世話役の範疇
ボジェナは講義が終わった後、図書館にある自習室で辞書を片手に勉強をしていた。自習室は一人用の部屋と四人用の部屋があるが、彼女は広げる資料が多い為、一人で四人用の部屋を使用している。少しずつ専門用語には慣れてきても、他国語の知らない言葉を理解するのは簡単ではない。彼女は医学部を目指して勉強をしてきたが、医学そのものの知識は皆無なのである。
「少し宜しいでしょうか」
自習室には仕切りはあるものの扉がない。壁を軽く叩いたフリードリヒがボジェナの前に腰掛ける。彼女は手元の辞書と教本と筆記帳を重ねるように閉じた。
「問題はありませんか?」
ボジェナは一体何に対して尋ねられているのかわからず、フリードリヒを見つめる。
「ライラ姉上は自由が過ぎるのですが、話せばわかってくれます」
「その件でしたら親身になって頂いて嬉しい限りです」
一回では何も覚えられなかったボジェナに、ライラは定期的に教えてくれると約束をしてくれた。スミス家の夜会には間に合わなくても、来春の式典までには形にしようとボジェナも決意していた。医者に踊りなど必要ないが、ライラと定期的に会いたいと思ったのだ。
「ライラ姉上は貴族社会から逃げている人なので、レヴィの常識とは違うと念頭に置いて下さい」
「しかし素晴らしい踊りでしたよ」
「ガレス王国の公爵家の生まれなので所作等に問題はありません。考え方が違うのです。そもそも陛下の招待状を断る権利など持っていません」
「ドレスを手配しておりますから式典には出席致します」
この国で一番偉いのは国王であるエドワードだという事くらいボジェナにもわかる。そもそも式典に出席しなければ、メイネス王国から生活費を返せと言われかねない。故に彼女は欠席という選択肢を既に持っていない。
「それなら結構です。スミス家の夜会はどうなさるのでしょうか」
「そちらはダニエルさんが迎えに来てくれる事になっています。殿下も出席されるのですか?」
「未定です」
「それではセオドア様も未定なのですね」
「何故ここでセオドアの名が出てくるのでしょうか」
フリードリヒの問いにボジェナは戸惑った。別に彼女もセオドアの動向など気にしていない。ただ話の流れで確認しただけなのだ。
「側近というのは一緒に行動されるものではないのでしょうか」
「私とセオドアは特に一緒に行動しません」
ボジェナはレヴィ語の側近の意味を理解出来ていないのかと不安になった。迷ったものの、思い切って尋ねてみようと彼女はフリードリヒを見つめる。
「側近とは側に仕える者、という意味以外もあるのでしょうか」
「いえ、それで合っています。ただセオドアは私に仕えている気はないでしょう」
ボジェナは二人のやり取りを思い出した。確かに主従というには砕けていた気がする。しかし友人でもしっくりこない。
「それでは何故セオドア様は大学に入られたのでしょうか」
「私の側にいた方が王家と接する機会があると思っているのでしょう」
フリードリヒの言葉に、ボジェナは二人の関係性を垣間見た気がした。何か打算があって側にいるセオドアに、フリードリヒは心を許していないようだ。以前ダニエルにも忠告を受けた。彼女の想像を超える争いがレヴィ王国の貴族社会ではあるのだろう。
「そうですか。私は勉強ばかりしていたので、そういうのに疎くて申し訳ありません」
「別に構わないと思います。貴族社会に関わらなければいいだけの話ですから」
フリードリヒは相変わらず無表情だ。ボジェナは彼の真意を読み取れない。しかし王家に生まれた者が、貴族社会に関わらず生きていけるとは彼女には思えなかった。
「そのような事が出来るのでしょうか」
「私はその道を探して大学に六年在籍しています」
「大学は四年制ですよね?」
「そうですね。教授になるには更に二年必要で、今はその課程を修めています」
