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うつぶせ水

作者: 短小マン
掲載日:2015/06/18

 うつぶせ水とはD県H郡のK川を流れる水のことだ。普通の水も流れているが、その中にうつぶせ水が混ざっている。一見すると、それは普通の水である。実際、川に足を入れたり、仰向けに入ったりする分には何の問題も無い。問題はうつ伏せに入った時だけだ。

 うつぶせになってうつぶせ水の中に入ると、うつぶせ水は意思でも持っているかのように胃袋の中に溜まっていく。あっという間に腹がはち切れてしまいそうになり、犠牲者はその重みで沈んでいく。仰向けになろうとしても、もう遅い。うつぶせ水の比重は水より重く、犠牲者は身動きが取れなくなる。どんどんと沈んでいき、最後に犠牲者は溺れ死ぬ。

 やがて、溺れ死んだ犠牲者は水の中で腐敗して、腹が破れて水面に上がる。そうして、ようやく犠牲者はうつぶせ水から解放される。

「どうかな」と私は平沼に、うつぶせ水についてまとめたレポートを読ませた。

「どうって。まあ、物騒ですね」と平沼。

 そのあっさりとした物言いに私は情けないと溜め息を吐く。平沼は私の生徒であるが、知的好奇心が致命的に不足している。超常現象科の生徒として自覚が全く足りない。その事を以前指摘してみたら「だって、俺でも入れる大学で、授業料が一番安いのがここだったんです」と現実的なことを言ってきた。超常現象をなめんな。

「ともかくだ。私はこのうつぶせ水について詳しく調べてみたいと思うんだよ。実際、一度うつぶせ水のサンプルを手に入れるため、D県H郡のK川まで足を運んでみたくらいだ。けれど、そこでいくら水をすくってみても、それは普通の水と変わりなかった。そこで平沼君……」

「いやですよ」

「まだ、何もいっていないじゃないか」

「言わなくても分かりますよ。どうせK川でうつぶせになって、腹に水を溜めてくれって、そんな話なんでしょう?」

「なんだ。しっかりと理解しているじゃないか」

「冗談じゃないですよ。だってうつぶせ水を飲んだら、死んでしまうんでしょう?」

「死にはしないよ。重さで引きずり込まれるだけだ。そこはちゃんと対策をする」

「対策できるなら教授がやればいいんじゃないですか」

「私に何かあったらどうするつもりだい!」

「俺だって、何かあったら大変ですよ!」

 どういうわけか、平沼はうつぶせ水捕獲トラップとなることに消極的だった。弟子の分際で、こしゃくにも師匠に逆らおうとしている。教授と学生の命を比べれば、どう考えても教授の命が尊い筈なのに、自由と平等という世迷い言を言ってくる。おのれ、民主主義め。激昂した私は、発作的にロベスピエールを罵りたい気分になったが、ロベスピエールは、どっちかというと社会主義の父だ。それに、今は主義主張や国体を語り合う時間ではない。私は太陽と北風の話を思い出す。今の私は北風だ。このままでは平沼を説得することはできない。どうにかして太陽となって、平沼を懐柔するべきだ。

「……わかった。そんなに嫌がるなら私も考えよう」

「分かってくれましたか」

「ただ」

「ただ?」

「H郡はな。あまり人の住んでいない集落で、泊まれる場所は一つしかないんだ。Aという民宿で、いや、農家がとりあえず民宿という形で民家を開放しているといった方が近いかな。そういう場所の所為でね、部屋が一つしかないんだ」

「お、大鳥教授!?」

 私は白衣を脱いだ。下は動きやすいホットパンツにシャツが一枚。超常現象を調査するということは、文化人類学者の如くフィールドワークに出るということだ。だから私は、常に動きやすい服装を心がけている。自然と露出も高くなる。身体のラインも露わになり、胸や尻も強調される。

