資格
名古屋大学工学部電子機械工学科 村田研究室
「なぜ我が国が鎖国したのかがわからない?」
「…わかりません。日本はいいところだから、世界中の人に知ってもらえばいいじゃないですか?」
村田は肩をすくめて言った。
「極楽でも天国でも桃源郷でも良い、それが実在するとしたら誰しもそこに行きたくなるんじゃないか?」
「もちろん行きたいですよ。」
「だから、鎖国したんだ。我が国のことを知ってもらう必要は無い。だが、我が国は、危険地域を除いて国民が国外に出ることを制限していない。国民に世界の現実を知ってもらうことは大切なことだからだ。君は国外に出たことはあるのかね?」
「…まだありません。」
院生の棚橋は報告書をまとめる手を止めずに言った。
「では、行ってみることだ。そうすれば私の言ったことが理解できる、生きて帰って来られればだがね。いずれにせよ特段の理由が無いなら、海外渡航暦は被選挙権取得の必須条件だ。今から準備しておいた方がいい。」
棚橋は画面から村田の方に一瞬向けた。
「先生はどこに行ったんですか?」
「私はアジアからヨーロッパまで陸路で行き、アフリカを縦断してから南北アメリカも縦断した。最後にオセアニアを回って帰国したよ、3年くらい旅をしていた。」
今度は画面から目を離し、村田と向き合った。
「すごい、世界を回ってきたんですね。」
「別にすごくはないよ、君も望めば行けるさ。最低でも英語とスペイン語は必須、…最も大切なことは宗教に関しての知識だよ。言語を知らなくても、お互いに身振り手振りで意思疎通はできる可能性が高い。だけど、宗教的なタブーを犯せば、命取りになりかねない。」
「宗教的なタブー?」
「わかりやすい例なら、食べ物だよ。ヒンズー教やイスラム教では禁忌食物がある。行動規範が厳しい教義だってある。そこで禁忌を行えば、処刑される可能性だってある。」
「処刑? 知らなかったのなら仕方がないじゃないですか。」
「そんな正論は我が国では通じるが、国外では違うルールに従わされる。我が国のパスポートや大使館が無力になる時もあるからな。」
「…先生の旅でも、何かあったんですか?」
「もちろん色々あったよ。我が国での常識は世界の非常識なんだよ、特に宗教に関しては。」
「我が国は宗教とそれ以外の政治や教育などが分離されている数少ない国家なんだ。誰が何を信仰していようがお互いに気に留めない。誰かが宗教行事を行っていても気にしない。神社に初詣に行き、クリスマスを祝い、念仏を唱える。全てのモノに神が宿ると信じ、あらゆる神に敬意を表する。これほど宗教に寛容なところは私が回った世界には無かった。」
「どうしてでしょう?」
「人に聞く前に、自分の意見を言ってみよう。間違っているかもなんて心配は不要だ。そもそも正解が確定していない問題なのだから。」
棚橋は少しだけ目を伏せ、話し出した。
「…宗教と、立法・行政・司法を分離できたからだと思います。あ、あと教育もです。我が国では、信じている宗教によって差別されません。」
「私が採点するなら90点以上は確定したよ。」
「宗教が規定しているのは、価値観なんだ。宗教によって善悪の基準も変わるし、世界観も異なる。それが政治や司法に関わってくると、自分の信じている宗教によっては、公正な扱いは望めなくなってしまう。我が国では宗教をそれ以外の権限と分けることで公平性を担保しているんだ。しかも、それを実行したのは織田信長だ。」
「信長が?」
「織田信長はあの時代の人間としては、正直おかしい。…これは誉め言葉なんだがね。楽市楽座は既得権を破壊した構造改革だし、常備兵や鉄砲の活用など近代に近い事を行っている。」
「どうしてそんなことができたんでしょうか?」
「…これは個人的な意見だが、いつの時代にもその時代を超越した思考や方法を理解し実行しようとする天才は一定の確率でいるんだと思う。信長は尾張地方の有力豪族の長男として生まれたので、その力を発揮できた。偉大な才能が無駄にならずにすんだ稀有な事例だろう。」
「そんな才能の有無なんて、わかるんですか?」
「わかるからこそ、我が国は征夷大将軍制度を復活させたんだ。適切な能力をもった人間を選抜し、実務にあたらせた上でさらに選抜する。偉大な才能が国を導く地位についてもらうためにな。」
「わたしでもなれるんですか?」
「もちろんだ。私にだって選ばれる可能性は常にある。…ただ、そのためには被選挙権を持ち、マザーの回答を上回る必要があるけどな。」
「マザーよりも良い回答なんて出せるんですか? 我が国の基幹分野の判断を補助するメインAIですよ?」
「それができる資質を持ったものだけが、若年寄に選ばれる。そしてその中から将軍が選任される。将軍を退任すれば助言と監査を担う老中だ。年齢、性別、学歴、趣味思考、いずれも選別の条件にはならないんだ。我が国の統治者選びは能力主義で公平だよ。」
村田は腕時計を見て続けた。
「今日はここまでにしよう、もう20時になる。ご家族から君の位置情報の問い合わせが来ているんじゃないか?」
棚橋はスマホを確認しながら応えた。
「ええ、もう5回くらい来ていました。まあ、学校だからそんなに心配していないと思いますけど。」
「君は魅力的な女性だから、大学とはいえ連絡も無く遅くなればご家族は心配するよ。」
「性別は関係無いんじゃないんですか?」
「確かに性別は関係無かった、訂正するよ。だが、治安の良い我が国でも全く犯罪が無いわけではない。夜になれば暗くなるし、犯罪は無くなってはいない。パトロールドローンが間に合わない場合だってある。自衛は我が国の国是でもあるからね。」
