと顔を見上げた。
「……はい?」
「好きだ、と言ったんだ。付き合ってくれ」
「な、なにを言ってるんですか、こんなところで!」
さっきもそうだが、勤務中に付き合ってだの好きだのと言うのはどうなのだろうか。
それも、区隊長になろうとしているような人が、ただの二十歳の小娘に向かって。
周りの目が気になったアリスは、キョロキョロと周りを見回してしまった。
「じゃあ、アリスの家に着いたら改めて言おう」
「ええ〜……こ、困りますって……」
「どうしてだ?」
どうして、と聞かれると、また困ってしまう。
「お、おかしいですよ……区隊長にもなろうって人が、私のことを……す、好きなんて」
「そうか? 別に、誰が誰を好きになろうと自由だろう」
「そうですけど……どうして、私なんかを……」
アリスはわからなかった。
西区の詰所にポーションを卸しに行き始めたのは、両親が不慮の事故で亡くなった五年前から。
それまでもポーション作りを手伝っていたアリスは、親の跡を継いた形だ。その頃からヒューバートはよく声を掛けてくれる一人ではあったが。
「よく頑張ってるなと思ってた。両親を亡くしても懸命に働いて、体の不自由な祖父母に仕送りまでしてるんだろ?」
「……同情、ですか」
なんだ、と胸が突き刺されるように疼いた。
人の良いヒューバートのことだ。大変な思いをしている人を、放っておけなかっただけだろう。
ぎっくり腰になったときに世話をしてくれたように、ただ可哀想な人を世話してあげたいだけ。
ふいっと下を向くと、耳に心地よいヒューバートの声が降りてきた。
「同情……そうだな、最初はそんな気持ちもあったかもしれない」
「さいしょ、は……?」
「着いたぞ、開けてくれ」
いつの前にかアリスの家兼ポーション工房に着いていた。アリスは急いで鍵を取り出すと、扉を開けて中に入ってもらう。
指定した場所に空瓶を置いてもらうと、外まで送ろうとした。
「今はもう、同情じゃないぞ」
「……え」
見上げると、ヒューバートの真剣な顔がアリスを見据えている。
その瞳に射抜かれるように、アリスの心はどくんと打ち鳴らされる。
「アリスが困った時、つらい時にはそばにいたい。助けを必要としているときは、すぐに手を差し伸べたい。そう、強く思ったんだ」
それは、三ヶ月前の出来事がきっかけだろう。それはやはり、同情ではないのだろうか。
「いくら騎士だからって、そんなことで人を助けていたりしては、身が持ちませんよ?」
「騎士だから言っているんじゃない。一人の男として、アリスが好きだから言っている。アリスだから、助けたいと思うんだ」
アリスだから……その言葉に、胸が震えた。
ずっと一人で生きていかなくてはと思っていたアリスは、肩肘張って生きてきた。そして、一人で生きていけると思っていた。
なのに、助けを必要とした時には、手を差し伸べてくれると……そばにいたいと、言ってくれている。
それが思ったよりもびっくりするくらい嬉しくて、ほろりと涙が溢れてきた。その涙を、ヒューバートが指で優しく拭ってくれる。
「俺はアリスと、結婚を視野に入れた付き合いをしていきたいと思ってる」
「ヒューバートさん……」
「迷惑だったら、もう二度とこんなことは言わない。でももしオーケーなら……」
ヒューバートは、あの日のようにそっと笑って。
「キスしてくれないか」
そう、訴えてきた。
心臓が、ドッドと波立てる。
けれど、嫌な鼓動ではなかった。
耳が熱くなって、胸が張り裂けそうなほどの……喜びの、鼓動。
本当は、ずっと憧れていた。
男らしく、爽やかでいてどこか無遠慮なヒューバートのことを。
両親を思い出してふと寂しくなると、優しくかけてくれる言葉。
仕事を頑張っていると、必ず褒めてくれて。笑ってくれて。撫でてくれて。
恋にうつつを抜かしている暇などないのだと、押し込めていた心が……もう止まらない。
「ヒューバートさん、屈んで、ください……」
背の高いヒューバートにそう頼むと、彼の顔はアリス目の前にまで迫る。
あの日も、こうやってキスをした。
その時にはもう、半分心が開いていたのかもしれない。
そう思いながら、アリスはそっとヒューバートの唇を掠め、頬にキスをした。
あの時と同じように。
「アリス……」
ヒューバートの細められた瞳が飛び込んで来て、顔が熱くなる。
「こ、これが限界ですけど……でも、その……これから、よろしくお願いします」
「ああ。まぁ、ゆっくりいこうな」
ヒューバートがそう言ったかと思うと、アリスの体はぐんと引き寄せられた。
アリスの右手が奪い取られ、その掌の下……ちょうど手首のあたりにチュッと音を立てて口づけされる。
「ひゃあっ」
思わずそんな声を出すっと、ヒューバートはくつくつと笑っていた。
キスを要求してくる狼のような人が、本当にゆっくり進んでくれるのか疑問はあったが……。
「大事にするよ、アリス」
その一言で、アリスは自分からヒューバートを抱きしめることができた。
熱く疼く手首。
そのキスの意味が欲望だとアリスが知るのは、もう少しだけ先のお話──