 私は強調された胸を平沼の腕に押し付ける。割と大きい方だから、きっと心地良いはずだ。

「ちなみに客用の布団は一組しかないんだそうだ。だから、K川へ調査に行くと、君と同衾する事になっていた。だって、仕方がないんだよ。布団は一つしかないんだからね」

 商売女がするように、私は平沼にしなだれかかった。触ると体温はそこそこ高い、ふと健康状態が気になって、肌の露出している鎖骨辺りを撫でる。「ひゅうっ」と平沼は奇声を上げた。

「なんだ。君は意外とかわいいな」私は耳元で囁いた。

「あ、あの、俺は……」

「私と一緒にK川に来れば、一緒の布団でもっと仲良しになれるぞ。さ、どうする?」

 少しの間、平沼は迷っている様子だった。下半身と上半身、それが激しく戦っていた。けれど、こうした勝負でどちらが勝つのかは昔から決まっている。

「やります、教授と一緒にK川に行きます!」

「よし、よく言った。お前は男だ!」

 私は平沼のほっぺたに、前払いのキスをしてやった。


 それから、私達は飛行機でD県へ向かった。

 列車で行くにはD県は少し離れすぎている。そもそもD県へ直通する列車はないため、幾つもの路線を乗り継いでいかなくてはならないし、その乗り継ぎの途中には悪名高いS線のF駅がある。その駅に近い集落には乱暴者の因習が根付いており、旅行者は――特に女性はF駅を避ける。それは、股の間を潜られたものは、股を潜ったものに隷属しなくてはならないという風習があるからだ。その為F駅には近くの集落から来た男達が、乗客の股を潜ろうと虎視眈々と狙っている。何も知らずに来た女達の股を潜って奴隷にしようと待ち構え、その姿は傍から見るとユーモラスだ。ある意味でそれはF駅名物のようなものであるが、物騒な名物なので観光誘致には向かず、乗換駅であるというのに、F駅はS線でも特に利用者の少ない駅となっている。文化人類学であれば、どうしてそんな風習が発達したのか気になるところだろうが、私は超常現象学者であって文化人類学者ではない。単純にF駅を避けるだけだ。

 閑話休題、私達は飛行機でD県へとやって来た。タクシーを拾い、途中で青年団の寄り合い所に立ち寄って、調査協力を取り付けてから旅館Aに泊まった。平沼と同じ布団で一夜を過ごした。

 そして翌日、私はK川河原に立っている。平沼は青年団が組み立てた即席のクレーンに吊されている。

「調子はどうだ。平沼」と私が声をかけると、彼は寝不足の赤い眼で私の事を恨めしそうに睨んだ。

「詐欺だ。これは詐欺ですよ」

「なにを馬鹿な事を言っているんだ。同じ布団で一夜を過ごす。そこに嘘偽りはなかったぞ。君はいつでも私を襲う事が出来た。けど、しなかった。それだけじゃないか」

「しなかった、じゃないですよ。できなかったです!」

「できないという事はないだろう。私は君を物理的に拘束しなかったぞ」

「確かに物理的にはしてないですね。でも、倫理的にはしたでしょう! あの民宿……って言うか小屋! 部屋が囲炉裏部屋一つしかないから、民宿を経営しているご夫婦と相部屋だったじゃないですか! 隣で宿屋のご夫婦が寝ているのに、どうして教授を襲えるんですか!」

 平沼はロープでつり下げられながら、血の涙を流して叫んだ。その声は、森深いD県の山へと吸い込まれていく。K川もうつぶせ水などないように、さらさらと音を涼やかな音を立てながら流れていく。

