不愛想でも世話は焼いてくれる
翌日の午前中、ボジェナは図書館を訪れていた。本格的な講義が始まるのは明日からである。それまでに手元の教本で理解出来ない言葉を解釈しなければいけない。知らない言葉を教授が話し、そこで躓いては授業についていけない。それだけは嫌だった。
大学生だけではなく、誰でも使える図書館は大学の敷地の一番端にある。誰にでも使えるという所にボジェナは感心した。メイネス王国は識字率が低いので、そもそも図書館を求める声がない。レヴィ王国は教育が平民にまで行き届いているのだろうと思えた。
受付で辞書が置いてある場所を確認し、ボジェナは真っ直ぐ向かった。どのような本が置いてあるのか非常に興味があったが、そちらに目を向けるとあっという間に一日が終わってしまうのはわかっている。彼女は教本をしっかりと抱きしめ、興味を打ち消した。
辞書が置いてある場所は非常に静かだった。ボジェナは早速辞書を探し始める。残念ながら辞書は持ち出し不可と言われたのだ。所々机と椅子が置いてあるので、調べて書き込むのは問題ない。
ボジェナは辞書を取り出すと机に向かった。椅子に腰掛けて辞書と教本、そして筆記帳を広げる。調べる言葉は昨夜のうちに書き出していた。全体を読めば意味を憶測できる言葉もあったが、間違っていた場合が怖いので全て調べるつもりである。予定が入ってしまった夕方までに何とか終わらせようと彼女は集中して辞書をめくり、言葉の意味を筆記帳に書き写していく。
黙々と作業をこなし、どれだけ時間が経過したのかボジェナにはわからない。それでも目の疲れと身体のこわばりを感じて、彼女は筆記具を置いて思い切り伸びをした。ここまでで書き写したのは未だ序盤である。毎回通えばいいのだろうが、やはり手元に辞書が欲しいと彼女は切実に思った。その為にも大使との面会で何としてでも資金を引き出さなければいけない。
「随分と熱心ですね」
ボジェナは声を掛けられ振り返った。そして慌てて立ち上がりフリードリヒに一礼をする。
「ご機嫌麗しゅうございます、殿下」
「どなたにレヴィ語を教わったのか存じませんが、それは適切ではありません」
フリードリヒの言葉にボジェナは困惑をした。
「ご機嫌麗しゅうは基本的に別れの挨拶です。出会いの場合に使えない事もありませんが、不愛想な私に対して使うと嫌味に聞こえます」
フリードリヒの言葉をどう受け止めるのが正しいのか、ボジェナは迷った。ここはもしかして笑う所なのかもしれない。それとも不愛想ではないと言うべきなのか。しかしフリードリヒは決して愛想良くない。
「申し訳ありませんが、正しい挨拶を教えて頂いても宜しいでしょうか」
迷った末、ボジェナは教えを乞う事にした。これもまた機嫌を損ねる可能性を孕んでいるが、彼女はフリードリヒに対しては変に見繕わない方がいい気がしたのだ。
「おはよう、こんにちは、その辺りで結構です」
「それは軽々し過ぎませんか?」
「私は王位継承権を持ってはいますが、絶対に王位は転がり込んできません。誰も口にはしませんが、心の中では皆がそう思っています」
フリードリヒは無表情だ。悔しそうな様子はない。ボジェナは首を傾げた。
「絶対とは言い切れないと思いますけれど」
「それが言い切れるのです。陛下はそう言う男ですから、甘く見ない方がいいですよ」
フリードリヒの言い方だとエドワードが冷淡な王に聞こえる。しかしボジェナには妻と仲睦まじい男性という印象が強い。そもそも彼女は自国とレヴィ王国の差を理解している。大国の国王を決して甘く見る気などない。
「甘く見るなんて、そのような失礼な事は致しません」
「貴女の手に負える人ではないとご理解頂けたのなら結構です」
「それを伝える為に、わざわざいらっしゃったのですか?」
ボジェナはエドワードの側室になる気はない。そもそも無謀だとわかっている。何度も念押しされるのは面白くない。
