[完結]1-B 最終話 いつものホームで違う景色を 前編
「だからソレ、直しましょう」
彼女はかけてもいないメガネの縁をずり上げるポーズを取る。お気に入りなのだろうか。
「直すって言われてもなあ……いつからネガティブ思考になったかとか覚えてねえし、今さら変わるもんでもないだろ」
「やってみないと分からないよ? そうだなー……起きたことは変えられないんだから。せめて起きたことをすべてマイナスに考えないようにしたら?」
「ポジティブシンキングってやつか?」
「いやーどうだろう。なんでもプラスに考えるのもどうかと思うんだよね、私は」
「どっちなんだよ」
「『どっちか』じゃないんだよ。『どっちも』なんだよ。マイナスにだけ捉えても、プラスにだけ捉えても上手くいかないと思うんだ。分かるかなー?」
「うん、分からん」
「うーん……そうだね、起きたこと自体は変わらなくても、起きたことをどう感じるかは、個人次第だよね? そこを意識すれば、感じることを変えられるでしょ?」
「なんだなんだ気の持ちようとか言う気か? んな当たり前なこと今さら言われてもなぁ」
「当たり前……そう、当たり前なんだ」
彼女は突然足を止めてうつむいてしまった。急な停止に、彼も足を止めて向き直る。
「うん?」
足を止めたかと思えば、彼女は急に動き出した。つかつかと彼に向かって歩み寄ると、お互い息がかかるほど近くへと肉迫する。驚く彼など気にせずに、彼女は笑顔で切り出した。
「今当たり前って言ったよね?」
「言ったがそれが――」
「なら、今から出来るよね?」
「それは……」
「『当たり前なら出来る』よね?」
自分が得意とする流れに引き込めたからなのか、彼女の瞳はらんらんと輝いていた。まるで言質が取れたかと言わんばかりに、ぐいぐいと押し込んでくる。
「どうだろうなぁ」
「で・き・る・よ・ね!?」
「……善処シマス」
「よろしい」
どうにも彼女には勝てない。彼の同意を確認すると、彼女はイタズラが成功した子どものように笑った。それは歳相応の、あどけない笑顔だった。
彼と彼女は空中回廊を渡りきった。終わってみれば、案外短い夜だったように思う。
「君は、そっちに行くのかい」
「うん。高梨君……ちょっとした顔なじみが巻き込まれちゃってるみたいでさ。オジサンみたいに自分が中心になってこの世界に迷い込むタイプじゃなくて、巻き込まれるタイプ。だから気合入れてかないと」
「高梨? 奇遇だな、俺も高梨っていうんだよ」
「……知ってる」
これには首をかしげてしまう。彼は彼女に名乗った覚えがない。なのに名前が知られている。
「あれ、俺名乗ってたっけな?」
「まあまあ細かいことは気にしない気にしない」
そう言うと彼女は彼の背中を押し始めた。『早くホームに行け』と言外に伝えてくる。
何かを誤魔化したがっているように思えるが……ここは流されることにしよう。
「そうか……気が利いた事言えねえけどよ。お嬢ちゃんなら大丈夫さ」
「『お嬢ちゃん』って言われるとホントオジサンって感じがするから止めて欲しいかな」
「それを言うならオジサンオジサン言うけどよ、俺実はまだ二十代なんだけど」
「嘘!? ごめん全然見えない」
「老け顔で悪かったな! ……まあ頑張ってな」
「あはは……ありがと。頑張ってくる」
彼と彼女は空中回廊を渡りきり、そして別れの挨拶をした。彼は駅のホームへと、彼女は別の『何処か』へと。この世界から進んでいく。
「そうだ、はいコレ」
「……っと。なんだ、またみかんジュースか?」
彼女から投げ渡されたのは、最初に出会った時と同じくみかんジュースだった。
「オジサンがミカン投げてる間、暇だったからさ。隣に自販機あったし、ついでだよついで」
「ありがとよ……これだけじゃなく、色々と。ホント君がいて助かったよ」
「いえいえ。これが私の役目ですから……きっとオジサンじゃない誰かがオジサンと同じ目にあってたとしても、今夜と同じことをしたハズだよ。だから、勘違いしないでね」
「辛いねえ。そこは勘違いさせて欲しかったわ~」
彼はそう言うと肩をすくめ、駅に向かって歩いて行った。そのせいか彼女が最後に小さくつぶやいた声は、彼の耳には届かなかったようだ。
「……まあ、オジサンだって知ってたからちょっとサービスしたけどさっ……」
光りあふれる扉の前で。彼は後ろを振り返る。最後に1つだけ、聞きたいことがあったから。
彼はきょとんとしている彼女に向かって、ずっと抱えていた疑問を投げかけた。
「なあ、君は……一体、何者だったんだい?」
何のことかと首をかしげたが、何やら納得がいったのか。自らの手をぽん、と叩くと
「? ……ああ」
満面の笑みをうかべながら、彼に向かって言い放つ。
「通りすがりの、ただのミカンです。じゃあねっ」