[完結]1-A 最終話 『彼女は頭の上にミカンを乗せていた。』 後編
オレンジ色の川にも終点はあった。
2人を乗せた舟は流れの端に到着すると、進路を下へ。
ゆるやかに高度を下げつつ地面を目指していく。彼女の力でゆっくりと、名残惜しそうに降りていく。
2人が降り立ったのは。ハジメが見知らぬ誰かに出会い、右に曲がったあのT字路の前。
「それじゃ。ここでお別れだね……もうあんなところに迷いこんじゃ駄目だよ?」
彼女は後ろ手に回して、少しかがみ込みながら笑いかけてくる。
今だ。今言わないと駄目だ。今言わないと、きっとこの彼女とは会えなくなる。
「あ……あのさ! 助けてもらっといて、ホント勝手だと思うんだけど」
「……何?」
わがままだと言われても仕方ない。だがそれでも、ハジメは彼女を手伝いたいと思った。
「また、あの変な世界に行ってさ。誰か迷い込んだ人を助けにいかないといけなくなったらさ」
ハジメはまっすぐに彼女を見つめる。まっすぐに、正直な思いを告げる。
「その時は、邪魔じゃない時だけでいいから……また、俺も一緒に行かせてくれないかな」
ハジメの言葉が、そんなにも意外だったのか。彼女はその大きな目を丸くし、そしてすぐに目を細めた。彼女は片足を宙に浮かし、前後に動かしながら上目遣いでこう切り出す。
「そんなの……おかしい。高梨君が自分から言うはずない。なんか無理してない? あの人に変なこと吹きこまれた? 別に私、手伝ってもらわなくても――」
あいにくとハジメは察しがいい方ではない。だから彼女の真意も分からない。
「無理じゃない。それに忠芳さんに言われたからでもない」
だけど欲しい答えはすでに決まっている。
「俺自身が、また行きたいと思ってるし」
だからここは、一歩も引かない。
「それに……君のことを手伝いたいと思ってる……駄目、かな」
「……この世界の高梨君は……なんというか、意外だ」
「なんだよソレ」
「うん、意外だよい・が・い! いきなり変な事言う意外マン!」
彼女はその場で片足を軸にくるくる回る。顔に浮かべる真意を隠すように。
「そうだなー……うん、そうだ」
彼女はハジメに背を向けて止まり、少し考え込む。
独りで何かを決め、ハジメの方を振り向いた時には。
その顔には満面の笑みが広がっていた。
「……なら、高梨君。不本意だけど、まあいいでしょう。次があったら、またよろしくっ」
「……ああ! こちらこそ」
次の約束も取りつけた。後は何か思い残しはないかと、頭の中を探ってみれば。
ハジメは大事なことを聞き忘れていたことに気付いた。あわてて彼女に問いかける。
「あー……ゴメン! 急だし、すごい今さらだと思うんだけどさ……君の名前を、教えてくれないか?」
聞き忘れていた事。それは彼女が一体何者なのかと言う事。ここまでなあなあで済ませてきたが、やはり彼女が自分のよく知る誰かだとは思えない。もしかすると人違いじゃないかと、ハジメは彼女に名前を聞いた。
彼女は突然のことに顔をきょとんとさせ、停止した後
「……あはははははっ何それ。てっきりとっくに気付いてるのかと思ってたのに」
吹き出すように笑いだした。特に怒ったりはしていないようだ。
「ごめん、ホントごめん。悪いとは思うんだけど、どうしても思い出せなくて――」
「そんなにこの世界の私とかけ離れてるんだね、あー笑った」
ばつが悪いハジメは、右手を首に当てて黙るのみ。
彼女は目元に浮かんだ涙を片手で拭いながら、笑いながらこう言うのだった。
「…………私は『ミカン』だよ。高梨君のよく知る、冴えないどこにでもいそうな、ただのミカンだよっ」
「え、なんだっ――」
彼女の名前を聞き取る寸前。後頭部に強い衝撃を受け、ハジメは意識を失った。
ハジメは見落としていた。ハジメと楽しそうに話しながら、彼女が後ろ手に回した指先でミカンを操作していことを。
そして操作するミカンを、人知れずハジメをの背後に移動させていたことを。
――――――――――◇◇◇――――――――――
ふと気が付けば。ハジメは自宅の玄関前で倒れこんでいた。顔を照らす朝日が眩しい。
痛みを覚える後頭部をさすりながら。ハジメは立ち上がり、家の中へと帰っていった。
(……この感じ。またミカンぶつけられたな……)
自室に戻り、ベッドに倒れこみ。ハジメは天井を見上げながら、今夜のことを思い返した。
(夢みたいな出来事ばっかだったな。むしろ夢だったら良かったことばっかだった)
だが夢でなかった。後頭部に残る痛みが、ポケットで膨らんだ梨の重みが。そして彼女のあたたかさが、ハジメの内に残っている。
だから今夜の出来事は、夢なんかじゃなかった。
(今さら眠る気にもなれないし……ちょっと書いてみようかな)
そういえば自分は何かネタを探しに散歩に出たのだった。思えば軽い動機で始めた散歩。
それがみるみるうちに、ちょっとしたネタどころではない出来事になり。そしてまた、あのおかしな世界に向かわなければならなくなってしまった。
彼女とまた会う日までに、それにクラスメイトに進捗を説明するために。今日あった出来事を、少しでも自分なりに、白紙の小説に想いを走らせてみよう。
そうと決まれば善は急げだ。ハジメはベッドから飛び起き、近くにある机に向かった。
書けない時は、彼女の言葉を思い出そう。高望みはしない、最初の一歩からは誰だって上手く出来っこない。
その上で、最初最初の第一歩。書き出しが思い浮かばないなら……
(最初に思いついたことを素直に書いてみる、か。……なら、書き出しはこれしかないよな!)
椅子に座りパソコン、そしてエディタを立ち上げる。
そうして最初に打ち込んだ一文は――
「『彼女は頭の上にミカンを乗せていた。』」