陛下からの招待状
ボジェナは一日の予定を終えて学生寮の階段を上っていた。初日という事もあり授業も本格的に始まったわけではないが、レヴィ語に不安が残る彼女の足取りは重い。日常会話は問題ないものの、専門用語までは手が回っていない事を思い知らされたのだ。それは彼女にレヴィ語を教えてくれた者の本職が、商人だったので仕方がない。
言葉を理解する為には辞書が必要だが、決して安いものではない。ボジェナは今日受け取った教本が半分程読めない事をどう打破するか悩んでいた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
ボジェナは部屋に入るなり、テーブルに荷物を置くとソファーに身体を預けた。元々母国では勉強ばかりしていたので、体力はあまりない。それなのに部屋が最上階にあるので階段を上るのも一苦労である。
「お疲れですか?」
「低い所に暮らせないものかしら」
「お部屋の場所は身分で決まっているそうですから難しいのではないでしょうか」
「メイネス第三王女に価値なんてないのに」
ボジェナは大学内ですれ違った人々を思い出していた。その者達と比べても、自分の身なりは決して良くはない。フリードリヒに貰ったカーディガンのおかげで多少ましに見えただけだ。
「その羽織物はいかがされたのですか?」
「フリードリヒ殿下に頂いたの。大学の風紀が乱れないように用意したと言われたわ」
「あのドレスを見れば妥当な判断ですね」
ボジェナはバルバラの言葉にはっとする。確かにフリードリヒは昨日のドレスを見て用意したと言っていた。ボジェナはフリードリヒが口下手な人間なのだろうと思っていたのだが、言葉の意味そのままの気がしてきた。
「あのドレスがなくとも、ボジェナ殿下のお召し物は全て洗濯のし過ぎで縮んでいますし、やはり新しいものを用意された方が宜しかったのではないですか」
「お金があるなら辞書が欲しいわ」
「そのようにいつも書物を買われるから身なりが整わないのですよ」
聞き飽きたバルバラの小言をボジェナは聞き流す。ボジェナもお洒落をしたくないわけではない。だが生きていく為に取捨選択した結果が現状なのだ。
「バルバラはお金持ちの男性を見つけて結婚して頂戴」
「ボジェナ殿下はどうされるのですか?」
「医者として生きていくわ。その為に今必要なのは服ではなくて辞書なの」
二人が言い合っていると扉を叩く音がした。
「失礼致します。国王陛下からボジェナ殿下宛の招待状をお持ち致しました」
扉の向こうから聞こえてきた内容が理解出来ず、ボジェナとバルバラは顔を見合わせた。招待状というレヴィ語は知っているものの、二人には無縁の言葉である。しかし使者を待たせるわけにはいかないので、ボジェナはバルバラに扉を開けるよう手を振った。
バルバラが扉を開けると、一人の青年が立っていた。彼は近衛兵の服装ではなく、貴族子息の出で立ちである。ボジェナはまた身分不明の者が来たと頭を悩ませつつ、ソファーから立ち上がった。
「お初にお目にかかります。私はスミス公爵家当主リアンの弟、ダニエル・スミスと申します。以後お見知りおきを」
ダニエルはボジェナに向かって一礼をした。公爵家と聞いて彼女は身構える。メイネス王国は小さいので、大国レヴィ王国の公爵家となると、どちらの身分が上かはっきり言い難いのだ。それでも当主の弟ならばそれほど権力はないだろうと判断をした。
「初めまして、ボジェナ・ポトツキです。何故貴方が招待状を?」
「兄は陛下の側近をしておりまして、私は兄の仕事の補佐をしているのです」
ダニエルは柔らかくボジェナに微笑む。暗めの金髪に琥珀色の瞳を持っているせいか、彼女は優しそうな印象を受けた。
「こちらをどうぞお受け取り下さい」
ダニエルに差し出され、ボジェナは封筒を受け取った。彼女は母国で勉強しかしていなかった為、招待状を受け取るのは初めてである。
「どのような招待状なのかしら」
「来年陛下の在位五年記念式典が催されますので、その招待状にございます」
予想外の招待にボジェナは身体を強張らせた。謁見の時に身に着けたドレス以外を持ち合わせていない彼女には、あまりにも荷が重い話である。
