瀬戸際
島根大学出雲キャンパス みらい棟
「プレパンデミックワクチン接種の進捗は?」
中林教授の声が響き渡った。彼女には全く悪気は無いのだろうが、地声が大きい。そして最後まで言わずに省略するので、ぶっきらぼうに聞こえる。つまり印象は悪い。
だが、彼女の生気溢れる振る舞いで、周りの人間は元気づけられる。
「事務方も含めてこの棟の接種は完了しています。タミフル、リレンザ、アビガン他国家備蓄薬の配送も予定通り進んでいます。」
「紅林助教授、ありがとう。」
咳ばらいを一つすると、より大きな声で話し始めた。
「今回のH5N1亜種は成人に対しても、致命的なインフルエンザ脳症を起こすことが既に判明している。現時点での発症後の致死率は約60%。ほとんどの死因が急性脳症だ。これに早急に対応することと、重症化しないよう発症直後に抗インフルエンザ薬を投与することが求められている。」
信じがたい致死率だが、現実だった。
「紅林助教授、補足は。」
「治療法については無制限の情報開示が許可されています。目新しいものとしては、低体温の採用がありました。」
「脳外科ではなく、感染症治療で低体温か。詳しい資料を集めておいてくれ。それに、低体温環境が手術室他で実施可能か至急調べて欲しい。必要な機材リストも含めてだ。…30分で頼めるか?」
「わかりました。可能な限り早急に実施します。」
彼女のスイッチが入った。私たちは全力で彼女をサポートして、成果を最大にする。
「インフルエンザウイルスは大湿度で不活化する。これより救急搬送患者は全てみらい棟でトリアージを行う。加湿器及びモニターの設置を大至急実施。実施まではインフルエンザ症状の患者受け入れを一時中止する。他の救急受け入れ病院にも同じ処置を行うよう連絡。うちは何分待たせばいい?」
私は建物管理者及び事務方を確認して応えた。
「15分ください。」
「早いな。…では任せる。島根大学医学部付属病院は15分後から、新型インフルエンザ疑い患者も含めて受け入れをみらい棟で開始する。県並びに救急本部へ連絡。」
事務方がすぐに連絡を始める。
「県と自衛隊の連絡員は?」
最前列で手が4つ上がった。
「全病院で、湿度の確保を必ず行うように周知。プレパンデミックワクチン未接種のところはインフルエンザ症状患者の受け入れ禁止と、受け入れ可能病院の周知も。事態は一刻を争う。ここで食い止めないと、…終わるぞ。」
周囲の心配そうな顔に目をやり、言ってしまったことに気が付いたようだった。
「…まあ、大丈夫だよ。さあ、始めようか。」
島根県出雲市多伎町
『島根県全域に新型インフルエンザ警戒警報と移動中止命令が出ています。湿度を高くし、手洗いうがいを行いましょう。インフルエンザが疑われる症状がある方は、911番通報をしてください。繰り返します。…』
防災無線から1時間毎に注意喚起が流れてくる。
松岡 正は独り暮らしのアパートで、高熱で臥せっていた。多分防災無線のインフルエンザ症状なんだろう。勤務先の工場には病欠すると伝えてあるが、3日目の今日は連絡すらできなかった。
きっと、911番通報すべきかもしれないが、もう起き上がる気力も体力も無かった。
うとうとしていたが、ドアを激しく叩く音で目が覚めた。
「松岡さん、いたらドアを開けてください。」
音が止むと大きな声が聞こえた。
「松岡さん、勤務先から通報がありました。あと2回の呼び掛けて回答が無い場合、強制確認します。関係法令に則って履行します。」
応える元気は無いよ。むしろ、早く助けてくれ。
法令に則って、もう3分待たされて救いは来た。完全防護の集団で。
島根県庁危機管理センター
「現況は?」
室田知事は落ち着いた様子で聞いた。
若年寄候補として何度も名前が出ている有能な人とのことだった。官邸との連絡員として詰めている今田からみても、それが納得できる状況だった。
「県外への移動は全面禁止とし、県民及び県内医療機関への指示は終わっている。現況は?」
わかっていることはもう言うなという室田の意図を鑑み、副知事の庵が答えた。
「現在、発症者累計48名、うち重症者18名、死者30名です。これ以外の感染疑い90名です。」
「ひどいな。死因は?」
「免疫暴走により発症する、致命的な急性脳症とのことです。これまでの例と異なり成人にも発生するため致死率が上がっているそうです。」
「対策は。」
「湿度確保によるウイルスの不活化と、発症直後の投薬です。重症者への対応はこれからとのことです。」
「必要な機材は全て投入する。初動で決まると周知して欲しい。情報は全て国とも共有するように。救いがどこから来るのか、わからんからな。」
知事の指示には逡巡が無い。緊急時にこれほど頼もしいことは無い。
「島根大学医学部付属病院を中心に、受け入れ機関の公表と情報公開を進めています。自衛隊からは医療対応として輸送船『おおすみ』が七類港に、同じく『くにさき』が浜田港に入港しました。」
「国からいっているかもしれないが、自衛隊の連絡官にもあらためて全ての情報共有と確認を行ってくれ。今回の場合、初動の齟齬は許されない。君が直接確認してくれ。」
「了解しました。至急実施します。」
知事は頷くと、さっきから鳴りっ放しだった電話にようやく手を伸ばした。
島根大学出雲キャンパス みらい棟
『救急搬送入ります。新型インフルエンザ疑い患者。出雲市多伎町在住の男性32歳。体温40.1度、血圧130-80、脈拍70。GSCはE2V3M4。』
「意識障害が出ている、危ないな。」
「どうします、教授。」
「低体温で管理する。投薬は耐性ができないよう、アビガンのみ投与。準備急げ。」
自身も消毒など準備を進めながら、教授はふと気が付いたように聞いた。
「紅林君、搬送してくる救急車の除染はどうなっているんだ?」
「自衛隊のNBC偵察車と除染車が既に待機しています。」
「早いな。誰の指示だ?」
「知事です。」
「バックアップは万全って訳か。では、我々も全力で対応しよう。」
救急車のサイレン音が近づいて来た。