ボジェナは目を見開いた。在学六年目の謎が解けたものの、まさか教授になる為だとは思っていなかったのだ。王女でありながら医者になろうとしている自分もどうかと思っていたが、フリードリヒの方が余程許容出来ない話に聞こえる。
「教授にはなれるのですか?」
「それは陛下次第でしょうね」
国立大学なので最終的な判断は国王に委ねられている。普通の国王なら回ってきた書類に判を押して終わるだろう。しかしエドワードは全ての書類に目を通す事で有名である。フリードリヒが教授に推薦されたとしても、エドワードが許可しなければその道は潰える。
「レヴィ王国はメイネス王国のように絶対王政ではないのかと思っていました」
メイネス王国は富が国王に集中している。しかしレヴィ王国は違うようにボジェナは感じていた。商業地区を歩けば経済が豊かなのは肌で感じられ、人々も明るい表情の者ばかりだったのだ。圧政をしているとは思えなかった。
「権力は国王に集中しています。ただ、陛下は臣下の意見を聞き入れる耳を持っています。勿論、やりたくない事には首を縦に振りませんけれど」
「やりたくないとは減税でしょうか」
メイネス王国は国民を生かさず殺さずの重税である。しかしボジェナにそのような詳しい事情を知る術はない。ただ何となく、やりたくない事と言われたら減税しか思い浮かばなかっただけだ。
「陛下はその辺りの感覚は優れていると思います。嫌がるのは主に個人的な事ですね」
フリードリヒの淡々とした言葉にボジェナは視線を下げた。メイネス王国がしつこく側室をと交渉している事を暗に言われているのだろうと思ったのだ。しかし彼女はすぐに彼を見つめた。ここで黙るのは得策ではないと判断したのだ。
「それでは国の為になると思われれば、殿下は教授になれるという事ですね」
「そうなります。今は実績を重ねている所です」
「公務をされていると伺いました」
「それはまた別です。大学生活に必要な生活費を稼いでいるようなものです」
フリードリヒの言葉にボジェナは衝撃を受けた。彼女は自国がお金を出してくれない事に憤っていたが、自分で稼ごうなどとは思ってもいなかったのだ。彼女は彼の前に居る事が恥ずかしくなってきた。
「素晴らしい心構えですね」
「私は特待生ではありませんから。入学試験で最高得点を取られた貴女の方が素晴らしいと思いますよ」
フリードリヒの言葉に嫌味は感じられない。努力を認められたようでボジェナは嬉しかった。自国では特待生入学がいかに難しいか、誰も理解してくれなかったのだ。
「ありがとうございます」
「宜しければ調べ物を手伝いましょうか」
フリードリヒはボジェナの手元に視線を移した。辞書で調べるよりは聞いた方が早い。しかも彼は同じ医学部なので専門用語も全て把握しているだろう。
「お忙しいのではありませんか? 先日も時間を拘束してしまい申し訳ありませんでした」
先日の講習会の日、結局最後までフリードリヒは同席していた。しかしボジェナは思うように動けず、男性役など必要なかったのだ。
「人に教える素質があるのかを知りたいので構いません」
ボジェナはフリードリヒの言葉をそのまま受け止めていいのか迷った。勉強が出来るからといって、誰もが教えられるものではない。自分が学ぶのと人に教えるのでは勝手が違う。だが、折角の好意なので彼女は素直に受け止める事にした。自分で調べるよりも聞いた方が早いのは間違いない。それに先日言っていた世話役の範疇になるのかもしれないと思えたのだ。
「それでしたらお言葉に甘えさせて頂きます」
ボジェナは早速閉じていた教本などを開いた。急にフリードリヒが自分と接するようになった理由など彼女にはわからない。しかし忙しいと言ったのはセオドアであり、フリードリヒは最初から世話役を全うするつもりだったのかもしれない。彼女は深く考えるのを止めて、わからない言葉を次々とフリードリヒに質問していった。
 