 やはり大自然は偉大だ。童貞の血の叫びすらも簡単に飲み込んでしまう。

「教授先生、セッティングが終わりました」と青年団の古賀君が知らせてくれた。

「ああ、すまないな古賀君。では、準備も整ったことだし平沼君。さっそくじっけ……ではなく、サンプル採取を開始するぞ」

「ちょっと待って! 俺の訴えは無視なんですか!? あと、今実験って言いましたよね!? さんざん焦らしてお預けして、人をモルモット扱いですか!」

「言葉のあやだよ。結果的に実験ができると言うだけだ。それにだ、昨日のアレは私に全く非がないぞ。単に君がいくじなしだっただけだ」

「そんな無茶苦茶な」

「そうかなぁ。古賀君達はどう思う?」

「はあ、自分なら普通にやっちゃいます。というか夜這いする時とか、そんな状況当たり前っていうか」「だよな」「他人なんか気にしないよな」「むしろ見られてる方が興奮するし」「うちは女兄弟が多いけど、姉ちゃんがやられてても、ぜんぜん気にしない。来たか、ってぐらいにしか思わん」

「なんだよここ!? 本当に日本か!?」

「日本だよ。西洋の考え方に毒される以前の、性におおらかだった頃の日本の姿だ。嬉しい事に、地方にはまだ、こういう文化が残っているんだな」

 貞淑や裸体に対する極端な恥じらいは、日本という文化の中には存在しなかった。それは全て西洋よりやって来たもので、日本が元来持っていた物ではない。かつての日本は美しい世界だった。優れた人間が下等な人間を支配する封建主義の世界が根付いていたのだ。

「つまり、ここでは私は神に等しい!」

「ちょっと待てよ!?」

 平沼がなんか叫んでいるが、私は青年団に合図を送る。彼らは何の躊躇いもなく、平沼をK川へと沈めた。「おい、やめろ!」と平沼は叫ぶが、偉大なる私の命令に、青年団は素直に従う。

「やはり、民主主義が浸透していない社会は最高だ!」

 私は気持ち良く高笑いをしながら、うつぶせ水の流れる川にモルモットを沈めた。


 しばらくの間、平沼は水面でもがいていた。

「どうだ平沼君。うつぶせ水は入ってきてるか?」問いかけてみたが、平沼はウンともスンとも言わない。「入っているなら右手。入ってこないなら左手を挙げるんだ!」と言ってみたが、聞こえているのかいないのか、何のリアクションも取らない。

「教授先生。そもそも水に沈めていたら話せませんし、拘束しているから手も上げられません」

「それもそうか」

「それより、そろそろ引き上げたらどうでしょうかね。もう一分ぐらい漬けていますし」

「そうか? せめて十分ぐらい漬け込んだ方が、ちゃんとした実験結果が出ると思うが」

「人間は十分も息を止めていられませんよ、訓練して三分がせいぜいってところです」

「ふむ。そうか」

 青年団の忠告に従って、私は平沼引き上げの指示を送る。だが、水面の平沼は動かない。それどころか、少しずつ身体が沈んで行ってしまう。

「一体どうした青年団!」

「そ、それが引き上げようとしているんですが、全く動かなくて…………ぎゃああっ!!」

 指揮をしていた古賀が悲鳴を上げた。平沼を引き上げようとして弓なりとなっていた木製クレーンが、根本から壊れてしまったからだ。へし爆ぜた木材の破片が青年団に襲いかかり、彼らの顔に木っ端が突き刺さる。悲鳴が山間の村にこだまする。

 これでは平沼を引き上げられない!

「平沼ッ!!」

 私はK川に飛び込んだ。

 注意すべきは絶対にうつぶせにならないことだ。だから、私は仰向けでK川の底へと潜って行く。水面を仰ぎ見ながらの潜水だ。これは非常に骨が折れる。平沼は下に居るはずなのに、私は上を見続けなくてはいけないからだ。

 仰向けになって沈んでいくと、何かが背中に当たった。平沼かと思ったが、それを確認する手立てはない。振り向けば、私はうつぶせになってしまって、うつぶせ水の餌食となる。横に泳いで、下に潜るように潜る。何かがあった場所を確認。そこには何も無かった。さっきまで背に当たっていたものは、どこかに流されてしまったのか、あるいは最初からなかったのか。うつぶせ水が惑わしているのか。