棚橋はログアウトを確認して荷物をまとめた。
「わかりましたよ、先生。じゃあ、帰ります。」
「私も心配だから、これを持って行きなさい。明日、返してくれれば良いから。」
そう言い、鍵の掛かっていた戸棚からメガネと手袋を渡した。
「…先生、これって?」
「個人用装具だよ。」
「ええ、それはわかります。…でもこれって、まだ研究段階のはずでは?」
「もちろん研究段階だよ。私は先行試作機の評価者でもあるんだ。これまでのところ何ら問題は無く、性能向上に向けて若干意見書をつけるくらいなんだ。それほど遠くない時期に、量産されて支給されるよ。」
「メガネは周辺の赤外線情報とマザーからの補足情報表示装置ですよね、たしか去年先行研究していた。」
「そうだよ。他大学の研究成果も踏まえた試作機がそれだ。処理能力が格段に上がり、情報表示が簡潔でわかりやすくなっている。」
棚橋それを聞いてメガネを装着し、色々試している。
「こっちの手袋は何ですか。これは見たことも聞いたこともありません。」
「それは高電圧で帯電しているんだ。一定の動作で絶縁が破れ、次に接触している何かに放電する。それが生き物なら気絶することは間違いないよ。片手ずつ使えば2回使用できる。」
「使われた相手は死にますか?」
「静電気と同じだから、死ぬことはないよ。とっても痛いから、次に何かしようとは思わなくなるよ。まさに自衛の道具だね。」
「使う手順を教えてください。」
「強く拳を握りしめれば、絶縁が破壊される。次に手袋の手のひら部分に触れたものに大電圧が解放される。」
「両手を同時に行えば、倍の効果ですか。」
「君はやはり優秀だね。両手1組で掛かっている電圧は正負それぞれだよ。そうしないと生産するのも大変だ。わざわざ効果を半減させるのも無駄なことだからね。結果として効果は倍となる。」
「使わずに済むよう、気をつけて帰ります。」
もしも彼女を襲うものがいたら手ひどい教訓を得ただろう。試作品には複数のドローンによる監視がつくし、試作品そのものの攻撃力も結構ある。そして彼女自身も護身術として拳法の有段者だ。制御された力を備える、我が国が掲げる自衛そのものだった。
海上自衛隊第3潜水隊群所属潜水艦『こうりゅう』魚雷室
「使用される可能性があるのは、BC以外なら中性子兵器だな。」
堂上曹長の予言に、眉をひそめて巽一士が聞いた。
「どうして断言できるんですか?」
「簡単さ、我が国の領土そのものに価値はあまり無い。島国で平地も少なく、地震や噴火など天災も多い。美味しい食べ物も多いがね。こんな環境なのに好んで生活する奴らはそもそもおかしいだろ、我々のことだがね。」
「我が国のインフラを破壊すれば、我が国の価値も相当損なわれる。誰かにとって一番良い方法は、設備は残して我が国民を奴隷として使うことだよ。自分たちでは、まともに稼動させられない可能性の方が高いとわかっているんだろう。」
「…なので、全てを破壊する熱核兵器は使うことは無いってことですね。」
「使う可能性は0じゃない。手に入らないなら、壊してしまえと考える人間もいるだろうからね。もしくは、誰かに渡すくらいなら、壊してしまえと考えるかも。」
「そんなの、ただの子供じゃないですか!」
「…残念だけど、それが現実だよ。みんなが理性的に行動する訳じゃない。むしろ感情に訴えた破壊的なものにこそ、惹きつけられてしまう傾向にあるんだ。」
「それじゃあ救いが無い。」
「無いね。だからこそ我が国は、資格者をはっきりと選別したんだ。」
堂上は82式短魚雷を撫でながら続けた。
「基準AI以上の回答が出せない国民には選挙権も被選挙権も与えていない。単純な記憶力や前例踏襲で導き出せる答え以上の答えを示すことができる人間だけが、我が国の指針を決める資質のある人間であると決めた。そしてこの資格は常に資質を問われ、容易に剥奪される。」
堂上は巽を見ながら続けた。
「そして自ら望まない者には、その資格は与えられない。…その理由はわかるよな?」
「責任を負う覚悟が無い者には、自身以外の命運を委ねられないからです。」
「その通りだ。だからこそ我々も含め警察や消防の仕事ができる者も、同じ有資格者に限られている。」
「他国からは、身分差別と言われていますけど。」
「差別じゃない、区別さ。我々は江戸時代の士分、侍だ。いざという時には我々以外の人達のために前に出て対処する。平和や安全が続くよう常に考え、備えている。みんなが同じことをしなくてもいい。我々は選ばれ、そして自ら選択した。国家を支え、国民に奉仕したいと。危険を顧みず、彼らを守りたいと。そんなバカの集団が俺たちなのさ。」
堂上は笑いながら付け加えた。
「巽はまだ、実戦経験は無いんだよな。」
「そうです。」
「実戦は演習とはもちろん違う。演習は何かの間違いで死ぬかもしれんが確率は低い。実戦では生き残り続けることの方が難しい。なんせ死はたった一回しか来ないが、それで全部終わりになっちまう。」
巽は堂上の制服についている勲章に目を向けた。この人は生き残ってきた侍なんだ。
「まあ、気負わず自分の仕事をするんだ。そんでな…。」
堂上は気恥ずかしそうに続けた。
「死神ってのは、自分から逃げようとする奴を捕まえるのが好きみたいだ。立ち向かったり無視する奴は後回しになってるみたいだぞ。まあ、お前も覚悟を決めることだ。」
堂上は巽の肩をバンバン叩いて、去っていった。