[完結]1-B 第七話 曲がれないなら曲げてしまえ
Y字路に佇む、風変わりなカーブミラー。そのカーブミラーから距離を取り、彼はミカンを握っていた。道路に引かれた白線を踏みしめ、目線はカーブミラーに付属する『←』のパネルへ。足を前後に開き、そして振りかぶる。
彼はその体勢で一息ついた後、振りかぶったミカンを――投げた。
しかし放たれたボールは目標から逸れ、カーブミラーのポール部分に命中する。弾かれたミカンは凹むこともなく、ぽてんと地面に転がった。
ふと転がるミカンに視線を注げば、辺りにも同じようにミカンが散乱しているではないか。
「はずれ。はい」
「くっそー……おう」
彼は今、カーブミラーに向かってミカンを投げ続けている。彼女にもらったミカンを使い、カーブミラーに付属する右側のパネルを狙い始めてもう何投目だろうか。カーブミラーの下にミカンのじゅうたんが出来そうなほどの数を投げているが、上手く的に当たったミカンは1つもない。
彼がミカンを投げ損じる度、彼女から新しいミカンが投げ渡される。なぜこんなことになっているかというと…………
「…………ホントに、俺がミカン投げるだけでいいのか?」
「いい。私のミカンは接触した対象を未完に戻せる。だから当てるだけで完成された左回りのループは未完成になる。右にある左行きのミラーを、右にある右行きのミラーに変える。書き変える事は出来ないけど、曲げることは出来る。『未完なら変えられる』。よってだいじょーぶ! OK?」
「(理屈が分からん……)なんで俺なんだ? 君ならミカンをこう、指で操ってさ。さくっとアレに出来るんじゃないか?」
「頼りっぱなしで情けないって言ってたのオジサンじゃない」
「いやそれは――」
「言ったよね?」
「言いました……」
「よろしい。……それにさ、ここに迷い込んだのも、この世界の核もオジサンなの。私はこの世界から抜け出す手助けはするけど、抜け出すのはやっぱしオジサンじゃないと、駄目」
「よく分からんが……まあ今さらだな。とりあえずやってみるわ…………」
こうして彼のおかしな投球が始まった。
彼自身よく分かってはいないが、やるべき事は簡単だ。今はただミカンを投げればいい。
彼女が『自分の手でミカンを当てろ』と言うのだから、やはり自分が当てなければならないのだろう。
だが不定形なミカンはなかなか思うように飛んでくれない。日頃の運動不足もたたってか、投げるミカンにも勢いがない。へろへろとあさっての方向に飛んで行くばかりだ。
そんな彼を、彼女は道路の脇にしゃがみこんで見守っていた。隣にある自動販売機にもたれかかりながら、こうつぶやく。
「……オジサンが当ててって言ったけどさ、なにもそんなに離れて投げなくてもいいんだよ? 『投げて当てる』さえ守ってくれたらいいだけなのに」
彼女の言うとおり、彼はカーブミラーから十数メートルは離れている。運動不足を自覚している人間が選んで投げる距離ではない。
「これでも俺は……なっ! ……クソっまた左か」
「はい次……これでも俺は?」
「あいよ……これでも俺はな、中学時代野球部だったんだ……ぜっ!」
「ハズレ……全然そうは見えないよ」
「最近運動してなかったからだよ! 俺だって昔はもっとマシにだな――」
「それ長くなる?」
「……から止めとくわ」
「そ。なら昔語りする前にミカン投げよ?」
「ハイ……」
彼女に軽くあしらわれながら、彼の投ミカンは続く。
だが何かが足りないのか、当たりそうになったミカンも当たる直前で急に軌道が変わってしまう。失速するミカンや、謎の浮き上がりを見せるミカンまであった。
一体何が駄目なのか、彼にはすこしも分からない。
だが今はそんなことはどうでもいい。ただあのミラーに当たるまで、この手のミカンを投げ続けるだけ。
細かい思考は置き去りだ、前だけ向いて投げろ、この手のミカンを叩きこめ。今はただ、それだけだった。
(当たらないなら、当たるまで続ける。こっんな……ひたむきなのは……いつ以来だ?)
「残念。一回ミカン集めるね」
彼の投げ損じるミカンが一定量に達すると、彼女がミカンを操り彼の足元に移動させる。
ミカンを回収する必要がないのは楽だが、ただ投げるだけでも重労働だ。すでに彼の息は上がってきていた。
(……ったく。ホントに身体なまってんな……)
いつもと同じく、彼の口からは愚痴がこぼれる。自らを嘆き、卑下する言葉が連なっている。
(でも……)
だがその色合いは、先ほどまでの彼とは変わってきている。
(ここで近くに移動すんのは……ナシだろ!)
彼の全力投ミカンは、カーブミラーの縁に当たって弾かれた。
「惜しい。今の感じでいけばいいかも」
「あいよ!」
自らを鼓舞する声も、心の内から湧き出し始めた。おのずと投げるミカンの勢いがます。心に色がつくように、投げるミカンに光が瞬く。
(情けねえのを通り越して……笑えてくる……ぜっ!!)
だか彼は気付かない。そんなことはどうでもいいと言いたげに、次のミカンを握りしめる。
「たぶんもうちょい抑えて……なんか元気になってきてない?」
「そうか? もう汗だくのバッテバテだぜ? だか……らあぁ!!」
「ハズレ。絶対元気になってるよね。やる気が出てきたとかなのかな」
「やる気か。そうかもな!」
自信なさ気な彼はどこにいったのか。悩みが失せた彼の言葉は、ただまっすぐに。
「今なら近付いて投げてもいいんじゃない?」
「いや、駄目だ」
「なんで」
「男にはな……意地ってもんが、あるんだ……よっ!!」
彼のミカンもまっすぐに。ミラーに向かって届き始めた。
「何ソレ。分かんないなー、そういうの」
「かも……なっ!」
いつからかだろうか。
くすみよどみ、暗い虚のようだった彼の瞳は。
「……っだあー! 今の惜しかったな。掴んできたぜ……」
まるで火が灯ったように輝き、ゆらめいていた。
「……まあそういうの、嫌いじゃないよ」
「……っだっ!」
何個目のミカンだったか。
彼が無心で投じたミカンは、ついに目標を捉えた。その直後。
オレンジ色のカーブミラー、その右側に付属するミラーに閃光が走った。ミラーに当たったミカンから、オレンジ色の光が辺りにあふれ出す。
そして光にあてられたミラーはぐるりと回転し――
表示が『←』から、『→』に変わる。ミカンが当たったところで、決して表示自体は変わっていない。だが回ったミラーは意味が変わり、指し示す方向がねじ曲がる。
左に巡り続けるカーブミラーは、今まさに右に曲がり、巡り続ける輪を抜けた。
「……った……」
彼が流した汗はどれほどか。汗が流した彼のうっぷんはいかほどか。
「っ…………」
彼が取り戻したのは。無くしていたのは、一体なんだったのだろう。
「やったね。おめでとう」
それが分かるのは
「……よおっしゃあああああああああああああああ!!」
それを取り戻した、今の彼だけなのだろう。