 川底を目指す事にした。そこから水面を望めば、平沼もきっと見つかるだろう。だが、途中で息が苦しくなる。古賀が言っていたな。人間は訓練しても三分程度しか息を止めていられないと。逆に言えば、三分間は息を止めていられるという事でもある。まだ一分しか経っていない事にした。そう決めてしまえば、私の時間はあと二分もある。私は平沼探しを続行した。

 底に着いた。川底と水面の間に平沼の姿は無い。もうとっくに沈んだのか、あるいは神隠しにでも遭ったのか。最悪の想像が私の脳裏をよぎった。だが、民主主義に平沼を殺させるわけにはいかない。アレは私の可愛い弟子だ。

 肩に何かが触れた。横目で見ると、うつぶせになった辛気臭い顔がある。平沼だ。私は彼の下に潜り込んで、口に酸素を吹き込んだ。平沼は私の酸素を追い出してしまう。まるで、異物を吐き出すような調子。うつぶせ水の所為だ。

 私は平沼の身体をひっくり返す。すると、光り輝く塊が平沼の口から飛び出した。どんどん出てくる。それは発光するスライムやゼリー、そんな感じのものが平沼の肺と胃袋を満たしていたようだ。それは一つの塊となって、私達の周りをぐるぐると回った。肉食獣が獲物を狙う仕草に似ていて、私達を虎視眈々と狙っているようだった。だが、私達が仰向けで浮上し続けていると、諦めたように、どこかへと消えてしまった。

 私と平沼は無事、生還した。


「とんでもない目に遭いましたよ」と無事退院した平沼が私を不遜にも私を睨む。

「いいじゃないか、生きていれば丸儲けだ」と私は特に気にしない。

 実際、私は機嫌が良い。病院でしっかりと検査をした結果、平沼の体内からは地球上の生命とは思えない体細胞組織が残されていた。当初の目的だったうつぶせ水のサンプルが手に入ったのだ。その上、うつぶせ水の観察までできた。本当に素晴らしいフィールドワークだった。

 調査はまだ途中であるが、うつぶせ水は不定形の液状生物であるという事は間違いない。その起源がどこにあるのか。どうしてうつぶせの人間しか襲わないのか。それはまだ調査の途上だ。

「冗談じゃないですよ。本当にいい目に一つもあってないし……」

「なんだ。君はいい目に遭いたかったのか。なら、今襲えばいいんじゃないか? ここは私の研究室で、他に人は来ないんだぞ?」

「で、でも……」

「なんだ。やっぱり君はいくじなしだなぁ」

 その瞬間、目の色が変わった。分かりやすいなと思いつつ、襲われやすいように机の上に腰掛けると、平沼は私に覆い被さってくる。

「教授……ッ」

「平沼君、少し鼻息が荒い。私は逃げないから少し落ち着きなさい」

「だって仕方がないじゃないですか! 教授が俺を誘うから……」

 誘った?

 誘ったかなと今までの言動を思い返すと、確かに誘っているみたいだ。今回は随分と酷い目に遭わせたから、穴埋めをさせてやろう。その程度の気持ちだったのだが、我が身を振り返ると発情して誘っているみたいだ。

 まあ、いいか。

 私は平沼に身を任せようとする。

 その瞬間、私のデスクで呼び出し音が鳴った。その音に驚いて、平沼は部屋の隅へと後退る。「君は獣か」と呆れつつ、受話器を取ると、電話は解析を依頼していた研究所からのものだった。しばし真剣な顔で電話。話が終わって、「あの、教授……」と半裸の平沼が私を伺った。だが、今はそれどころではない。

「北アメリカで採取された飛翔するクラ―ケンのサンプル。これがうつぶせ水のものと似ているという話があった。そういう訳で、私はすぐに北アメリカへ飛ぶぞ! で、来るかね平沼君。続きができるかもしれないぞ?」

 少しの間、平沼は私の顔をじっとした。それから、やけくそという調子で叫ぶ。

「行きますよ! 行けばいいんでしょう!?」

 その様が面白かったので、私は笑いながら「よし!」と言った。


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