「いいえ。学生生活について話そうと部屋を訪ねたらこちらだと聞いて来ました」
「侍女のバルバラに言付けて頂ければ、私から伺いましたのに」
学生寮から図書館はそれなりに距離がある。ボジェナはフリードリヒを歩かせてしまった事を申し訳なく思った。
「こちらに来る予定でしたので構いません。それに熱心なのもわかり良かったと思っています」
フリードリヒは机の上に広げられている筆記帳に視線を移す。そこには調べたいレヴィ語の横にレヴィ語とメイネス語の二ヶ国語で意味を記してある。ボジェナは恥ずかしくなって慌てて筆記帳を閉じた。
「別に閉じなくてもいいと思いますが」
「急いで書き写したので綺麗に書き留めていないのです。ご容赦下さい」
ボジェナの字は綺麗である。しかし時間が惜しかったので、筆記速度を重視した最低限の字だ。誰かに見せられるものではない。
「毎回こちらに来て調べるのは大変でしょう。その辞書でよければ部屋に持ち帰って結構です」
「宜しいのですか?」
ボジェナは目を輝かせてフリードリヒを見た。彼は相変わらず無表情である。
「レヴィ語を母国語としない国から留学した人には辞書を貸す制度があります。どの学部にしても、専門用語は触れてみないとわかりませんからね」
ボジェナはこの大学の素晴らしさに改めて感動をした。学力さえあれば他国の人間を受け入れるだけでなく、大学生活に必要な物を無償で与えてくれる。
「残念ながらメイネス語の辞書はまだないので、レヴィ語でわからない事があれば尋ねて頂いて結構です」
「ナタリー王妃殿下からメイネス語が少しわかると伺いましたが、何故勉強をされたのでしょうか」
ナタリーに説明を受けた時からボジェナは疑問に思っていた。大国が小国の言葉を学ぶのは普通ありえない。通訳を簡単に用意できる王族なら尚更だ。
「妙に外国語を好む義姉がいまして、彼女に巻き込まれたのです」
ボジェナはフリードリヒの言葉を何とか理解しようとしたが、答えには辿り着けなかった。言語学者だとしても、レヴィ人がわざわざメイネス語を選ぶとは思えない。彼女の疑問を感じ取って彼は続ける。
「その義姉は各国の言葉をレヴィ語に置き換える辞書を作っています。公国語辞書の作成を手伝った後、メイネス語に注目されたのですよ」
「何故メイネス語なのでしょうか」
「義姉曰く、公国語に近いらしいです。国が隣接していないのに近いのは何故だろうと、言語学者のような事をしています。教授ではありませんが」
「教授ではないのですか?」
「二児の母ですし、兄の職業上難しいでしょう。ただ、たまに大学へ顔を出されますから、宜しければ紹介しましょう」
「ちなみに他国の方ですか?」
「ガレス王国出身です」
ガレス王国はレヴィ王国から分離した国である。一時は戦争をしていたものの、現在は友好的だ。元々同じ国だったので言葉に差がなく、交流も盛んである。
ボジェナは先日フリードリヒから異母姉には恵まれたと聞いたが、義姉にまで恵まれているのが羨ましく思えた。彼女は異母兄弟姉妹の配偶者との交流などなかったのである。
「機会があれば宜しくお願いします」
「わかりました。それと窓口でこれを渡して下さい。辞書は一冊しか借りられませんが、変更は何度でも可能です」
フリードリヒに差し出された用紙をボジェナは受け取った。そこには辞書貸出許可証とあり、ボジェナの名前と学部が記載されている。
「ありがとうございます」
「用件は以上ですので失礼します」
ボジェナは挨拶に迷った。ここはご機嫌麗しゅうを使うべきか、砕けた言葉にするべきか。しかし一瞬で決めた。
「はい、さようなら」
ボジェナは微笑みながらそう言った。フリードリヒは無表情でそれを受け止めると、そのまま図書館の出入り口へと歩いていく。彼女はその背を見送った後、持ち帰るべき辞書の厳選をはじめた。