幼児が好きなお前らでも、なろう小説の幼児が気持ち悪いわけ
お気に入りユーザーにさせていただいている方の活動報告を見てモヤモヤがはれた気がしたのでエッセイを書きたいと思います。
さて、例え話になるのはなろうの小説でよくある転生もの。
それの中で感じたことはないでしょうか。
この作品に出てくる主人公は明らかに子供として異常に感じるのに登場人物はなにも疑問に思わないのか、と。
別に転生ものに限った話ではありません。
小説で幼児やら子供に対して感じる気持ち悪さとは一体何なのか。
そして、感想で作者に対して批判がなぜ殺到するのか。
私の中で出た答えは正直に言いますと、描写不足、になるのだと思います。
誰しも、子供と接したことはあるでしょう。
そんな彼等、特に1歳~5歳くらいまでは成長にかなり個人差があると思います。
小さな子でも自己紹介から受け答えまでしっかりできる子もいますし、逆に言えば大きくてもそれらができない子はいます。
そんなとき、小さい子がしっかりしていたら気持ち悪く感じますでしょうか?
勿論、表情が抜け落ちた人形のようで、目に生気は無い、だというのに受け答えは大人顔負け……なんて現実であったら気味が悪いと思いますが現実では微笑ましさやかわいらしさ、あとはませガキだったら多少の苛立ちとかの感情でしょうね。
では、小説でなぜ気味が悪い、気持ちが悪いと思ってしまうのか。
それは、普段私達が目で、耳で、鼻で、肌で、感覚を全て使った情報を得ているのに対し、小説では文字という情報でしか感じ取れないからなのでしょう。
2歳の子供が話す際にしても
「ママおなかすいた」
「ママ、お腹空いた」
の2パターンを見た場合、下から感じ取れる情報と上から感じる情報で脳内に描かれる幼さというのは全くの別物になるというものです。
また読み物としては読みづらくて最悪ともいえるでしょうが、舌ったらずを表現する。
「まま、おなーすーたー」の様な感じでしょうかね。
話を戻しましょう。
読者が、作中の人物に疑問を抱く点は気味の悪さを持たないのか、というものです。
おそらくですが、感じないのではないでしょうか。
それは作者様と読者での乖離によって起きるものなのでしょう。
作者様の中で作り上げられたものと、読者が文を読み頭の中で再生されたものは全くの別物になるわけです。
作者様が頭の中で家族団欒のシーンを思い描いていても、文章から感じることは違う。
文章から省かれた詳細な情報が抜け落ちる為に起きるものなのでしょう。
勿論、それを描いていては文章は冗長になり、幼児が出るだけで読むのも面倒な文章になってしまうでしょう。
そもそも、子供、という要素は結構人を選ぶらしいもので、デッドスペースという海外製FPSに出てくる子供や胎児が地球外生物に寄生された敵は、人によってはかなりの生理的嫌悪を催すらしいです。
まあ、それはちょっと違いますが、読者が感じているのは生理的嫌悪感の様な気がしてならないのです。
例えば、作中で子供と明言されていても、子供の我儘の描写がなぜか酷く不愉快に感じたりしませんでしたか。
それは至極当然であるにも関わらず、不快さがどうも方向性の違う不快さだった時はありませんか。
多分それが、作者と読者のズレなのだと思います。
私の話ですけど、とある小説で小学六年生位の子供が異世界転移した話がありましたが、境遇やら何やらで理由づけをしていても、主人公の性格(言葉づかいや行動含む)には生理的嫌悪があり、読むのをやめてしまいました。
それが大人であれば何も感じないですし、どうせフィクションなのだからと言ってしまえば終わりではあるものではあります。
しかしながら、私としては納得できたのです。
発達についての指摘、はっきり喋れるのはおかしいだとか、歩けるはずがないだとかに関しての指摘は自分の気持ちにも、作者様にとっても的外れのものなのだな、と思いました。
決して作者様を貶したり、貶めていたり、というものではないのです。
ただ、どうして気持ち悪く、気味悪く、嫌悪を感じてしまうのか。
その理由は私達が普段子供から感じるはずの情報が全く足りていないということなのだと、私は思ったのです。
もし、貴方がそう言った作品に出会った時、自分のなにに疑問を感じているのか、不快に思っているのか、それを胸に手を当てて良く考えてほしいのです。
もしそれができたら、自分の中で咀嚼して飲み干せるようになるかもしれません。
まとめ。
子供の登場人物が気持ち悪く感じるのは描写不足と作者と読者の間にある認識のズレ。