「他国の者が出席してもいいのかしら」
ボジェナは何とか断る道を探ろうとした。流石に記念式典にあのドレスを着ていけない事は彼女にもわかる。
「問題ございません。王妹サマンサ殿下が嫁がれたアスラン王国の方も御出席されますし、シェッドからは皇妃殿下がいらっしゃる御予定です」
ダニエルは優しい笑みを湛えたままだ。ボジェナは困惑した。シェッドの皇妃殿下はナタリーの母なので血縁である。ここでレヴィ王家と無縁の自分が招待される理由がわからない。
「難しく考える必要はございません。色々な繋がりを作るには絶好の機会だと思います」
「繋がり?」
「えぇ。己の立場を利用されてはいけません。自分の事を正しく理解してくれる人脈こそ宝になります」
ダニエルは良かれと思って言っているのだろう。だがボジェナは純粋に学びに来ただけなのに、煩わしい事に巻き込まれそうな話を聞いて内心うんざりした。
「周囲が何を言おうとも振り回されないようにお気を付け下さい。レヴィ王国は以前と比べて穏やかになったとはいえ、貴族同士の諍いがなくなったわけではございませんので」
「貴方も派閥争いに苦労をしているの?」
「私は兄の後ろに隠れていますから穏やかなものです」
「お兄様が権力者という事かしら」
ボジェナの言葉にダニエルは笑みを零す。
「兄に権力者などという言葉は似合いません。機会があれば紹介致しましょう。それでは失礼致します」
ダニエルは一礼をすると去っていった。ボジェナは封を切って中を確認する。断る術がないのなら、せめてドレスを何とかしなければいけないが、猶予がどれくらいあるのかを知りたかったのだ。
「新しいドレスを用意するのに、どれくらい時間がかかるの?」
「ドレスによるとは思いますけれど、半年あれば大丈夫かと思います」
バルバラの言葉にボジェナは表情を曇らせた。ボジェナはまずお金を持ち合わせていない。来春の招待状なので約半年の猶予はあるものの、金策を今から始めて仕立てまで間に合う気がしなかった。
「あのドレスを何とか加工出来ないかしら」
「加工は難しいと思います。同じ素材の羽織物なら自然になるでしょうけれど」
バルバラの言葉にボジェナは唇を歪めた。ドレス一着よりは羽織物の方が早く仕立てられるだろう。しかし素材が素材だけに合わせるとなると、それ相応の価格になる。
「辞書代も含めるといくら必要になるのかしら」
ボジェナは何の役にも立たない王女という肩書が邪魔に思えて仕方がなかった。特待生の権利は自力で勝ち取っている。王女でさえなければ低い階で暮らせたはずだ。
「ちなみに頂いた羽織物はそれだけですか?」
「そうだけど、それが何?」
「今から洗濯をして明朝までに乾くとは思えなかったものですから」
バルバラの言葉を受けて、ボジェナは羽織物を脱いだ。
「羽織っていただけだから数日は平気でしょう」
「同じ羽織物を洗濯もせずに何度も着用されるおつもりですか」
「毎回洗濯をするから縮むのよ。回数を減らしなさい」
「王族であられるのに、そのような発言は如何かと思います」
「それなら国からお金を貰ってきてよ。この留学にメイネスがいくら出したと思っているの?」
ボジェナにそう言われてバルバラは言葉に詰まった。この留学に関してメイネス王国が負担したのは例のドレスと馬車の手配だけである。受験に関しては受かると思われておらず、ボジェナは自分の生活費から捻出していた。更に馬車は昨日レヴィ王宮から戻ってきた後で国に戻っており、現在ボジェナは徒歩以外の移動手段を持ち合わせていない。
ボジェナはため息を吐くと、今朝のフリードリヒの言葉を思い出した。冷静に考えれば、彼の言い分は筋が通っている。そしてそこに目を向けないメイネス王国の未来は明るくないのだろう。彼女も薄々国が傾き始めていると感じている。医者になって母国に帰ったとしても、医療費が支払える国民は多くない。国が治療費を負担してくれればいいが、難しいだろうと彼女は思っている。母の命を救ってくれなかった父が、国民を救うとはどうしても思えなかったのだ。